[演劇] ニール・サイモン『ブライトン・ビーチ回顧録』

[演劇] ニール・サイモン『ブライトン・ビーチ回顧録』 東京芸術劇場 10月1日

(写真は舞台、7人家族の物語で、左端、中央後ろ向き、右端が大人たちで、それ以外の4人が子供たち)

f:id:charis:20211002085806j:plain

ニール・サイモンは初めて見るが、アメリカ演劇によくある、家族の葛藤を描いたもの。小山ゆうな演出で、一人一人の人物造形が丁寧、そして舞台が美しい。一階が食堂、二階も部屋に壁がなく剥き出しで、家族のそれぞれが「今ここで」何をしているかが、観客にぜんぶ分る。閉ざされた部屋の同時開示は、映画やTVドラマではできない仕掛けなので、演劇空間の活用がうまい。(写真↓は、2回に住むノーラ16歳とローリー13歳の姉妹、ユージン14歳とスタンリー18歳の兄弟)

f:id:charis:20211002085827j:plain

f:id:charis:20211002085846j:plain

ニール・サイモンの自伝的な劇で、登場人物の名が、「ユージン」「ブランチ」「ノーラ」など、サイモンが尊敬する劇作家や劇中人物から採られている。家族劇であると同時に青春劇でもあり、少年少女の「性の目覚め」が明るくコミカルに描かれていて楽しい(ヴェデキント『春のめざめ』とは大違い)。そして、大恐慌のさなかで、第二次大戦直前の1937年のニューヨーク、貧しいユダヤ人家庭も多く、しかもヨーロッパから同じユダヤ系の親戚が殺到しつつある、当時の切迫した社会状況がよく分かる。その意味で、非常によくできた作品だと思う。(↓14歳のユージンはとても可愛い)

f:id:charis:20211002085924j:plain

しかし私には、ここで描かれている「家族」に、かすかな違和感を感じる。5年前に観たトレイシー・レッツ『8月の家族たち』もそうだったが、アメリカ人には「家族」に対する日本人にないような特別な思い入れがあるのだろうか。大統領選挙のときに、必ず候補者が家族揃って登場するのも不思議だし、自分が子供のとき見たTVドラマ『名犬ラッシー』でも、「うちとはずいぶん違うなぁ」といつも感じていた。本作も、アメリカの中・下流ユダヤ人家庭だからという以上に、普遍的にアメリカの家族が描かれていると思う。私が一番違和感を感じるのは、親と子がこのような会話をするだろうか、という点にある。特に父親。本作の父親のジャックのように、家では威張って居て、偉そうに子供に説教をたれるが、その実、「一家の責任者は俺だ」と強い自負心と家族への深い愛情をもっているという父親は、私にはどうもピンとこない。家族の葛藤も、たとえばチェホフの家族のそれ、すなわち、誰もが自分の悩みを熱心に語るが他人が悩みを話す時はろくに聞いていない、あのちぐはぐさに、ずっとリアリティを感じる。それに対して、アメリカの家族は、夫婦が、親子が、姉妹が、自分の気持ちを真っ向から相手にぶつけ、言葉で正面から激しく渡り合うというのが、私には不思議に感じられる。本作の場合、居候で養ってもらっているという弱い立場ゆえに、抑えに抑えてきた不満が、あるとき逆に激しく噴出してしまう点があると思う。「貧すれば鈍す」と言うが、経済的に困窮すれば他人を思いやる余裕がないのも分かる。しかしそうした葛藤が美しい家族愛によって解決されるというのは、どこか嘘っぽい。どこまでも家族愛の困難さを凝視したチェホフの方に、リアリティを感じてしまう。アメリカの家族でも、『ガラスの動物園』のそれはチェホフ的で、家族はバラバラになってしまうが、こちらの方が真実に近いのではないか。俳優は、どこか嘘くさい父親ジャックを演じた神保悟志がとてもよかった。

