能『道成寺』 友枝雄人

能『道成寺』 友枝雄人 国立能楽堂 5月29日

道成寺』を実演で見るのは初めてだが、衝撃的な体験だった。<能>という芸術は、結局、<舞い>という身体表現を核に成り立っていることがよく分かった。特に今回は、上演前の能学者によるレクチャーが充実していて、観賞がずっと深まった。『道場寺』は観阿弥清次作と言われているが、それはほとんど意味がなく、その後、誰かが原作の科白を大幅にカットして、代りに舞いの「乱拍子」に置き換えたことが、事実上の『道場寺』の創作に相当する。科白が大幅にカットされたので、安珍清姫伝説に由来する部分は物語から消え、物語は最後にワキの僧が取って付けたように語るだけ。謡曲を何度も読んで予習したのは無駄だった。『道場寺』は「乱拍子」の舞いだけがあればよく、科白は要らないのだから。

「乱拍子」は本当に凄い。見ているだけで戦慄した。奇妙な連想かもしれないが、私は「乱拍子」の冒頭のあたりで、一般相対性理論を思い出した。一般相対論によれば、時空がたわみ、歪むことによって、そこに重力が生まれるのだが、「乱拍子」はまさにそれを身体運動によって表現している。大小の鼓の掛け声・奇声と同期してシテの動きがほとんど止まり(完全静止ではなく、ほんのわずか動く)、次の鼓の音と身体が動くまでの間、十数秒が経過する。この十数秒の沈黙の時間のうちに、眼前で時空がぎりぎりとたわんで、ものすごい重さの情念がそこに溢れてくる。この十数秒の時間の「重さ」が生み出すテンションがあまりにも強いので、見ているだけで息が詰まりそうになる。なるほど、<舞い>とは、時空が歪んでそこに情念を溢れさす人間の肉体性そのものなのだ。レクチャーで講師の一人が言ったように、この『道場寺』の「乱拍子」には、バレエなど西洋のすべての「踊り」も含めて、「踊り」の原点がある。<踊り>とはすなわち<叫び>なのだ。声帯を振動させて叫ぶのではなく、肉体全体がたわみ、歪み、震えることによって叫ぶのだ。それを考慮すると、大鐘が落ちたのに驚嘆して「地震だ!」「雷だ!」と叫ぶ狂言の二人のアイはまったく正しい反応をしている。自身も雷も、時空のたわみによってエネルギーが生まれる現象だからだ。

「乱拍子」に震撼していると、「女の怨念」とか、「蛇に変身」などという『道場寺』の「物語」はどうでもよい付随的なことのように思われてくる。時空が歪んでそこに激しい情念が生まれることを<眼前にありありと示す>ことが『道場寺』の眼目なのだから、性とか性的妄想とかは事の本質ではない。

 

この上演の映像はまだないですが、

1分間の短い映像があり、友枝雄人のもの

https://www.youtube.com/watch?v=43JWeITMOqI

また、9分間の映像がありました、「乱拍子」以降の主要場面、今回のではないが、観世清和のもの

https://www.youtube.com/watch?v=MLu9927A8YQ&list=RDMLu9927A8YQ&start_radio=1&rv=MLu9927A8YQ&t=27

今日のうた(133) 5月ぶん

今日のうた(133) 5月ぶん

 

てのひらは扉をひらき出入りするたびに違った表情をもつ (尾崎まゆみ『女性とジェンダーと短歌』2022、上司の部屋の「扉」なのか、それとも自宅の「扉」なのか、普通は自分の「てのひら」には注意しないが、たしかに「扉をひらく」時には、「てのひら」にはそのつどの「表情」がある) 1

 

踏みはづすならばおのれを くろがねの篩(ふるい)に揺らされて歩む世に (小原奈実『女性とジェンダーと短歌』2022、我々は電車やバスに揺らされて移動するように、つねに何らかの枠に囲われて揺らされながら生きている、でも、時にはその枠を「踏みはづし」て自由になりたい) 2

 

