[演劇] ニール・サイモン『ブライトン・ビーチ回顧録』 東京芸術劇場 10月1日
(写真は舞台、7人家族の物語で、左端、中央後ろ向き、右端が大人たちで、それ以外の4人が子供たち)
ニール・サイモンは初めて見るが、アメリカ演劇によくある、家族の葛藤を描いたもの。小山ゆうな演出で、一人一人の人物造形が丁寧、そして舞台が美しい。一階が食堂、二階も部屋に壁がなく剥き出しで、家族のそれぞれが「今ここで」何をしているかが、観客にぜんぶ分る。閉ざされた部屋の同時開示は、映画やTVドラマではできない仕掛けなので、演劇空間の活用がうまい。(写真↓は、2回に住むノーラ16歳とローリー13歳の姉妹、ユージン14歳とスタンリー18歳の兄弟)
ニール・サイモンの自伝的な劇で、登場人物の名が、「ユージン」「ブランチ」「ノーラ」など、サイモンが尊敬する劇作家や劇中人物から採られている。家族劇であると同時に青春劇でもあり、少年少女の「性の目覚め」が明るくコミカルに描かれていて楽しい(ヴェデキント『春のめざめ』とは大違い)。そして、大恐慌のさなかで、第二次大戦直前の1937年のニューヨーク、貧しいユダヤ人家庭も多く、しかもヨーロッパから同じユダヤ系の親戚が殺到しつつある、当時の切迫した社会状況がよく分かる。その意味で、非常によくできた作品だと思う。(↓14歳のユージンはとても可愛い)
しかし私には、ここで描かれている「家族」に、かすかな違和感を感じる。5年前に観たトレイシー・レッツ『8月の家族たち』もそうだったが、アメリカ人には「家族」に対する日本人にないような特別な思い入れがあるのだろうか。大統領選挙のときに、必ず候補者が家族揃って登場するのも不思議だし、自分が子供のとき見たTVドラマ『名犬ラッシー』でも、「うちとはずいぶん違うなぁ」といつも感じていた。本作も、アメリカの中・下流ユダヤ人家庭だからという以上に、普遍的にアメリカの家族が描かれていると思う。私が一番違和感を感じるのは、親と子がこのような会話をするだろうか、という点にある。特に父親。本作の父親のジャックのように、家では威張って居て、偉そうに子供に説教をたれるが、その実、「一家の責任者は俺だ」と強い自負心と家族への深い愛情をもっているという父親は、私にはどうもピンとこない。家族の葛藤も、たとえばチェホフの家族のそれ、すなわち、誰もが自分の悩みを熱心に語るが他人が悩みを話す時はろくに聞いていない、あのちぐはぐさに、ずっとリアリティを感じる。それに対して、アメリカの家族は、夫婦が、親子が、姉妹が、自分の気持ちを真っ向から相手にぶつけ、言葉で正面から激しく渡り合うというのが、私には不思議に感じられる。本作の場合、居候で養ってもらっているという弱い立場ゆえに、抑えに抑えてきた不満が、あるとき逆に激しく噴出してしまう点があると思う。「貧すれば鈍す」と言うが、経済的に困窮すれば他人を思いやる余裕がないのも分かる。しかしそうした葛藤が美しい家族愛によって解決されるというのは、どこか嘘っぽい。どこまでも家族愛の困難さを凝視したチェホフの方に、リアリティを感じてしまう。アメリカの家族でも、『ガラスの動物園』のそれはチェホフ的で、家族はバラバラになってしまうが、こちらの方が真実に近いのではないか。俳優は、どこか嘘くさい父親ジャックを演じた神保悟志がとてもよかった。