折々の言葉(1) 1、2月ぶん

折々の言葉(1) 1、2月ぶん

 

言葉は、口に出されると死ぬ、と人は言います、私は言います、いいえ、その日から、生き始めるのです (ディキンソン)

[今日のうた][今日の絵]の他にも、[折々の言葉]を呟くことにします。週二回くらいです。1.14

 

沈黙と行動の間を 紋白蝶のように かるがると 美しく 僕はかつて飛んだことがない(黒田三郎ビヤホールで」) 1.19

 

なぜ花はいつも こたえの形をしているのだろう なぜ 問いばかり 天から ふり注ぐのだろう (岸田衿子『いそがなくてもいいんだよ』) 1.21

 

「私?」と美禰子がまた言った・・・美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの反応は、一句か二句で済ましている。(漱石三四郎』) 1.24

 

若い女性というものは、相手を“変わり者”だと思っていることを、口に出さずに相手に伝える非凡な才能がある。(シャーロット・ブロンデ『ジェイン・エア』) 1.28

 

でも、いざ結婚というときにまったく騙されることのない人なんて、男でも女でも百人に一人もいないんじゃないかしら、・・・結婚は、あらゆる駆け引きの中で、相手に期待することばかり多くて、自分自身の正直な姿はなるべく見せないようにするんだもの。(オースティン『マンスフィールド・パーク』) 1.31

 

この世界にあるのは、支配力と金と恐怖をベースにしたシステム ― どちらかといえば男性的システムなので、マルスと呼ぼう ― と、誘惑と性をベースにする女性的システム ― これをヴィーナスと呼ぼう― との二つだけ。そしてそれだけしかない。どうして我々はこれで生きていけるでしょうか? (ウエルベック『闘争領域の拡大』)  2.4

 

「それでも僕は、黄金のアフロディーテと寝てみたい」(ホメロスオデュッセイア』のヘルメスの言葉、マルスとヴィーナスが鋼鉄の網で捕えられ、「こんな痛い目にあっても君はアフロディーテと寝たいかい」とアポロンに尋ねられて、彼はこう答えた)  2.7

 

人にねたまれないようでは幸福といえまい。・・天が擁している神々より、大地のもつ王の数は少ない。(ラシーヌ『ラ・テバイード』)  2.11

 

ロドリゴ「あなたは今、幸せですか」、フェレイラ「幸せというのは、人それぞれの考え方によるものだろう」(遠藤周作『沈黙』)  2.14

 

幸福になるのは、幸福らしくみせかけるよりはるかにやさしいことなのだ。(ルソー『エミール』)  2.18

 

美と幸福は個性的なものだ。・・・なぜなら、私たちのそれまで知ったものとは異なった新しいものという性格こそ、美や幸福に固有の性格なのだから。(プルースト失われた時を求めて』)  2.21

 

美は、リヨン駅でたえず身をはずませている汽車のようなものだ。それはけっして発車しようとはせず、これまでにも発車したことがなかった。(ブルトン『ナジャ』)  2.25

 

天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、・・・彼らは、きっともう失敗しないでしょう、・・・再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち。(リルケ『ドゥイノーの悲歌』)  2.28

今日のうた(130) 2月ぶん

今日のうた(130) 2月ぶん

 

揺れやすい豆腐のからだを火にかけてくちやくそくの束をほどいた (紡ちさと「東京新聞歌壇」1月30日、東直子選と評「湯の中の豆腐の様子と、あやうい自分の状態を結びつけた。口約束のまま果たされない約束をあきらめていく感覚を「ほどく」と表現」、豆腐を自分に見立てたのが凄い)  1

 

親兄弟すべてを忘れた方々も歌えば優し「さざんかの宿」 (太田克宏「朝日歌壇」1月30日、高野公彦選、「認知症気味の人々を優しく見守る介護職員」と選者評、歌は記憶を呼び覚ます働きもあり、癒しの機能があって、人と人とを結びつける)  2

 

熱燗(あつかん)や大風呂敷に点火せり (河野奉令「朝日俳壇」1月30日、大串章選、「「大風呂敷」に「点火せり」が言い得て妙。俳諧味あり。大言壮語する酔漢たちの声が聞こえる」と選者評)  3

 