手拍子が火から炎へ煽っても自分の影を踏んでいくしか (帷子つらね『女性とジェンダーと短歌』2022、作者2000~は早大生、踊っているのだろう、「手拍子」が激しくなり、煽られた「火」が「炎」になって浮足立つ感じになるけれど、いや、しっかりと「自分の影を踏んで」いこう) 3

 

ロング缶1本 本日の墓標 (芳賀博子、作者1961~は川柳作家、健康のために、寝酒のビールを節制して、ショート缶にしているのか、しかし今夜はどうしてもたまらずにロング缶を空けてしまった、いかんなぁ、からになった缶が「墓標」に見える) 4

 

くちびると闇の間がいいんだよ (八上桐子、作者1961~は川柳作家、キスの直前、相手のわずかに開いた「くちびる」の奥に「闇」が見えているのか、それとも真っ暗な「闇」の中で相手の「くちびる」に触れるのか、「間(あいだ)」という語の不思議さ) 5

 

ハードルをいくつ倒すかまず決める (湊圭史、作者1973~は川柳作家、普通「ハードル」は越えてゆくものだから、「倒れる」のがあっても、それは結果だ、だが作者は事前に「いくつ倒すかまず決めて」から走る、人生の比喩だろうか) 6

 

やめたひとだけが集まるどうぶつえん (柳本々々、作者1981~は川柳作家、美術館に来る人は高齢者が多い、しかし「どうぶつえん」もそうだったのか、だが、考えてみればありそうなことでもある、「どうぶつえん」を好むのは、子ども以外は、退職者なのかもしれない) 7

 

音も無く転ぶ祭の真ん中で (竹井紫乙『白百合亭日常』2015、作者1970~は川柳作家、祭りで、何か景気のいい音楽に合わせて皆が踊っているのか、でもその「真ん中で」誰かが「転んで」しまった、しかも「音もなく」) 8

 

心には千遍(ちへ)敷く敷くに思へども使(つかひ)を遣らむすべの知らなく (よみ人しらず『万葉集』巻11、「僕は心の中で、繰返し繰返し千回も君のことを思っている、でも君のお母さんがずっと見張っていて、僕の言葉を君だけにうまく届ける方法が分らない、ああ」) 9

 

夕ぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて (よみ人しらず『古今集』巻11、「夕暮れになると、僕は雲の遠い果てを眺めては、深く歎きます、貴女は空のなんて遠くにいるのでしょう、そんな貴女をひたすら恋して」) 10

 

うたた寝の夢に逢ひ見てのちよりは人も頼めぬ暮れぞ待たるる (源慶法師『千載集』巻12「昼の仮寝の夢に貴女が現れたのです、その後は、もうどうしようもなく貴女に逢いたくて、貴女が言ったわけでもないのに僕が勝手に空想した(貴女の)来訪を待っています」) 11

 

春の夜の夢にあひつと見えつれば思ひ絶へにし人ぞまたるる (伊勢『新古今』巻15、「春の夜の夢で、まさかのあの人に逢っちゃった、そう、元カレよ、もうあきらめていたんだけど、ひょっとして来てくれないかしら、期待しちゃうわ」) 12

 

眺めつる遠(をち)の雲井もやよ如何に行方も知らぬ五月雨の空 (式子内親王『家集』、「空のあの一番遠くのあたりは、ほとんど雲だけれど、今はほんのちょっと青空が見えているような気もする、でもいったいどうなるのかしら、空を覆う五月雨の雲の動きはとても速いから」) 13

 

言はばやと思ふことのみ多かるをさて空しくやつひに果てなむ (『建礼門院右京大夫集』、「貴方に告げたいと思うことがこんなにあるのですが、告げられないまま、ついに終わってしまうのでしょうか」、1184年、一の谷合戦の二日前に作者27歳の恋人平資盛23歳は義経に討たれ戦死) 14

 

日を仰ぎ牡丹の園に這入りけり (虚子1925、五月の今頃は、急に日差しの強さを感じることがある、そういう日だったのだろう、まず「日を仰いで」から、牡丹園に「這うように入っていく」) 15