今日のうた(125) 9月ぶん

今日のうた(125) 9月ぶん

 

人流といふ語訝(いぶか)し夏の暮 (穴沢秋彦「朝日俳壇」8月29日、高山れおな選、コロナの感染者数が増えて、菅首相などは「人流を〇〇パーセントにしてほしい」とか言った、「人流」という曖昧で抽象的な語を使うのは、政府の無責任な対応の表れではないのか) 9.1

 

テレビ切れば晩夏の顔の映りけり (中村弘一「東京新聞俳壇」8月29日、石田郷子選、テレビを消した途端、暗くなった画面に自分の疲れた顔が映り、ハッとすることがある、なぜかあまり快いものでないのは、映画館を出て現実世界に引き戻されるときと似ているからか) 9.2

 

深呼吸、笑って歌って筋トレも脳トレもして死ねない老人 (榎本久「東京新聞歌壇」8月29日、東直子選、「「死なない」ではなく「死ねない」としたところにアイロニーが漂う」と選者評、いい味のあるアイロニーだ、健康で長生きなこと、それは誰にとってもよいことなのだから) 9.3

 

うちにきてよかったやろと語りかけ犬逝きて知るよかったのは我 (秋山行信「朝日歌壇」8月29日、高野公彦選、捨てられた子犬を拾ってきて育てたのか、その愛犬が老いて死んだ、いつも「うちにきてよかったやろ」とか犬に言っていたが、愛され、癒されたのは自分の方だったと気づく) 9.4

 

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高濱虚子1908、9月14日に松根東洋城から「センセイノネコガシニタルヨサムカナ」と、漱石の飼い猫の死を伝える電報が来た、その返電、「我輩は猫である」の猫さんか、漱石、虚子、東洋城は句友同士、弔電も俳句で遊ぶのがいい、今ならLINEか) 9.5

 

蝙蝠は天の高きに飛びて焼けぬ (橋本多佳子1936『海燕』、前後の句に「夕焼け」とあるから、この「焼けぬ」は、「コウモリがあまりに高く飛んで、夕焼空と一体化した」という意味、蝙蝠をダシにして「夕焼け」の美しさを詠んだ)  9.6

 

満月のなまなまのぼる天の壁 (飯田龍太1951『百戸の谿』、「満月が東の空から登り始めた、そういう時の満月は血のように「なまなま」しく赤い、「天の壁」に貼り付いたまま登ろうとしているかのようだ」)  9.7

 

陵(りょう)寒く日月(じつげつ)空に照らしあふ (山口誓子『黄旗』1935、前年に、奉天の北陵で見た光景、寒々とした旧宮廷の「稜」の付近、乏しい落日と月との両方が空に見える、誓子を「幾百年に一人の天才」とする小西甚一は、本句を蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」に比す)  9.8

 

別れ来て対(むか)ふ声なき扇風器 (石田波郷『風切』1943、自室で友人と談笑したあと、帰る友人を外まで見送り、また自室に戻った波郷、あいかわらず扇風器が回っている、でもなんだか寂しい、扇風器も自分と同じように、もっと彼と談笑していたかったのだ) 9.9

 

母老いぬ裸の胸に顔の影 (中村草田男『長子』1936、高齢の母が布団のうえに座ったまま、しばらく立ち上がらない、寝間着がはだけて胸が見えている、そこは前かがみに伏した顔の影になっていて、暗い) 9.10

 

白樺を幽(かす)かに霧のゆく音か (水原秋櫻子『新樹』1933、上高地滞在の句、人声もなく、歩く音も、車もなく、風もない、とても静かだ、でも、ほんの「幽か」に、あの霧が、白樺の樹の間をゆっくりと流れてゆく音が聞こえるようだ) 9.11

 

振分けの髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は髪を左右に分けてわりと短く切り揃えている、少女っぽいなぁ、青草で束ねているのは、髪が早く伸びてほしいからなんだね、あぁ、なんて可愛い君!」) 9.15