冬服の釦桃色珊瑚かな (岩佐なを「東京新聞俳壇」1月30日、小澤實選、「冬服のボタンに桃色の珊瑚製のものを使っている。色のない世界の中で、そこだけ鮮やかな色が差され、印象的」と選者評)  4

 

叱られて目をつぶる猫春隣り (久保田万太郎、「目をつぶる」がいい、何をして叱られたのだろう、ひょっとしてお隣りの家の雌猫さんに強引に恋をしたのか、「春隣り」だもの、ありそうなこと) 5

 

天上に宴(うたげ)ありとや雪やまず (上村占魚、白色、密度、動きなどが調和して、雪が降りしきるのが非常に美しいときがある(いつもではないが)、眺めているうちに、視線はおのずと上に向かうが、たしかに「天上で宴」をしているように感じられる) 6

 

父酔ひて葬儀の花と共に倒る (島津亮、ありがちな光景だが、日本式の葬儀では、通夜や葬式の直後に参列者の会食があり、酒がでるからだ、飲み過ぎて酔っぱらう人もいる、キリスト教式のように、葬儀直後の会食はしない方がよいのかもしれない)  7

 

愛(かな)し妹を弓束(ゆづか)並べ巻きもころ男のこととし言はばいや片増しに (よみ人しらず『万葉集』巻14、「もころ男」は恋敵、「いとしい君を、弓束に藤を巻くように、しっかり抱いて寝るよ、僕の力が、恋敵のあの男と変らないと言うなら、もっともっと力強く巻いてやる」) 8

 

つれもなき人を恋ふとて山びこの応へするまで歎きつるかな (よみ人しらず『古今集』巻11、「貴女は本当につれない人ですね、僕は大声で貴女の名を呼んでしまった、そしたら貴女の声ではなく、こだまが返ってきたのです、あぁ悲しい」)  9

 

いかにして夜の心をなぐさめん昼はながめにさても暮しつ (和泉式部『千載集』巻14、「貴方が来ない夜は寂しくてたまらない、昼間はぼんやり外を眺めて寂しさをまぎらわしたけど、夜はそれもできない、あぁ、この寂しさをどうしてくれんのよ」) 10

 

おのづからさこそはあれと思ふまにまことに人の訪はずなりぬる (源経信の母『新古今』巻15、「これまで貴方が来なかったときは、「たまたま都合が悪かっただけよね」とあまり気にしなかった、でもずっと来てないじゃない、まさかもう来ないんじゃないわよね」、今でもありがちなこと) 11

 

はじめなき夢を夢とも知らずしてこの終はりをや醒め果てぬべき (式子内親王『家集』、「人はいつのまにか眠りに落ちるから、夢が映画みたいに始まる時を経験することはできない、だが「終り」はどうか、この人生そのものが儚い夢だとすると、その「終り」に果たして覚醒するのだろうか」) 12

 

蝶墜ちて大音響の結氷期 (富澤赤黄男『天の狼』1941、赤黄男の代表句の一つ、作者は動員されて中国の華中を転戦した、この句も、実際に戦闘機が撃墜された場面を詠んでいるのではないか) 13

 

憲兵の前で滑って転んぢやつた (渡辺白泉、1939、「通勤景観」という一連の句の中にあるから、都心の街路だろう、憲兵は基本は軍隊内部の警察だが、この頃すでに思想犯取締りを大々的に行っていた、作者も翌年「京大俳句」弾圧で検挙された) 14

 

雪野より梅野につゞく遠い雲 (高屋窓秋1970『ひかりの地』、ずっと遠くまで雪原が続いているが、その先に梅林が見えるのだろう、そこだけかすかに色が違うので分る、まるで「遠い雲」のように) 15

 

目つむりて雪崩(なだれ)聞きおり告白以後 (寺山修司1955「牧羊神」、寺山19歳の作、彼女に告白したのが実景かどうかは分らないが、彼は告白した後、胸がドキドキして、心中の雪崩の音を聞いている) 16

 

透明なたましいをひとつ住まわせる砂時計この空っぽの部屋 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、砂時計の上半分は「空っぽの部屋」だ、砂時計をひっくり返せば、そこへ直ちに砂が落ちる、だが砂時計をひっくり返さなければ、そこに住む「透明なたましい」と見つめ合うこともできる) 17

 