 

遠蛙見る灯は友の住むごとく (飯田龍太1952『百戸の谿』、山梨県境川村に住む作者、「夜道を歩きながら遠くの蛙の声を聞いていると、ある家の窓があいて、やはり蛙の声を聞こうとしている、誰かは知らないが親しみを感じる」) 16

 

おだまきやどの子も誰も子を負ひて (橋本多佳子1942『信濃』、木曽の寺で句会に出席した時の句、おだまきの花が美しく咲く中、何人もの小学生がみな小さな弟や妹をおぶっているのに強い印象を受けた、多佳子は自分が四女の母であり、子供を詠んだ句も多い) 17

 

青草の朝まだきなる日向(ひなた)かな (中村草田男『長子』1936、「初夏のごく早朝、太陽の光がまだ地平線の少し上あたりまでしか広がっていないのに、手前の草はもう青々として草の匂いを発散させている」、五月になると、こういう早朝もある) 18

 

屋上に見し朝焼のながからず (加藤楸邨1937『寒雷』、「朝焼け」は美しいが、長い時間は続かないように感じる、夕焼けの場合は、明るい昼間の空から太陽が徐々に去っていくから長く感じるだけかもしれない、それとも夕焼けと違って朝焼けはゆっくり眺める時間が少ないのか) 19

 

苺赤し一粒ほどの平安か (森澄雄1951、おそらく今なら詠まれない句だろう、苺が貴重だった頃、31歳の作者は三人の幼児を抱えて貧しい暮らしだった、一粒だけ自分が取り、残りは妻や子に譲ったのか) 20

 

麦青み鯉とる舟のゆき交へり (水原秋櫻子『葛飾』1930、利根川に接する手賀沼で詠んだ句、当時は現在より広かった、「鯉をとる舟」がゆっくり「ゆき交へる」のどかな光景) 21

 

寧(むし)ろすがし汗の少年のガラス工 (石田波郷『酒中花』1968、ガラス工の少年が汗だくになって棒を吹いているのだろうか、彼の汗も小さなガラス玉のようにキラキラと光っている) 22

 

ゴッホよりマチス菜の花蝶と化す (矢次洋平「東京新聞俳壇」5月22日、石田郷子選、「<菜の花蝶と化す>で晩春の季語。春の景色にゴッホよりはマチスの弾けるような色彩を思う作者」と選者評、菜の花の黄色が揺れて蝶が舞うようだというのは、まさにマチス的) 23

 

つまんねえつまんねえと猫のどけしや (加藤西葱「朝日俳壇」5月22日、高山れおな選、「猫のある“感じ”をよく捉えているのではないか。猫好き各位のご意見をうかがいたし」と選者評、まさにその通り) 24

 

どこまでも愛らしき瞳出でてくるマトリョーシカ春、寂しきロシア (尾崎淳子「朝日歌壇」5月22日、馬場あき子選、私も先日5歳と3歳の孫娘が我が家に来た時、とっておきのマトリョーシカを2セット出して並べてみせた、でもその時、やはり「ロシア」をふと思い出してしまう) 25

 

だいすきはかなしいおかねはむずかしいでも銭湯では髪をくくって (展翅零「東京新聞歌壇」5月22日、東直子選、この4月から地方から東京に就職して独り暮らしを始めた若い女性か、好きな人ができたけれど・・、お金のやりくりは苦労するけれど・・、銭湯ではしゃきっとする) 26

 

浅草の夜のにぎはひに/まぎれ入り/まぎれ出で来しさびしき心 (石川啄木『一握の砂』1910、啄木1886~1912は当時、朝日新聞の校正係から「朝日歌壇」の選歌も担当するようになっていた、しかしこの歌はいかにも啄木らしい「寂しさ」が詠まれている) 27

 

