永井均『西田幾多郎』(3)

charis2007-02-22

[読書] 永井均西田幾多郎』(NHK出版)


[12月からずっと、身内二人と自分の病気など立て続けでしたが、やや落ち着いたので、また少しずつ更新します。]


西田の「自覚」について、p48以下で永井氏は、西田の「場所としての私」「与格としての私」「無の場所としての私」を明晰に解き明かしている。私は、それを手がかりに論点を整理してみたい。西田は「自覚」について、「英国にいる自分が英国の完全な像を描く」という比喩を用いたが、私はそれを、「部屋にいる自分が、今この部屋の完全な像を描く」という場合で考えてみたい。


今、私は、この部屋の今の状態の正確な像を描いている。この部屋には、像を描いている私自身がいるから、私によって描かれるこの部屋の像には、像を描いている私自身がそこに描かれている。つまり、私の描いている像の中に、さらに小さな像があり、その像の中にもっと小さな別の像があるというように、この過程は、無限に進んで完結しない。では、このような像の中の像という無限進行の反対方向に進めば、そこには何があるだろうか。


その前に断っておかねばならないが、像を描いていない私、たとえばベッドで寝ている私を、その部屋の光景として描くことももちろんできる。しかしその場合は、描かれている私(=寝ている私)と描いている私は別の私であり、「今、部屋のここでこうしている私」を正確に描いたものではない。では、私のいない部屋を描くことはできるか? もちろんできる。無人の部屋の絵はいくらでもある。ただし、そのような絵といえども、絵を描く視点があり、その視点は絵の中にこそ描かれていないが、ある意味では絵の全体に浸透している。一枚の写真には、必ずそれを写したカメラのレンズの位置が対応しているが、そのレンズ自身は写真には登場しないのと同様である。しかし西田や永井氏の論点は、部屋なら、そこに私がいないこともできるが、世界全体なら、その中のどこかに私がいないことは不可能だから、結局、世界の中の私の「自覚」は、私のいる部屋の像を描くことと同じだということにある。「英国ではなく世界に関しては、世界の外に像を作ることなど、そもそもできないのだから、この無限進行は必然的なのだ」(p50)。


これの議論のポイントは、「自覚」とは、ただ「私が私を知る」ことではなく、「私が私に於いて私を知ること」だという点にある(p50)。つまり、世界の全体を考慮しないと、必ずそこに私が存在するという構図にならないので、私自身の像を描くことは、必ず、私がそこにいる世界全体の像を描くことと「込み」でしかありえない。そして、「その中に私がいる世界の全体の像」が描かれるのは、それが「私に於いて」描かれるという描かれ方になる。つまり、主格や対格の私ではなく、「与格の私」「場所としての私」が、世界全体が生起する「場所」になるのである。そして、このような世界全体が生起する「場所としての私」は、世界の内部にはないから、それは「無の場所」(p56)である。要するに、私が私自身を反省的に「自覚」しようとすれば、必ず、私がその中にいる世界全体と、その世界全体が生起する「無の場所」としての私に行き着かざるをえない。これが「私は存在しないことによって存在する」という「無の場所としての私」なのである。

そしてまた、この「この無の場所としての私」は、世界の中の述語の束としての私には還元できない。ここで西田は、永井氏のいう山カッコつきの<私>の問題と重なる。