神々は留守 色チョーク取り出してなぐり書きする空暮れやすし (永井陽子『葦牙』1973、作者1951~2000は、孤独を基調としつつも、どこか音楽的な美しい歌を詠んだ人、子の歌も、孤独を詠んでいるが、「神々は留守」というユーモアと、「色チョーク」「なぐり書き」が呼応する) 18

 

海は海 唇嚙んでダッシュする少年がいてもいなくても海 (千葉聡『海、悲恋、夏の雫など』2015、今はいないけれど、少し前には、そこに「唇嚙んでダッシュする少年」がいたのだろう、蕪村「凧(いかのぼり)昨日の空のありどころ」を思い出させる) 19

 

手があれば胸をこうしてばってんに押さえて飛び立つだろう飛行機 (高柳蕗子2007、作者1953~は歌誌「かばん」所属、「ばってん」とは✕印のこと、空港で、巨大な旅客機が今飛び立とうとしているのか、機体は重く、滑走路からなかなか浮き上がらない、はらはらする作者) 20

 

夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで (仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』1985、作者1952~2000は歌誌「短歌人」に所属、渋谷にPARCO3まで揃ったのが1981年、若者文化の象徴として輝いていた、しかし当時早くも、それがやがて「墓標」になる日を予見) 21

 

ヘッドライトさわればいまだにあたたかく言えずに終わってゆく物語 (吉岡太朗『ひだりききの機械』2014、作者1986~は第50回短歌研究新人賞受賞、これは恋の歌だろう、恋の始まりの頃の歌、一緒にドライブしたのだろう、でも言いたかったことを言えずにその日は終った) 22

 

一本はうしろ姿の冬木立 (和田耕三郎、冬木立の中に、一本だけ「うしろ姿」のように立っている木がある、普通は太陽光に対して一定の方向に葉が揃うのだが、その木だけそうなっていない、まるで立ち並ぶ人間の中で一人だけ向きが違うかのように) 23

 

冬空や猫塀づたひどこへもゆける (波多野爽波、「冬空」とあるから、この「塀」はかなり高い塀なのだろう、作者が見上げているとすぐ、猫はササッと「塀づたい」に行ってしまった、まるで空を行くように) 24

 

獺(かはうそ)の祭見て来よ瀬田の奥 (芭蕉1690、「膳所へゆく人に」と前書、芭蕉膳所に滞在した時の句、「獺の祭」とは、獺が採った魚を岸に並べる(本当か?)のを真似て、旧正月に祖先を祭る膳所近郊の習慣のこと、「それをぜひ見にいらっしゃい」と呼びかけたユーモア句) 25

 

つとめよと親もあたらぬ火燵(こたつ)かな (服部嵐雪、作者は芭蕉の弟子で、職業は武士、「自分の子供たちに刻苦勉励を説き、自分も炬燵にあたらない、炬燵の温かさは怠け心をもたらすから」) 26

 

出(いづ)べくとして出(で)ずなりぬうめの宿 (蕪村、「今日は外出すべき用事がないわけじゃないんだけど、家の梅の咲きぶりを何度も眺めているうちに、結局、一日中家にいちゃったな」) 27

 

梅咲てひときわ人の古びけり (一茶1808、「人」とは自分のこと、46歳で独り者の一茶は、相変わらず貧乏暮らしのまま、容貌もすっかり「古びてしまった」、瑞々しく咲いた梅の花は、自分の衰えと対照的だ) 28

 

[今日の絵] 2月後半

[今日の絵] 2月後半

 

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14 Berthe Morisot : The Piano, 1889

少女というのは、一人でいるより集団でいる方が少女らしい、プルースト失われた時を求めて』のヒロインの一人、少女アルベルチーヌは、最初集団の一員で登場する、日本のモーニング娘もAKBも集団だ、少女は、大人の女性になったときに自分固有の顔を持つのか

 

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15 Renoir : The reading, 1890

描かれているのは、ルノワールの友人で、画家でも収集家でもあったアンリ・ルロルの娘イヴォンヌクリスティーヌだと思われる、二人の服の色の対比が美しく、背中に手を回すなど、姉妹の仲睦まじさがよく分る

 

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16 Gauguin : Two tahitian women, 1899

