永井均『西田幾多郎』(2)

charis2006-12-10

[読書] 永井均西田幾多郎』(NHK出版)


永井氏によれば、西田の「純粋経験」はそれ自体の内に抽象的一般者を作り出す力を持っており、それが「場所としての私」である(p64f)。「場所としての私」は、「私が私に於いて私を知る」という「自覚」を行う(50)。西田の「自覚」のポイントは、たんに「私が私を知る」のではなく、「私に於いて」知るところにある。この西田の「私に於いて」は、「無の場所としての意識」「絶対無の場所」とも言い換えられるものであり、そこに永井氏は、述語の束としての世界の在り方と、私との根本的なギャップ、すなわち氏の言われる<私>の問題を見て取る(97)。


述語の束としての世界内個体と、「場所としての私」との違いはどこにあるのか? たとえば、私はある朝目覚めたら、特殊な記憶喪失症にかかっていたと仮定しよう。まったく見知らぬ部屋で目を覚ました私は、自分が誰であるか記憶がない。昨日までの記憶は失われているが、眼前に知覚されるものが何なのかを認知する、一般的な認知能力や言語能力は健在だ。私は、眼を覚ました部屋の中を調べ、運転免許証、書類、メールなどから、この部屋の主が「charis」という名の人物らしいことを知る。そして、charisの詳細な日記を読んで、世界内の個体charisに帰属するすべての述語の束を知る。それだけではない。鏡に映る私の顔は、運転免許証のcharisの顔とまったく同じだ。どうやら私はcharisという人物らしい、と私は考える。しかし私は、納得がいかない。「charisという人間についてはよく分かった。しかし、なぜ、他ならぬこの私が、そのcharisでなければならないのか?」


これは確かに奇妙な問いであるが、そこに矛盾は含まれていない。デカルトの「われ思う、ゆえに、われ在り」は、世界についての述語をすべて捨て去った後に残る「われ」だから、本来は、デカルトという世界内の個人とは区別される「われ」のはずである。西田が、「私は私に於いて私を知る」という場合、この「私に於いて」という「与格の私」が根源にあり、それは、主格になったり目的格になったりするところの、世界内の個人としての私に先立つ(55)。つまり、「与格としての私」「場所としての私」は、述語の束によって記述される個体としての私をつねに超越する。「これを西田風の捉え方で表現すれば、私は存在しないことによって存在する、というようなことになるだろう」(56)。


「直接的自己意識」というものを持ち出しても、「場所としての私」を表現することはできない。「直接的自己意識はあらゆる自己意識的存在者が持つのだから、そのうちどれが私の直接的自己意識であるかが分かるためには、ついには存在するもの(有)の間で成り立っている識別基準ではないものを頼りにしなければならない地点に達する。それが、つまり、無の場所である。達する、と言っても、実のところは、それこそがそもそもの出発点で、西田が初期には『純粋経験』と呼び、その後は『場所』と呼ぶものは、私の理解ではまさにそれなのである」(56f)。[続く]