 

思ふとも恋ふとも逢はむものなれや結(ゆ)ふ手もたゆく解くる下紐 (よみ人しらず『古今集』巻11、「彼女は高貴な人、僕がどんなに恋しても逢えるはずないんだ、なのに今夜は、結ぶ手がくたびれるほど、下着の紐が何度も解けてしまう、ひょっとして彼女に思われているのか?」) 9.16

 

かけて思ふ人もなけれど夕されば面影たえぬ玉かづらかな (紀貫之『新古今』巻13、「貴女は私のことを心に懸けてくれない、でも私は、夕方になると、このように貴女の顔が心に浮かび、ちらついて離れないのです」、「玉かづら」は女性の髪飾りだが、「顔」の意に使ったのが優美) 9.17

 

逢ひ見むと思ひな寄りそ白浪の立ちけん名だにをしき水際(みぎは)を (参河という女『千載集』巻12、「どうか貴方は、私に思い寄ろうなどと、近寄らないでください、白浪が立つように浮名が立ったらまずいでしょうに」、寄り/立ち/白浪/水際と縁語を連射し、言い寄る男をかわす) 9.18

 

つらしともあはれともまづ忘られぬ月日いくたびめぐりきぬらん (式子内親王『家集』、「つらいと思いながら、愛おしいと思いながら、私は貴方に恋をしました、あぁ、どうして忘れられましょう、あれからどんなに長い月日がめぐったというのでしょう」) 9.19

 

(ねじ)れつつ立ち直りつつ噴水を支えいるのは水の軟骨 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、噴水はさまざまな理由でさまざまに水が動く、噴水自体が動くこともあり、固定した噴水に風が吹いて水が揺れることもある、水が「ねじれたり」「立ち直ったり」、まるで「軟骨が支えいる」みたい) 9.20

 

歩道橋がみもふたもなくかかってる道路に沿って歩くと夕日 (永井祐『文學界・2021年3月号』、ほとんどの横断歩道橋はまったく美的ではない、たしかに「みもふたもなくかかってる」、この歌に言われてみて、やっぱりと思う、短歌は日常のかすかな知覚経験をスパッと意識化できる) 9.21

 

「綺麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」 (穂村弘『ドライ ドライ ドライアイス』1992、穂村弘は従来の短歌では詠まれたことのない新しい情景や感情や抒情を詠み、短歌の真の革命者と言えるが、女の子の発話にしたこの歌もとても新鮮) 9.22

 

ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで (加藤治郎『サニー・サイド・アップ』1987、当時加藤は俵万智と並んで「ライトヴァース」の代表と言われた、本歌も軽快な韻律で自分の短歌を自己認識している、だが現在ではあまり「ライトヴァース」という語は聞かれない) 9.23

 

(結婚+ナルシシズム)の解答を出されて犀の一日である (萩原裕幸『あるまじろん』1992、たぶん短歌会の題詠として「結婚+ナルシシズム」をテーマとする歌が集まったのだろう、だが、いいテーマなのに、提題者の期待に反して、いい歌が少なかったので「犀になった」のか) 9.24

 

<我>といふ貨車引かれゆく実感のさびしさの行き止まりで覚めたり (大口玲子『東北』2002、夢を見たのだろう、確かに現実の「引かれてゆく貨車」にはどこか寂しい感じがある、夢の中で作者は、貨車に乗っているのではなく、自分が貨車になって「引かれていく」と感じているのか) 9.25

 

デジタルにすべし脅しに使うべし (石田柊馬『はじめまして現代川柳』、アナログはソフトで柔らかなのに対して、デジタルは黒白の二進法だからハードで固いイメージがある、石や刃物と同様に「脅しに使える」のだ、「マイナンバーカードを作れ!」もデジタルだからこそ) 9.26

 

