山口二郎『若者のための政治マニュアル』(2)

charis2008-11-28

[読書] 山口二郎『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書 08年11月刊)


今日は第3章の、リスク論を見てみよう。山口氏によれば、人間には、多くの人々に共通する苦労、必ず遭遇しなければならない試練や難題が存在する。これが「リスク」の基本である。自然災害、伝染病などから生命の安全を確保し、食料を確保して飢餓を防ぎ、病気になったら医者に見てもらわなければならない。老親の介護、出産や子供の養育もやらなければならず、そして自分自身もやがて老人になり、病を得て死ぬことも不可避である。このようなリスクは、自分一人だけでは乗り越えることができない。だから、有史以来、人類はさまざまな仕方でリスクに対応してきた。リスクに備える最小の単位は家族であり、家族にできないことはムラの共同体が行ってきた。現代では、大規模な事故や経済恐慌といった、新しいリスクも生まれている。


リスクに個人で対応することは困難であるので、リスクを社会全体で引き受け、「多くの人々に共通するリスクに対応することを専門とする機関、つまり政府の役割が広がっていくことは必然である。」(p52) 政治の基本的な役割は「公益の実現」であるが、その公益のもっとも重要な部分が、生命・安全の確保や、さまざまなリスクへの対応なのである。だから、医療、健康保険、失業保険、生活保護、介護、年金、農業の保護、遺伝子組み換え品種、食品の安全、そして、政府による預金の保護、金融機関の救済などは、先進国で大きな政治的争点になっている。税率の問題も、公益の実現にかかる費用の負担の問題である。


アメリカは、リスクを社会全体で担うという発想のもっとも薄い例外的な国であり、銃の所持権もそうであるが、国民皆保険というシステムがない。健康保険は、利潤の獲得を趣旨とする民間の保険会社が行っており、高い保険料を払えない低所得者は病院から道路に放り出される。このようなアメリカを基準にした「グローバル・スタンダード」なるものに、リスク負担の仕組みがそれぞれ違う他国が無邪気に追随することは危険である。アメリカかぶれの学者が得意げに語る「自己責任」論を、我々はしっかり吟味しなければならない。


日本は、アメリカとは異なる仕方でリスクの社会的負担を行ってきたのだが、それがうまく機能したのは1980年代後半までであったと、山口氏は指摘する。たとえば、公共事業における「談合」は、現在では悪として糾弾されるが、もともとは、零細な建設会社にも仕事を回して、田舎でも雇用を創り出すという点では、リスクの社会化の一形態なのである(p62)。しかし、談合は政治や行政の腐敗と結びつきやすく、官僚支配や天下りが批判されるようになると、そのような仕組みは維持できなくなる。「護送船団方式」の行政指導が批判され、「官ではなく民間へ」がスローガンになる。「グローバル化」や「規制緩和」「自己責任」などは、社会によるリスク負担の仕組みを破壊する危険な要素もあるのに、それがよく吟味されないまま、小泉の郵政選挙の大勝まで来てしまった。小泉以降の自民党政権が短命に終わっているのは、そうした20年来の経緯の反動であり、首相個人の資質の問題というよりも、「公益の実現」という政治の基本を自民党政権が担えなくなったからである。年金、医療、雇用などが、最近の選挙の争点になっていることや(「生活が第一」)、麻生首相の失言(「アルツハイマー」「医者は非常識」「病気はなる人が悪い」)が医療に関わる話題だったのも偶然ではない。


規制緩和とは、社会経済活動を制約する法律の仕組みを撤廃することである。規制は、本来、環境、安全、人権などの公共的価値を保護するために設けられたものだが、・・・官僚主義の打破、世界標準の市場ルールなどのかけ声で、多くの規制が撤廃された。その結果、弱者保護や人権保護のためのルールもなくなり、弱肉強食の過酷な市場経済が姿を現したケースも多い。労働の世界に規制緩和が及べば、従来の労働者保護のルールが廃止され、雇う側がより安く労働者を使えるような環境が作られる。正社員はどんどん減り、派遣やアルバイトなどのいわゆる非正規雇用が増えていく。(65)


>しかし、小泉流の「改革」によって、大きなリスクを抱えて苦しむ弱い立場の人間が増えても、社会はけっして良くならない。医療や教育の質を下げても、誰も幸福にならない。むしろ、改めてみんなが抱えるリスクを直視し、共通するリスクについては社会全体で担っていくことこそが、急務である。(67)  [続く]