野村萬斎『マクベス』

charis2010-03-13

[演劇] 野村萬斎・構成・演出・主演『マクベス』 世田谷パブリックシアター


(右はポスター、下はマクベスの萬斎とマクベス夫人の秋山菜津子)

野村萬斎が構成・演出・主演するシェイクスピアは、これまで『まちがいの狂言』(原作『まちがいの喜劇』)、『国盗人』(原作『リチャード三世』)があり、どちらも狂言役者・萬斎の身体性の魅力を生かした面白い舞台だった。いずれも物語を日本に置き換えた狂言風の作りであったが、今回の『マクベス』は、あくまでシェイクスピア劇として構成されている。マクベス夫妻以外は、3人の魔女(すべて男優)がダンカン王やマクダフなども演じるという、総計5人の簡素な作りだが、たった5人で大きな物語を表現することに成功している。小さな舞台に載った役者の身体表現が驚くべき表現力をもつという点に、能や狂言の伝統の力を感じる。狂言では、食べる場面でも、食べ物の実物(模型も含めて)は一切登場せず、食べるという人間の行為に注意を集中させる。今回の『マクベス』でも、マクベス夫人の手に付いた「血」も含めて、視覚的な「血」はまったく登場せず、観客の想像力に委ねられる。そういえばピーター・ブルックも、一枚の座布団と一本の棒だけで素晴らしい『ハムレット』を創造した(たしか、この世田谷パブリック・シアターだった)。ギリシア悲劇がそうであるように、観客の想像力を全開させるためには、最小の舞台装置でいくのが演劇の原点なのだ。


今回の『マクベス』は、全体のコンセプトを萬斎がじっくり考え抜いた作品だ。二年前に同じ5人のメンバーによるリーディング劇を行い、それをもとに舞台が構想された。半球の形をした破れ傘のような骨組みと、その周囲を回転する円形のコンベヤー舞台は、病んだ地球のメタファーであると同時に、終了後の萬斎のトークによれば、広島の原爆ドームとも酷似しており、さらにはマクベスの脳内妄想を表現する頭蓋骨でもあるという。イギリスの古城の物語が、二重三重の重層的な隠喩になっている。魔女に他の役や黒子姿の舞台係も兼ねさせるというメタ・シアター構造も、重層的な隠喩を生み出している。


私がもっとも感心したのは、人間の肉体は物質であり、死ねばゴミになり、塵になり、土に帰ることを前景化したことだ。役者が付けている王冠や小道具などは、すべて廃品=ゴミであり、そして終幕、マクベスマクベス夫人の風化した死体から、春の小さな花が芽を吹く。ポスターのバラバラ死体もそうだが、このように“みじめな物質性”としての人間を『マクベス』に見い出し、同時にそこに救いを見るのは、創見ではなかろうか。魔女の生み出した幻影がマクベスに与えた予言、「女から生まれた者は決してマクベスを倒すことはできない」という有名な科白は、「マクダフは帝王切開で生まれたのだから、女から生まれたのではない、だからマクベスを殺せる」という物語の展開を生み出す。この箇所、私はいつも何か釈然としないものを感じていたが、今回の萬斎版マクベスは、一つの回答を与えている。昔は、帝王切開で子供を取り出すことによって、母親は例外なく命を失った。つまり、生きた女が赤ん坊を産むのではなく、死体=ゴミ=塵=土から赤ん坊が取り出されるから、「女から生まれたものではない」のだ。そういえば、『ハムレット』最後のオフィーリア埋葬の場面、埋葬されるのは男か女かと問うハムレットに対して、墓堀り人夫は「男でも女でもない、死体だ」と答えていた。『マクベス』とも深く通底しているのだ。