ゴーギャンタヒチで描いた二人の若い女性、左の女性は、皿に盛った果物のマンゴーが胸に触れ、右の女性は、半分隠した胸に花を持ち、二人は肘から肩にかけて身体が触れ合う、二人は親密な関係なのだろう、全体の色彩バランスも見事で、匂い立つようなエロスが表現されている

 

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17 Munch : The Girls on the Bridge, 1900

こうやっていつもグループでいるのが少女たち、橋の上で何か相談している、これから一緒にどこかへ行くのか、遠近法的奥行がそれを感じさせる、左側にこんもりした大きな木があり、水に映ってさらに不気味になっている、彼女たちの無意識の不安なのか

 

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18 Bonnard : Girl with Parrot, 1910

ピエール・ボナール(1867~1947)は「ナビ派」と呼ばれるフランスの画家で、日本美術の影響も受けた。「オウムといる少女」は、東南アジアだろうか、周りに召し使いがおり、裕福な家のお嬢さんか、屋敷の正面に白いものが見えるが、洗濯物にしては、二点だけしかない

 

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19 Schiele : Two Little Girls, 1911

シーレはまだ20歳だから、彼の娘ではない、シーレ特有の人物スタイルを生み出したのが1910~11年頃といわれるが、この絵の左側の少女の顔と体はいかにもシーレ風だ、やや病的でグロテスクといわれるが、そこには彼にしか描けない美しさがあると思う

 

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20 Zorn : The sisters Schwartz, 1899

アンデシュ・ソーン(1860~1920)はスウェーデンの画家、「シュヴァルツ家の姉妹」は、二人とも絵を描いている、手前の石膏像が、斜め上から見下ろされる低い位置にあり、全体の光が逆光気味で、白と赤の色の対比が美しい、少女の表情もしっかり描き込まれている

 

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21 Dorothea Tanning : Door 84, 1984

ドロテア・タニング(1910~2012)はシュール・リアリズムの画家で、マックス・エルンストの妻、右側の少女は男性(父親?)の膝に乗っている、左側の少女(姉?)はそれを嫉妬して入室しようとするが、入れまいとする妹とドアで攻防、可愛い姉妹だが、二人とも足が逞しいのがいい

 

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22 Correggio :Portrait of a young man, 1520

コレッジョ(1498~1534)はイタリア盛期ルネサンスを代表する画家、この絵には、青年の透き通るような美しさが表現されている、特に髪の毛、眼、口のあたり、ルネサンス絵画には「天使」に仮託して美少年がたくさん描かれているが、美青年の絵も多い

 

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23 Caravaggio :The Lute Player, 1596

カラヴァッジオ(1571~1610)はバロック期のイタリア画家、光と影のコントラストで名高いが、さまざまな名目で少年をたくさん描いている、どれも少女のように美しい少年だ

 

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24 Rubens :Nicolas Rubens, 1626

描かれているのは、ルーベンスの二男ニコラス、5、6才だと思われる、わずかの線と面だけで、これだけ見事に、その瞬間の表情を描き切っている、たしかにルーベンスのデッサンは卓越している

 

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25 Manet : シャボン玉をもつ少年1867

描かれているのは14歳の長男レオン、20歳のマネとマネ家のピアノ教師だった22歳のシュザンヌとが内縁の頃に生まれた、「シャボン玉」は17世紀から描かれ、すぐ壊れそうな微妙な存在感のためだろうか、この絵でも、少年は緊張してシャボン玉を見詰め、身体全体のバランス感がすばらしい

 

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26 Cézanne : 赤いチョッキの少年1895

1886年に死んだ父の遺産を得たセザンヌは、初めてプロのモデルを雇い様々なポーズを取らせて描くことができた、「赤いチョッキの少年」は何枚も描かれたが、これはセザンヌの最高傑作といわれる、大きな右腕など造形が自由になり、少年らしからぬ深刻に考え込んだ表情をしている

 

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27 Serebriakova : Portrait of E.I. Zolotarevskii in childhood, 1922

ジナイーダ・セレブリャコワ(1884~1967)は少年や少女をたくさん描いた、どの顔にも眼に生命感があり、人間の顔の美しさが際立っている、この少年は、顔は中性的で、そして知的に美しい

 

 