旅人の営みとして花摘めり悲しきわれも楽しき友も (与謝野晶子1937『白桜集』、夫の鉄幹を亡くした59歳の晶子は、悲しみの日々が続く、友人たちと旅に出るが、あまり楽しめない、「旅人の営みとして」一応「花を摘んだ」けれど、かえって悲しみが増してしまった) 28

 

わが手もて摘みてかざせるひと花も君に問われて面(おも)染めにけり (山川登美子1900、与謝野晶子と同時に師の鉄幹に恋してしまった登美子1879~1909は、晶子とはまったく違って、内気で恥ずかしがり屋の少女だった、摘んだ花を鉄幹に問われただけで赤面してしまう) 29

 

仏蘭西(ふらんす)のみやび少女(をとめ)がさしかざす勿忘草(わすれなぐさ)の空色の花 (北原白秋『桐の花』1913、「君には似つれ、/見もしらぬ少女なりけり」と詞書、白秋は、(写真でか実際にか)フランス人の美しい少女を見て、彼が思いを寄せている「君」と似ているのにすぐ気付いた) 30

 

人妻をうばはむほどの強さをば持てる男のあらば奪(と)られむ (岡本かの子『かろきねたみ』1912、岡本かの子1889~1939は画家岡本一平の妻、若い男性との恋愛を繰返し、堀切茂雄との恋愛は、夫の一平を含めた「三人同居」に発展した、この歌もユニークだ) 31

[今日の絵] 5月後半

[今日の絵] 5月後半

 

17 野田弘志:聖なるもの THE-1, 2009

「本来の僕の絵は、全部「存在論」です。だから存在するとはどういうことかを中心に考えて描いているわけで・・・、人が生まれて生きて死んでいく、それを美しいと思って見つめているわけです」(自註より)

 

18 藤田嗣治 : 婦人像 1909

東京美術学校在学中の作品、モデルは最初の妻(未入籍?)、パリ留学以降とは違って写実的だが、黒髪、横顔、白い着物とその線模様、紺の帯と、形と色調の落ち着いたバランス、全体の薄塗り、そしていかにも日本女性らしい顔が瑞々しい

 

19 小磯良平 : 和装婦人 1926

小磯(1903~88)は東京芸大教授を務めた洋画家、「斉唱」など群像画で名高いが、少女や女性の画も美しい、この絵は東京美術学校在学中のもの、前かがみになった和装女性の、何か考え込んでいる暗めの表情、組んだ掌など、この女性の内面もしっかり描かれている

 

20 中山忠彦 : 緋のショール 1984

中山忠彦1935~は写実の洋画家、日本芸術院会員、日展理事長などを勤めた、女性画で名高い、モデルの女性はほぼすべて1965年に結婚した良枝夫人、画家自らヨーロッパで収集したアンティーク・ドレスがよく似合う

 

21森本草介 : 初夏の頃2005

森本草介1937~2015は写実の洋画家、彼の描く女性は、後方または横からのものが多いが、その静謐で気品ある姿形が美しい、この絵も代表作の一つ

 

22 塩谷亮 : 如月 2020

塩谷1975~は優れた写実の洋画家、本作の自註に「(岸田)劉生作品との邂逅によって生まれた私の作品を紹介します。劉生の肖像画では、取って付けたように草花などの小物を持たせることが多く、面白い効果を生んでいます。この作品で手にしているのは三角葉のミモザです」

 

23 島村信之 : エンジの衣裳 2005

島村1965~は写実の画家、彼の描く女性は、窓辺でゆったりと凭れている姿が多い、この絵も、顔、髪、エンジ色のブラウス、腕、肘、掌、そしてソファとカーテンなどが、絶妙なバランスを保ち、身体全体の均衡がとても美しい、そして視線は遠くを見ている

 

24 Monet : サン=ラザール駅 1877

モネは4か月ほど駅の近くに部屋を借りて住み、同駅の絵を十数枚描いた、よほど絵の主題として気に入ったのだろう、どの絵も大小の違いはあれ蒸気機関車と煙や湯気を描いている、鉄の構造物、人体という有機物、煙という気体・・、空間の占め方がそれぞれ違う面白さ