ほれるかほれるかと茶をくらつて居(い) (『誹風柳多留』、註によれば「茶屋女がいつ惚れてくれるかと期待する」とある、「茶屋」もいろいろだろうが、「茶屋女」とはホステスなんだね、惚れられることを期待して茶屋に通ったオヤジも多かったのか) 9.27

 

オルガンとすすきになって殴りあう (石部明『はじめまして現代川柳』より、かなり長身の人が、体を大きくねじり、撚じり、激しく揺れながらオルガンを弾いている、まるで「オルガンと殴りあっている」ようだ) 9.28

 

御代参ころんで帰るせわしなさ (『誹風柳多留』、「御代参」とは、江戸城の御殿女中が将軍の妻の代理として、神社に参詣すること、「ころぶ」とはねんごろの彼氏と同衾すること、「せわしなさ」がいい、大急ぎでラブホテルに寄り道する感じだ、自宅で夫とではない) 9.29

 

椅子に手があったら愛をはがいじめ (海地大破『はじめまして現代川柳』より、長椅子に恋人同士がラブラブで寄り添っているのだろうか、嫉妬した長椅子が「はがいじめにしてやりたい」と羨ましがる、いや嫉妬しているのは恋人とたちを見る人間だろうか) 9.30

今日の絵(16) 9月後半

今日の絵(16) 9月後半

 

18 ジェンティレスキ : 自画像

しばらく若桑みどり『女性画家列伝』により、自画像を、アルテミジア・ジェンティレスキ1593~1652は、ヨーロッパで一流画家として活躍した初めての女性、父も画家だが、「当時としては異例な闘争的な」女性だったといわれる、自信に満ちた表情が素晴らしい

f:id:charis:20190721163255j:plain

19 カウフマン : 自画像

アンゲリカ・カウフマン1741~1807は、スイス出身、父は二流の画家だったが、一家でローマに移住し、アンゲリカはローマ随一の人気画家で名士になった、彼女の崇拝者やパトロンは多く、ヴィンケルマンや若きゲーテも彼女のアトリエを訪れた、四カ国語を操り歌も玄人はだしの才女

f:id:charis:20210927132919j:plain

20 エリザベート・ヴィジェ・ルブラン : 自画像

彼女1755~1842は、若くしてマリー・アントワネット付き肖像画家になり20枚以上も彼女を描き、宮廷の美女たちをたくさん描いた、この自画像は18歳頃で、彼女自身も非常な美人、若桑みどりによれば、この時代、本人が美人でなければ女性画家として成功できなかった

f:id:charis:20210927132956j:plain

21 シュザンヌ・ヴァラドン : 自画像(パステル画)、1883

彼女1867~1938は画家ユトリロの母で、彼女自身も画家だった、肖像画というのは「眼」が一番むずかしい、眼は当人の内面を表しているからだ、他人の眼ではなく自分の眼を描く自画像では、画家はみな慎重に考えながら自分の眼を描いたはずだ

f:id:charis:20210927133020j:plain

22 ケーテ・コルヴィッツ : 自画像

彼女1867~1945はドイツのプロレタリア芸術家、版画が多いが、労働者階級の人々の働く姿を描き、特にそのたくましい手を強調した、魯迅がその版画を引用したり、日本でも宮本百合子が彼女を紹介した、これは珍しい自画像だが、強い意志を持つ女性であることが分る

f:id:charis:20210927133040j:plain

23 ナタリア・ゴンチャロワ : 自画像 1907

彼女1881~1962はロシアに生まれ、パリでキュズムなど前衛絵画の影響を受けた(この絵の色彩などに感じられる)、やがてロシアの伝統である民衆芸術を画風に採り入れた、生涯にわたってロシアバレエ団のディアギレフと共同作業をし、バレエ団のポスターもたくさん描いた

f:id:charis:20210927133106j:plain

24 レオノール・フィニ : サソリを持つ自画像 1938

彼女1907~1996はイタリア生まれ、シュールリアリズム系で、暗黒の中に特異な女性像を描いた、「過去に多く描かれた女たちのように即自的に性的であるか、無実な被害者を装うのではなく、悪意ある<性>の当事者であることを表明」(若桑みどり)、自画像にもサソリが

