[読書] 永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波、07年11月刊)
(写真は、デカルト『人間論』の図。「足の位置に熱さを感じる」真の原因は、足ではなく脳にある。この問題は『第六省察』で深められるが、永井氏の言う「ゾンビ問題」にも繋がる。足を失った人でも足に痛みを感じるから、内的体験としてのクオリア[=足の痛み]は「錯覚」とみなされる。だが、足の痛みのクオリアが、足の有無には無関係ということになると、<足のある>我々の感じるクオリアもまた「宙に浮く」のだろうか?)
永井氏の論点で重要なのは、クオリア(赤さ、すっぱさ、痛みのような内的感覚)の「秘私性」である(本書に限らず、以前からの中心問題だが)。我々は、夕陽を一緒に見ている友人が「きれいな赤だね」と言うのを聞いて、彼も自分に見えているような「赤い」クオリアが見えているのだろうと思う。だが、それは「言語が見せる夢」(p146)にすぎない。幼時の頃、私は母から、自分に見えているある色感覚を「赤い」と呼ぶことを教わったが、その時母には、私に見えている色感覚は見えていない。母はあくまで、母に見えている色感覚を指して「赤い」と呼んだのだ。だからその時、母に見えている色感覚とは違った色感覚が私に見えていたとしても、それを「赤い」と呼ぶことを教わった以上は、私はその後はすべてその色感覚をそう呼ぶしかない。色をどう呼ぶかをまだ知らない幼児の私は、「いやお母さん、それは赤じゃなくで青でしょう」などと反論することはできないからだ。つまり、「この色感覚は赤い」は、「アプリオリで必然的な真理」になる(ref.p148)。そして、このことがその後に、他者と「食い違い」を起こしたり、コミュニケーションの「辻褄が合わない」という心配はまったくない。信号のそれぞれの色が私にどう見えていようと、この色で止まり、あの色で進むという行動様式はすべて他人と同じだから、私の色感覚が他人と違うことは、一生を通じて他人に知られる恐れはないのだ。
このように、私の色感覚=クオリアは、言語を含む他人との共同生活においては、完全に「遊んで」おり、「宙に浮いて」いる。我々人間のように振舞うけれど、クオリアをまったく持たない生き物を「ゾンビ」と呼ぶならば、「われわれはもうみんなゾンビなのです。・・・<あなたは自分だけはゾンビではないと密かに信じているのではないですか?>などとはもう言わないでくださいね。われわれの問いが言語で語られているかぎり、そんな逃げ道はもうないのですから。どう<密かに>信じればいいのでしょうか?」(p102)
しかし永井氏は、このことは、「私的言語」の不可能性を意味するものではないと言う(p36, p152f)。その理由は、他者との間で食い違いが生まれなくても、自分におけるクオリアの逆転、たとえば、「今まで赤く見えていた色が青く見えるようになった」とは言えるからだ。その理由は、私は過去のクオリアの記憶を持つからであり、他者との間では不可能な「クオリアの比較」ができるからである(p88)。あたかも自明な対立であるかのように、「公共言語」なのか「私的言語」なのかという対置を行うのではなく、まさにクオリアの次元においてこそ「言語の不成立あるいは挫折、・・・言語の成立と不成立の関係」が語られる(p111)というのが、永井氏の主張である。
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の§253についても、永井氏は面白い解釈を提示する。「この問題について議論しているとき、ある人が胸をたたいて「でも、他人は<この>痛みを感じることができない!」と言うのを見たことがある。――これに対する答えは、<この>という語を強調してみせても、同一性の基準を定義したことにならない、というものである」(§253)。この箇所でウィトゲンシュタインは、「人物の個別性」によって同一性の基準を与えていると永井氏は批判する。「私が私の胸をたたいて、「この痛みは誰にも分からない」と言ったとき、相手の人も自分の胸をたたいて、「それはつまり他人は<この>痛みを感じることができないということを意味しますね?」と言ったとします。ウィトゲンシュタイン的には、答えは「その通りです」となるはずです。・・・しかしそれは、言語が世界を人称的に把握して、人称的世界が成立した後の話なのです。それ以前の段階の捉え方を言語で表現すれば、「いいえ違います。他人が感じることができないのは<この>痛みです。決して<その>痛みではありません」となるでしょう」(p110f)。つまり、ウィトゲンシュタインの答えでは、私と他者の非対称性が飛び越えられてしまっているが、永井氏の答えはそうではない。ここをどう考えるかは、とても難しい。[続く]