 

25 Nobert Goeneutte : The Pont de l'Europe and Gare Saint-Lazar1888

ノルベール・グヌット1854~94はフランスの画家、版画家。印象派の影響を受けた、この絵は11年前にモネの描いた同じサン=ラザール駅を陸橋の「ヨーロッパ橋」の側から大きく鳥瞰した、駅に入る線路はすべて巨大な「ヨーロッパ橋」の下を通る、モネとはまた違ういい構図だ

 

26 Tissot: The Departure Platform, Victoria Station 1880

駅が絵の主題になるのは、そこに人が集まるからだろう、これは「ヴィクトリア駅の出発プラットフォーム」、汽車に乗る人が続々と集まり、プラットフォームの端まで馬車が入ってくる、出発する乗客はみな似たような表情をするのか、旅立ちの顔、旅人の顔がそこにある

 

27 Spencer Gore, Letchworth Station, 1912

パリのサン=ラザール駅やロンドンのヴィクトリア駅はターミナル形式(=行き止り)だが、こちらは鉄道が「通過する」普通の駅、田舎の駅のホームは即席の社交場みたいで楽しそう、人々はけっこう長い時間列車を待っているのか、スペンサー・ゴア1878~1914は英国の画家

 

28 Colin Campbell Cooper : Chatham Square Station 1919

都市には「高架」駅もできるようになった、これは1919年のニューヨーク、マンハッタンのチャタムスクエアー駅、1955年まであった駅、走っているのは汽車ではなく電車だが、街には馬車も自動車もいて、ニューヨークの活気が分る、クーパー1856~1937は「摩天楼」を多く描いた画家

 

29 Stanhope Alexander Forbes : The Terminus, Penzance Station 1925

「終点、ペンザンス駅」とあるのは英国最西部のコンウォール州ペンザンス町の駅、1852年から今でもある、すぐ向こうに畑が見えるから町はずれなのかもしれない、でも終点駅らしい雰囲気と活気がある、人々はいかにも旅立つという感じで、大きなトランクが列車に積み込まれる

 

30長谷川利行: 赤い汽罐車庫1928

長谷川利行1891~1940は独学で絵を学んだ人、無名のまま浅草近辺の貧民街で絵を描き、酒を飲むという荒れた生活だった、画家としての評価はごく近年、この絵は汽罐車の車庫だが、名画だと思う、手前左は女の子を含む家族連れで、見学なのか

 

31Ray Prohaska : 20世紀特急列車1941

レイ・プロハスカ1901~81はユーゴ出身のアメリカの画家、「20世紀特急列車」はニューヨークセントラル鉄道の特急で寝台列車、ニューヨークからシカゴまで一晩を含み20時間で到着、1967年に廃止、これはニユーヨークの地下のホームだろうか、客もいかにもアメリカ人

[今日の絵] 5月前半

[今日の絵] 5月前半

 

1 Caravaggio : トランプ詐欺師 1594

「トランプ」は西洋絵画でたくさん描かれている主題、ゲームを楽しむだけではなく、占い、賭けなどもある、カラヴァッジオのこの絵では、右側の男が詐欺師らしいが、中央の男も仲間かもしれない

 

2 Jan Steen : The Card Players, 1665

ヤン・ステーンは、庶民の生活を生き生きと描いた画家、この絵でも、トランプをしている人、見ている人、全員がとても楽しそう、でも見ている人はカードの情報を教えている?  おそらく家族なのだろう

 

3 Jean van de Kerckhove:The Card Reader 1874

ヤン・バン・デ・ケルクホーフェ(1822-1881)はベルギーの画家、 占いの老婆がカードで姉妹に何かを告げている、姉妹の真剣な表情からすると、「結婚運」についてだろうか、足元にトランプやバッグが落ちているのが気になる

 

4 Gustave Caillebotte : Game of Bezique 1880

ギュスターヴ・カイユボット(1848~94)はフランスの画家、写実的だが印象派展にも積極的に出品、タイトルは「ベジークのゲーム」、ベジークは19世紀のフランスで生れ、山札から引いた点数が高く、麻雀の役を作るような楽しみがあるとされる、この絵では皆が真剣で緊張している