f:id:charis:20210927133132p:plain

25 河野桂一郎 : はじまり 2021

今年3月27日に白日会展でこの絵を見た、内閣総理大臣賞受賞作、描かれているのは画家の娘だろうか、この少女が「今ここ」にそのまま「いる」という感じ、画家を信じ切ってまっすぐに見詰める眼差しが、モデルであることを超えて、普通の自然な少女の目になっている

f:id:charis:20210927133156j:plain

26 中山忠彦 : 楽興 1995

中山の自註、「私は結婚してから50年間にわたって、妻をモデルにして女性像を描いてきました。・・それは女性美を描くにあたって、妻という一人の女性を窓口にして、普遍的な女性美を探ろうとしてきたからなのです。そのための方法として、女性が最も美しく装われた、19世紀のフランスの著名なデザイナーによって制作されたドレスを利用しています。なぜなら、一人の女性が衣装によって精神的作用を受け、変化する様子が見えてくるからです」

f:id:charis:20210927133228j:plain

27 藤田貴也 : Rina 2015

五か月要した大作、藤田は「人物が描かれた作品なら、誰がとか、性別とか、年齢とか、そういうものではなく<ヒトがそこにいる>と感じてもらいたい、そう感じる作品を作りたい」とも書いた、「そこにいる」という存在が「再現」されていること、これが人物画の究極の真理だろう

f:id:charis:20210927133244j:plain

28 松永瑠璃子 : untitled 2018

松永1990~は野田弘志に師事した若手の写実画家、この絵はタイトルにはないが自画像と思われる、人物画とは、「ヒトがそこにいる」という存在そのものを再現するものであるならば、この絵は優れた人物画だ、横から描いた眼にも視線の力がある

f:id:charis:20210927133306j:plain

29 綿抜亮 : 2011

綿抜1981~は若手の写実画家、九州産業大学芸術学部専任講師、綿貫は少女をたくさん描いているが、どの絵も強く惹き付けられる、美しい少女すなわち美少女を描いているのではなく、少女という存在そのものの美しさが表現されているからだろう

f:id:charis:20110816094641j:plain

30 本木ひかり :

本木1986~は写実の若手画家、ちょうど一年前にホキ美術館で、「第3回ホキ美術館大賞展」に出品されている絵を初めて見た、この絵ではないが、肉体の質感が見事に描かれていた、この絵も、強い視線が印象的で、肉体の逞しい美しさを感じる

f:id:charis:20210927133401g:plain

 

[演劇] デュレンマット『物理学者たち』

[演劇] デュレンマット『物理学者たち』 ノゾエ征爾演出 本多劇場 9月25日

(写真は舞台、サナトリウムだが実質は精神病院、天才物理学者メービウスと、それぞれニュートンアインシュタインの振りをしている某国の敏腕スパイ二人とが、すなわち三人の「患者」が、それぞれ看護婦を一人ずつ殺してしまう、バイオリン男は偽アインシュタイン)

