永井均『西田幾多郎』(5)

charis2007-03-08

[読書] 永井均西田幾多郎』(NHK出版)

[写真は、文学座が演劇化した「おーい幾多郎」(2004)のポスター]


私にとって永井氏のたまらない魅力は、その醒め切ったニヒリズムにある。『倫理とはなにか』は氏のそうした資質が遺憾なく発揮された名著であるが、この『西田幾多郎』もまた同じ意味で名著といえる。前回は、永井氏の叙述から、経験から言語が分節して生成するという西田の「場所の論理学」を瞥見した。しかし永井氏は、「超越的述語面」へと向かう西田論理学の議論は、「無の場所」へと向かう西田現象学とは完全に相即しておらず、両者の間にズレがあると言う(p84)。というのも、現象学が「私」だけで成り立つのに対して、言語は「私」を越える側面があるからである。そのことは、西田の重要論文「私と汝」(1932)において明らかになる。本書の最後の結論部で、永井氏と西田の哲学は大きく交差する。このあたり、永井氏の論旨を私がうまく解説するのは難しいので、氏の文章を直接引用しよう。


>汝以外のあらゆるものは、人間を含めて、すべて「私に於いてある」と考えることができる。しかし汝だけは「私に於いてある」と考えることができない、「私に於いて無い」ものである。私と汝を包摂する一般者も存在しない。しかし、それにもかかわらず、その私を限定するものは汝だけであり、私はただ汝を認めることによってのみ私たりうる。ただし「私が汝を認める」のはあくまでも「私自身の底に」であって、そこに「非連続の連続」というものが考えられ、私と汝をともに限定する同一の原理 ― 具体的には言語 ― が存在しうることになる。(p88)


そして氏は、西田の美しい文章を引用する。
>私と汝とは絶対に他なるものである。私と汝とを包摂する何らの一般者もない。しかし私は汝を認めることによって私であり、汝は私を認めることによって汝である。私の底に汝があり、汝の底に私がある、私は私の底を通じて汝へ、汝は汝の底を通じて私へ結合するのである、絶対に他なるが故に内的に結合するのである。(『論集Ⅰ』p307)


永井氏は、「我々は我々の底に超越を見る」(『論集Ⅰ』p353)という西田の「底を通じた超越」に着目する。というのは、「場所としての私」の内部には「汝」は存在しえないから、もし仮に「私」と「汝」が「繋がりうる」のだとすれば、それは互いの「底を通じる」しかないだろうからである。そして、これがまさに言語の成立ということなのだが、しかし「底を通じた汝への超越」などというものが、そもそも可能なのだろうか? 再び永井氏の文を引用すると、


>私は無の場所であるから、すべての存在者(有る物)はその無に於いてある。だが、汝は存在者(有る物)ではないので、その無に於いては無い。それゆえ、私は汝と直接に出会うことはできない。出会うことができるのは、彼と彼(個人と個人)である。私は、彼(個人)となれば、彼(個人)となった汝と出会うことができるが、私と汝は、場所と場所(無と無)であるから、決して出会えない。・・・しかし汝は(ありえないはずの)別の無の場所という資格で、この無の場所に登場してくる。どうしてそんなことができるのだろうか。それは、先回りして言えば、汝が言葉を語りうる存在だからである。もっと正確に言えば、そんなことができるということがすなわち言語(言語化された新しい場所)の成立そのものなのである。(p91)


要するに、永井氏によれば、「私」と「汝」がともに「彼」に変容することが、言語の成立ということなのだ。そして、よく考えてみれば、それは本当は「ありえないこと」のように思われる。つまり、言語が成立しているということ自体が、ありえない奇蹟、あるいは、我々の大いなる錯覚かもしれないというのが、永井氏の結論である。本書の最終頁にこうある。


>私と汝は自らのあり方を否定して、彼と彼、個人と個人の関係にならざるをえないのだから、与格(場所)的なあり方を否定して、主格(自らを対格とすることで可能になる主格)的なあり方をとらざるをえない。私はもはや無に戻る(戻り切る)ことはできない。とはいえ、私と汝は、彼と彼、個人と個人の関係になりきることもまたできないはずだ。私と汝が個と個の関係になれるのは、ただ[私でも汝でもない]第三者の場所においてだけであり、あるいはまたそれを先取りすることによってだけである。そして、そんなことは、本来、不可能ではないのか。(p99)


永井氏の『西田幾多郎』が面白いのは、こうしたぎりぎりの地点まで問題を突き詰めながら西田を読んでいるからだろう。「おーい幾多郎!」という永井氏の醒めた声が聞こえるところが何とも爽快だ。(完)