谷崎+マクバーニー『春琴』

charis2008-03-01

[演劇] 谷崎潤一郎原作、サイモン・マクバーニー演出『春琴』(世田谷パブリックシアター


(ポスターは、春琴を演じる深津絵里


谷崎潤一郎春琴抄』は、盲目の天才少女と身辺を世話する少年とのサディスティックかつマゾヒスティクな愛を描いた傑作小説である。句読点がきわめて少ない特異な文体で、春琴と佐助という二人の人物の一生が回想されるのだが、二人のあまりにも非対称的な関係から、ただならぬエロスが溢れるのに我々は衝撃を受ける。たとえば、
>肉体の関係ということにもいろいろある佐助の如きは春琴の肉体の巨細(こさい)を知り悉して剰す所なきに至り月並の夫婦関係や恋愛関係の夢想だにしない密接な縁を結んだのである・・・


>お師匠様[=春琴]は厠から出ていらしっても手をお洗いになったことがなかったなぜなら用をお足しになるのに御自分の手は一遍もお使いにならない何から何まで佐助どんがして上げた入浴のときもそうであった高貴の婦人は平気で体じゅうを人に洗わせて羞恥ということを知らぬというがお師匠様も佐助どんに対しては高貴の婦人と選ぶ所はなかったそれは盲目のせいもあろうが幼い時からそういう習慣に馴れていたので今更何の感情も起こらなかったのかもしれない。


>佐助は常に春琴の皮膚が世にも滑らかで四肢が柔軟であったことを左右の人に誇って已まず・・・しばしば掌(てのひら)を伸べてお師匠様の足はちょうどこの手の上に載るほどであったといい、また我が頬を撫でながら踵の肉でさえ己の此処よりはすべすべして柔らかであったといった。・・・[春琴は]すこぶる上気せ性のくせにまたすこぶる冷え性で盛夏といえどもかつて肌に汗を知らず足は氷のようにつめたく・・・なるべく炬燵や湯たんぽを用いず余り冷えると佐助が両足を懐に抱いて温(ぬく)めたがそれでも容易に温もらず佐助の胸がかえって冷え切ってしまうのであった・・・


このような原作をどう演劇化するのだろうか、マクバーニーらしく前衛的な手法や映像を使うのだろうか、などと考えながら劇場に足を運んだら、予想は見事にはずれた。語り手が谷崎の文章をほとんど原文通りに「語り」ながら、生身の人間が要所要所を演じるのだ。そこには文楽の手法が取り入れられており、少女の春琴は人形、次いで宮本裕子が演じて、どちらも二人の黒子に繰られるのだが、その黒子の一人が深津絵里で、彼女は人形や宮本を繰りつつ、春琴の声を発声する。その尖がってヒステリックで甲高い声が、いかにもサディスティックな春琴らしい雰囲気をかもし出す。そして、佐助の子を産んだ以降の春琴は、黒子を脱いだ生身の深津絵里自身が演じる。舞台上で黒のスーツから和服に着替えさせられた深津はゾクッとするほど美しい。そして、彼女にマゾヒスティックに仕える佐助は、少年時代がチョウソンハ、次が高田恵篤、そして老年の佐助と回想の語り手を演じるのがヨシ笈田である。


舞台の空間的構成は、中心に、黒子によって繰られる春琴の肉体、そしてその周囲を舐めるように這い回りながら仕える佐助の肉体、そしてその外側に、その光景自身を回想的に語る老いた佐助(ヨシ笈田)がおり、さらにその外側に、全体をNHKのラジオドラマとして吹き込んでいる女優の語り手がいる。つまり、何重にもなったメタ構造の「語り」として舞台が作られている。そもそも谷崎の原作からして、大阪の高台にある春琴と佐助の墓を語り手が墓参するという形で始まり、伝記的記述で終わるというメタ構造を持っていた。マクバーニーの舞台もまた、二人の墓と背後に広がる昔の大阪の写真の投影によって、始まりそして終わる。谷崎の句読点に乏しい文章も、文字として読む際には違和感があるが、全体を形作る「語り」としてならば時空のメタ構造によくマッチすることが分かる。テクストをこのように舞台で肉体化したマクバーニーは凄いと思う。役者は、深津絵里、チョウソンハ、そして何よりもヨシ笈田が素晴しかった。