f:id:charis:20210926111616j:plainf:id:charis:20210926111853j:plain

f:id:charis:20210926111641j:plain

デュレンマットの代表作だが私は初見。戯曲を熟読してから見たのだが、演劇というのはやはり、舞台を見なければ、こんな素晴らしい作品なのだということが分らない。会話の科白が絶妙なのは戯曲だけでもよく分かるのだが、この作品のポイントは、登場人物(それもニュートンアインシュタインのような第一級の知性的人物)が「狂気を装う」ことにあるから、ほとんどの科白が正気と狂気のぎりぎりの境界線上で発話されている。だからその緊張感は、戯曲のエクリチュールからではなく、俳優のパロールによってしか表現できない。本作の凄いところは、演劇としてほぼ完璧な構成、そして悲劇と喜劇の完全な融合、反転=「どんでん返し」があまりにも見事なことである。最後の最後になって、もっとも冷静な知性の人に見えた精神科医サナトリウム院長の老嬢マチルデだけが本物の狂人であり、あとはすべて狂気を装っているとことん正気な人物だったことが分る。しかも、本物の狂人マチルデは、三人の物理学者に自分の秘密を語る一瞬を除いては、まったく狂人には見えない。彼女は、精神科医であると同時に、メービウスが発見した物理学の新理論を使って、今までは夢だった新しい技術を現実化し、新製品を製造する天才的な企業家でもあることが最後に分る。終幕、彼女は会社の重役たちを招集した経営会議のために部屋を出ていく。たぶんここが、デュレンマットがもっとも言いたかったことなのだ。この作品は、キューバ危機の直後、米ソの核戦争の危機が現実にあったときに書かれた。つまり、核戦争のボタンを押す政治家が、まったく狂人には見えないこともありうると警告しているのだろう。狂気と正気の境界は、我々人類にとってそれほど困難な問題なのだ。それにしても、三人の物理学者を演じた男優だけでなく、マチルデを演じた草刈民代の名演には舌を巻いた。(写真下↓)

f:id:charis:20210926111734j:plainf:id:charis:20210926111758j:plain

終幕は原作とちょっと変えている。原作では、マチルデが出て行った後、三人の「物理学者」の自己紹介で終わるのだが、本作はその後に、メービウスの離婚した妻と子供たち、再婚相手の宣教師が登場して、元妻は「こんな辛い現実は、ユーモアがなければ目を開いて見ていることはできませんよねぇ」とにっこり笑いながら言う。こうして、悲劇と喜劇は最終的に融合される。(写真は↓違う場面だが、三人の子供たちと、元妻、新しい夫の宣教師[演出のノゾエ征爾が演じている])

f:id:charis:20210926111924j:plain

 

今日の絵(15) 9月前半

今日の絵(15) 9月前半

f:id:charis:20210916204535j:plain

1 Van Eyck : Portrait of a Man with Carnation, 1435

今日からは有名人ではなく普通の人の絵、みな堂々とした存在感がある、まずファン・エイクの「カーネーションを持つ男」、たぶん50代だろう、ものすごく小さいが、結婚の象徴であるカーネーションの花束を手にしている、この男にも「残り者には福がある」のだろうか

f:id:charis:20210916204608j:plain

2 Frans Hals : Fisher Girl, 1632

タイトルは「少女」だがやや老けて見える、しかしハルスの絵らしく、動作と表情が生き生きとしている、豊漁だったのだろうか、魚を掴んでいる少女は嬉しそうだ、後方に雲、舟の帆、小屋らしきもの、人、鳥などが見えて、空間そのものに活気がある

f:id:charis:20210916204653j:plain

3 Vacily Tropinin : The old man farmer, 1825

ヴァシリー・トロピニン1776~1857はロシアの画家、モルコフ伯爵に所有される農奴だったので完全に自由になったのは47歳頃、それ以降はモスクワの人気肖像画家として活躍した、この老人はずっしりとした存在感があるが、たぶん階級は低い

f:id:charis:20210916204724j:plain

4 Manet : The Smoker, 1866

モデルの人物はやはり画家のJoseph Gall、布地のコート、毛皮の帽子、パイプなど、絵を描くために着せたのだろう、背景も含めた灰色の基調、髭や肩のあたりの茶色、手にした布の水色など、落ち着いた色彩のバランスが美しい、前年のマドリード旅行でのベラスケス研究の成果

f:id:charis:20210916204815j:plain

5 Anker : Hohes Alter II (alte Frau sich aufwärmend), 1885

スイスの山村は寒い、台所にいる老女中だろう、彼女は「体を温めている」、下にある小さな火鉢のような容器から、手をこれだけ離して、水平にかざし、顔を含めた上半身は、これだけの角度をもって傾けている、そして視線をやや落とし、固い表情をしているのが非常にリアル