 

5 Gogh : The Brothel (Le Lupanar) 1888

タイトルは「売春宿」、ゴッホゴーギャンと一緒に、絵の形象的な主題を見つけるために南仏の売春宿に行ったらしい、この部屋はなかなか社交的に見える、向こうの男女は踊っており、中央のテーブルの男女は白いカードを持っているように見える

 

6 Eva Bonnier : 1890

エヴァ・ボニエ(1857~1909)はスウェーデンの画家、主に人物画を描いた、この絵はタイトルは分らないが、老女がトランプの札から何かを読み取ろうとしている、その表情は真剣そのもの、西洋人は、他者とゲームをやるばかりではなく、一人でトランプに向き合うことも多いのか、右側のランプもいい

 

7 Paul Rink : The Fortune Teller 1898

パウル・リンク(1865-1903)はオランダの画家、タイトルは「予言者」だが、二人は家族だろう、カードは雑然と置かれているが、お婆さんは中央の裏になったカードを指さして何か言っている、真剣な表情で聞いているのは孫娘だろうか

 

8 Pablo Picasso : L'Homme aux cartes, Paris, winter 1913-14  

タイトルは「カードをする人」、単数だから一人なのだろう、ピカソだからキュビズム的な表現だが、トランプカードはやはり平面なのか、孤独な感じが漂っている

 

9 Vera Rockline : The Card Players, 1919

ベラ・ロックライン(1896-1934)は、ロシア出身だがフランスに移住した、彼女はキュビズムルノアールの影響があると言われている、この絵は三人がトランプをしており、多数の三角形から成る幾何学的構成が美しい、テーブルも椅子も身体もトランプカードも三角形だ

 

10 Serebriakova : House of Cards 1919

子どもたちは、ゲームではなくトランプのカードで家を作っている、セレブリャコワの4人の子供たちで、右側は長女のタチアナだろう、この年、セレブリャコワの夫ボリスはチフスで急逝、4人の子にとって父のいない悲しい家になった、左下の人形が父か、子どもたちの表情は暗い

 

11茅野市 : 縄文のヴィーナス

1986年に棚畑遺跡から発掘された土偶で、国宝に指定された、縄文期のBC2000~3000年頃といわれる非常に古いもので、似てはいるが古墳時代の埴輪ではない。高さ27cm、腰が大きいのは出産を象徴しているのだろう、切れ長の目とおちょぼ口の取り合わせがいい

 

12ルーマニア出土、7000年前の新石器時代の像 : 「考える人と座る女The thinker and the sitting woman」

「考える人」が男か女かは不明だが、それにしてもまるで現代彫刻のように洗練されている、見事な芸術作品

 

13 Kore Holding a Dove, 525-500 BC

「コレー」とは、古代ギリシア・アルカイック時代における、若い女性の着衣立像、この女性は鳩を手に持っている、丸みをおびた顔と体、微笑んでいるのかもしれない

 

14 Athena, 660-650 BC. clay figurine.

クレタ島のゴルテュス遺跡で見つかった粘土製のアテナ像、像とは別に作ったヘルメットを被っているのが珍しい、素朴な像だが、このアテナ、豊かな表情をもっている

 

15 Pablo Picasso, Standing Woman, 1947

ピカソのこの彫像はなんとなく古代彫刻に似ている、たとえば昨日のアテナ像や一昨日のコレー像など、このブロンズ像は高さは24.1cmと小さい、ピカソは両手を前に丸くまわしている姿を他にも創っており、キキュラデス文明の彫像に模したのかもしれない

 

16 Rodin : The Three Shades, 1886

「三つの影shade」とは、ダンテ『神曲』の「地獄の入口」に「影(=呪われた者の魂)」が立っており、「希望を捨てて、ここに入るすべての人」を意味するらしい、ロダンがそれを彫像に。まず石膏像を作りそれをブロンズ像にした、パリのロダン美術館他に同型が幾つかある

