山口二郎『若者のための政治マニュアル』(3)

charis2008-11-30

[読書] 山口二郎『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書 08年11月刊)


(下記は、非正規雇用者の割合。全体で3分の1強、男性で2割に達した)

前回見たように、「リスクへの対応」という視点に立つと、現代の政治の数多くの争点の必然性がよく分かる。続いて山口氏は、規制緩和論者が強調する「自己責任」あるいは「努力した者が報われる社会」というスローガンを吟味する(第4章「無責任でいいじゃないか」)。「努力したものが報われるべし」というテーゼは、分かりやすいようでいて、実はとても抽象的である。誰が、どのような状況で、どのような「努力」に、どのような「報い」が与えられるのかによって、このテーゼは妥当にもなり不当にもなる。


まず、基本的な認識として、今の日本で苦境に置かれている人々は、「自分の努力が足りない」から苦境に置かれているのだろうか? 就職氷河期で正社員になれなかった世代の若者、不況でリストラされて職探しをしている中高年、資金繰りに苦しむ中小企業経営者、大型店の出店でつぶれた小売店、さまざまな事情から過疎の地域に住まざるを得ない人々。これらの人々は自分の自由にならない事柄で苦境に置かれているのであり、「努力が足りないから」ではない(p80)。これらの人々が直面しているのは、人間らしい生活が脅かされているというリスクであり、リスクへの対応は社会全体で負うべきものである。つまり、公益の実現という政治の役割なのである。ほとんどの人間にとって、自分の置かれた客観的状況というものは、自分の自由にはならない。その自由にならない状況の中で、誰もが努力しているのだ。


>日本の世の中では、たいていの人が日々の暮らしを支えるために懸命に努力している。・・・努力した者が報われる社会を作れと強者が言うとき、そこでは暗に、自分たちだけが本格的に努力しているというおごりが前提とされている。[彼らは]人はみな自分の生きる場で努力しているという事実を想像できない・・・。普通の人々の努力が報いられるためには、それなりのルールと舞台設定が必要である。農業や流通業に対する保護、労働者の権利規定、働く母親に対する政策的なサポートなどは、すべてそのような舞台設定である。こうした舞台設定やルールを取り去って、すべての人間を無理やり一つのものさしで競争させようというのが、いわゆる新自由主義である。(81)


「努力する人間、優秀な人間は高い報酬を得るべきであり、能力の劣る人間は社会的に低位におかれるべきである」とする世界観は、実は、狭い、誤った「公正」観に立っている(82)。個人の才能やその才能ゆえに生み出されたものは、その個人に属するべきだというのは、本当に自明なことなのだろうか? たとえば、優秀な能力をもつ一人の赤ん坊が生まれてきたとしよう。そして、裕福で優秀な両親のもとで良い環境で教育され、すぐれたエリートに育ったとする。しかし、そのことは彼/彼女の努力の結果ではなく、彼/彼女の外部から彼/彼女に与えられた「賜物」「贈り物」である。自分に対して運命の偶然が与えてくれた「贈り物」を自分が独占してよいというのは、けっして「公正」な考え方ではない。「贈り物」が高価であればあるほど、自分が偶然それを受け取ったことに感謝し、その成果を自分の外部すなわち他者に還元することが、「贈られた者」のあるべき「応答=責任/response=responsibility」であり、これこそが本当の意味で「公正」なのである。「努力できる」かどうかということも、本人の体力や知力、性格など、ある程度は生まれつきや育った環境に依存しており、本人の自由にならない要素をもっている。だから、社会の指導的立場に立つ者が「お前たちは無能なのだから低位に置かれて当然」と言うことは、まったく「公正」に反することなのである。


山口氏は、内田樹氏の次の言葉を引いて、新自由主義者の世界観がおかしいことを指摘する。「人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていない。・・・集団は、オーバーアチーブする人間が、アンダーアチーブする人間を支援し扶助することで成立している。」(82) これは、ある意味では誰でも知っていることであるが、社会の基本原理をなす重要な前提である。かなり前のことだが、富士通の社長が「うちの会社の業績が悪いのは、社員が働かないからだ」と公然と述べて失笑を買った。日本でいち早く導入した富士通の「成果主義」は、実はうまく機能していないという記事も読んだことがある。会社の業績が悪いならば、まっさきにその責任を取るべきは社長であるのに、何という勘違いだろう。どんな会社でも職場でも、優秀で努力家で、人一倍会社や職場のために働く「オーバーアチーブ」の人がいる。そのような人は、周りから信頼と尊敬と感謝を寄せられるが、これこそが彼/彼女に与えられる最高の報酬であり、自分に偶然に与えられた「贈り物」を正しく使った報酬なのである。人間社会というものは、それを形成するさまざまな人間の間に、このような「応答=責任」の原理が働いているのである。