f:id:charis:20210916204843j:plain

6 Anker : Die kleine Kartoffelschälerin 1886

昨日に続いて、同じアルベール・アンカーの描いた台所風景、こちらは「じゃが芋を剥く少女」、顔からすると画家の娘か、机や壁の木の部分、古ぼけた食器、少女の衣服、じゃが芋など、その質感が丁寧に表現されており、横顔だが手先をしっかり見詰める視線も分かる

f:id:charis:20210916204915j:plain

7 Cezanne : The Smoker, 1890

「何よりも、習慣を変えずに年をとった人たちの姿が大好きです」とセザンヌは語ったそうだが、なるほどこれはそういう人だ、眼は暗い窪みになっていて、むしろ他者の視線を意識しない「無為」の体勢に、彼の生きてきた時間が凝縮されている

f:id:charis:20210916204937j:plain

8 高橋由一 : 美人(花魁)、1872

花魁(おいらん)のような華美な色彩を日本人が油絵で表現した初めての作品、身体の立体感は足りないが、襟の白色の厚塗りなど、由一は油絵具の色彩効果と必死に格闘している、絵具は手製で、油絵技法が日本人のものになるまでの高いハードルを、由一は一つ一つ越えていった

f:id:charis:20210916204956j:plain

9 黒田清輝 : 少女(雪子十一歳之像)、1899

雪子は黒田の姉千賀子の娘、よく黒田家に来て夫妻に可愛がられていた、スナップ写真を撮るように即興的に描いたといわれ、筆致の流れに躍動感がある、ちょっと意識して眼に力が入っている少女の固めの表情がいい、唇が赤いのは緑との対比を意識的に作っているのだろう

f:id:charis:20210916205015j:plain

10 中村彝 : エロシェンコ氏の像、1920

中村の代表作、ロシアの盲目の詩人エロシェンコが放浪して日本に来たのを画家の鶴田吾郎が目白駅で見つけ、中村と二人でそれぞれ8日間描き続けた、特有の風貌が見事に捉えられ、詩人エロシェンコを知らない人にも、いかにも詩人に見え、光という外面によって彼の内面が描かれている

f:id:charis:20210916205056j:plain

11 岸田劉生 : 古屋君の肖像(草もてる男の肖像)、1916

モデルは古屋(こや)芳雄、東大医学部を卒業し、たまたま劉生の隣に住んでいた友人、この絵は劉生の肖像画が変わり始めた転機をなす作品、「デューラーレンブラントルーベンスゴヤ等のクラシックの感化から」自分がようやく自由になったと劉生は感じた

f:id:charis:20210916205116j:plain

15 萬鉄五郎 : 水着姿、1926

萬の死の前年の作、彼は「緑色の水着」を求めて岩手から東京に出たが見つからず、横浜で入手、たしかに緑色の水着はこの絵に不可欠だ、唐笠の黄色、帽子の赤、海の青さ、肌の褐色と緑色とがよく調和して、ちょっと固い表情の女学生(たぶん)の健康な身体が、くっきりと描かれる

f:id:charis:20160510155856j:plain

16 安井曾太郎 : 婦人像、1930

しとやかな和服姿だがモダンガールだろう、椅子に寄りかからず、乗り出すように稟と背筋を伸ばした伸びやかな姿勢、少し前に出した左足など、動性のある身体、顔の豊かな表情など、彼女のおおらかで明るい性格がうかがわれる、恋愛にも積極的なのかな

f:id:charis:20210916205201j:plain

17 国吉康雄 : 女は廃墟を歩く、1946

国吉1889~1953は17歳でアメリカに渡り、一度の短期帰国を除いて終生を在米で過ごした。一般に画家は、美しい、幸福な女性を描くことが多いが、彼は「私が描く女性は、孤独で、何かを失い、荒れ、考えている人たちだ」と言う。この絵も、戦争で何かを失った女性