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28池永康晟 : 少年・翔 2021

池永康晟1965~は日本画家、自分で染めた麻布に岩絵具で描くといわれる、ここに描かれた俳優/モデルの「翔」は2006年生れでドイツ人の父と日本人の母をもつ、写真で見るとあきらかにハーフの顔だが、この絵は「ハーフらしさ」を押さえているのか

 

[演劇] D.L.アベアー『ラビット・ホール』

[演劇] D.L.アベアー『ラビット・ホール』 横浜KAAT 2月24日

(写真↓で上にあるのは、4歳で死んだ息子の子供部屋)

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アベアーが2005年に書いた戯曲は、映画にもなっている作品で、この上演は小山ゆうな演出。4歳の息子が自宅前で車にはねられて死んだ、若い夫婦の悲しみと苦しみを描く。従来よくあるアメリカの家族劇と共通する要素もあるが、しかし新しい展開を感じる。家族が激しい感情をぶつけ合うのはアメリカ家族劇の定番だが、本作は、かなり静かな展開で、大声で怒鳴るのは、登場人物がそれぞれ一回くらいだと思う。また、若い夫婦の母は登場するが父は登場しない。そして若い夫は、まったく家父長的ではなく、繊細で物静かな若者だ。本作の主題は、若い夫婦が息子を失った悲しみを、皆が共有しようとするのだが、それはなかなかうまくいかない、感情の共有は非常に難しい、ということだ。フロイトが「喪」論文で、残された人が喪を生きることはとても難しいと述べたことが、演劇化されているともいえる。(写真は、左から、夫、妻、その妹、姉妹の母)

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夫は妻の、妻は夫の、妹は姉の、母は娘の、その悲しみを共有しようと一生懸命なのだが、それがうまくいかない。四人とも怒りを露わにするけれど、根は非常に優しい人物だ。彼らの繊細で微妙な感情をとても丁寧に描き、その感情に優しく寄り添っているのが、本作を優れた作品にしている。篠崎絵里子の上演台本も、小山ゆうなの演出も、繊細な感情に優しく寄り添っている。あえて言えば、この四人の言動と感情はとてもよく分ったのだが、車で息子をはねた高校3年生のジェイソンの人物造形が、私にはよく分らなかった。彼は謝罪するために夫婦に会いに来たのだけれど、実際に彼が言ったことからは、息子をはねて結果として殺してしまったことに対する自己認識がよく分らない。「速度制限は30マイルなのだが、自分は33マイルか32マイルで走っていた可能性がある」と彼は言う。「40 マイル以上」とかなら分るが、「33、32マイル」なら僅かの差だ。そして驚くべきことに、パラレルワールド=可能世界を持ちだし、「息子をはねていなかった可能世界」があるはずだ、と言う。「ラビット・ホール」というタイトルはおそらく「ワーム・ホール」(=リンゴの虫食い穴)理論、すなわち相対性理論を利用したタイムトラベルで異世界へ行く話をもじったのだと思う。しかし、ジェイソンが妻にこの「ワーム・ホール」の話をすることが↓、作品全体の中でどういう意味をもつのか分らなかった。「可能世界」は慰めや謝罪になるのだろうか?

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あと一つ、本作は科白の日本語も素晴らしいのだが、しかしそうであればあるほど、かすかな違和感が残った。それは、ほとんどすべての発言が、他者の感情を先取りして言語化するものになっていて、日本人だったらこういう会話はしないだろうし、まして喪の期間中ならばしないだろう、と思うからだ。登場人物は誰もが、相手の顔をじっと見つめながら、「今、こう感じているんでしょ」「言わなくても、顔に出ている」「ちがう、ちがう」「私そんなこと言ってない」という発言が繰り返しなされる。そして、会話はどんどん捻じれに捻じれていく。でも、他者の心中はそう簡単に分らないはずだから、日本人ならこういう発言はあまりしないのではないか。しかし、アメリカ人は実際にするのだろう。つまり、自分や他者の感情をどこまで言語化するかという点で、日本人はアメリカ人とやや違うのかもしれない。とはいえ、本作の最後はすばらしい。のしかかっていた重い感情のくびきが取れて、心が自由になり、夫婦は前向きに生きていけるようになった。喪が明けたのだ。俳優は、母を演じた木野花、妹を演じた占部房子が特によかった。そして小山演出はいつもそうだが、舞台全体がシンプルでスタイリッシュで美しい。

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