[今日の絵] 4月後半

[今日の絵] 4月後半

 

21 Mosaic detailing a Roman slave (ルーブル美術館)

人間を描いた絵の中でも、「労働」や「働く姿」は、描くに値する重要な主題だ、近代以降の絵に多いが、しかし古い絵にももちろんある、これはローマの奴隷、モザイクの大きな絵の一部、逞しい若者が食事?を運んでいる様子がよく分る

 

22 Peter Bruegel : The Peasant and the Nestrobber, 1568

「農夫と鳥の巣どろぼう」、鳥の巣は誰でも見つけられるわけではなく、専門知識が必要らしい、樹にも登れなければならないし、「鳥の巣どろぼう」はなかなかの専門職だ、農夫もしっかり鎌を携えており、二人とも一日中勤勉に働くのだろう

 

23 Sisley : Forge at Marly le Roi 1875

印象派シスレー(1839~99)は街や郊外の絵が多いが、これは珍しく室内、「マルリ=ル=ロワ」はパリ郊外の小さな町、いわゆる「村の鍛冶屋」だろう、古ぼけて薄暗い、小さな鍛冶場だが、懸命に働いている、三人はそれぞれ違った作業を分担しているが連携のタイミングが重要なのだろう

 

24 Max Liebermann : Spinning Workshop in Laren 1889

マックス・リーバーマン(1847~1935)はドイツ印象派の画家で、「ベルリン分離派」を創設指導した、この絵はリアリズム的だ、ラーレンはオランダの古い町、1889年だが「紡績」といってもほとんど手作業だ、糸車も人力で回すのか、富岡製糸場よりも旧式のシステムに見える

 

25 Degas : Women ironing 1885

19世紀のパリは洗濯屋が大繁盛し、女性労働力の雇用の25%が洗濯関連の仕事だそうだ、ドガも洗濯やアイロンの女性をたくさん描いているが、重労働であることがよく分る、アイロンがけは力仕事で、彼女たちは疲れている

 

26 Cézanne : The Well Driller 1873

まだ機械がない時代、地面に穴をあけるドリル仕事は、もっぱらそれを行う職人がいたのだろう、この絵はまだ途中かもしれないが、セザンヌの人間の肉体の造形力は凄い、小柄な人物のようだが、がっしりとして、顔も含めて体じゅうに力がみなぎっている

 

27 Léon Lhermitte : The little goose girl of Mézy 1892

レオン・レルミット(1844–1925)はフランスの写実主義の画家で、農民の生活をたくさん描いた、メジーは北フランスの小さな村、この少女は険しい表情をしているが、10歳過ぎくらいか、ガチョウ飼いの仕事はきつく、服は貧しい、当時の農村では子どもは労働力だったのだろう

 

28 Sorolla : Valencian Fishwives 1903

ホアキン・ソローリャ(1863~1923)はスペインのバレンシア出身の画家、この「バレンシアの漁師の妻たち」は地元だ、漁師の妻たちは、足元に並んだ大量の魚を漁師から買っているのだろう、それをまた売るわけで、彼女たちはたんに消費者なのではなく逞しい労働者でもある

 

29 Diego Rivera : Exit from the Mine 1923

ディエゴ・リベラ(1886~1957)はメキシコの画家、フリーダ・カーロの夫、この絵は壁画で「鉱山からの退出」、労働者が金鉱石?など隠していないか身体検査されている、労働者たちの疲れた表情からも、苛酷な環境と労働条件で採鉱に従事させられていることが分る

 

30 Yablonska : Cucumber Harvesting 1966

「キュウリの収穫」、旧ソ連コルホーズだろうか、若い女性が多いようで、家族ではなく農業労働者として働いているのだろう、農産物価格の国家統制は需給の調整が難しく、中国の人民公社などと同様、コルホーズやソホーズはソ連崩壊後に解体されたが、現在のロシアの地方の一部には共同農場的な要素も残るとされる