山口二郎『若者のための政治マニュアル』(1)

charis2008-11-25

[読書] 山口二郎『若者のための政治マニュアル』 (講談社現代新書 08年11月刊)


北海道大学山口二郎氏の近著。読みやすく、分かりやすく、重要なことが書かれているので、その論点を紹介したい。私は今、勤務先の大学で、来年の4月に開設する総合教養学科の責任者なので、「読書の楽しみ」という新設科目の中身をあれこれと考えあぐねている。若者が本を読まなくなったという中で、大学の新入生に丸山真男『日本の思想』やプラトンソクラテスの弁明』などを、いきなり薦めるわけにはいかない。前提知識をあまり必要とせず、読みやすく、しかも内容が深く、その先を勉強してみようという気になる本は、そう多くはない。そのような意味で、本書は、ぜひ新入生に読ませたい本の一冊である。


本書で山口氏は、「民主主義を使いこなすための10のルール」を提示する。その10のルールは、「生命を粗末にするな」「自分が一番――もっとわがままになろう」「人は同じようなことで苦しんでいるものだ、だから助け合える」「無責任でいいじゃないか」「今を受け入れつつ否定する」のように、分かりやすいものであり、しかも、民主主義とは何か、政治の本来の役割、公共の利益のあり方、新自由主義などの重要な問題の考察に導くように書かれている。たとえば、新自由主義をめぐる考察は、本書の重要な柱である。小泉改革に典型的に示されたように、新自由主義者は、「市場の合理性」に対する「公的部門の非効率」を強調し、規制を緩和して「自由な市場」にすべを委ねるべきだと説いた。政治学者の飯尾潤氏も「行政依存人」(政府の保護を受けてぬくぬくと暮らしている人)と「経済自立人」(行政とは無縁の経済活動で生計を立てている人)という対立概念にもとづいて、前者を批判した。


だが、山口氏は、このような主張自体が、偽の対立軸を意図的に設定する政治的行為であると喝破する。「公的」の理解が間違っており、狭すぎるのだ。「この種の議論は、政策とは無縁の経済活動が広範に存在するという空虚な前提に依存しているという点で、大きな誤りをはらんでいる。」(p167) 現代では、どのような経済活動も何らかの政治を介したルールにもとづいて行われており、政治や行政と無関係に自立した経済活動は存在しない。アメリカが執拗に「グローバル・スタンダード」を他国に強要したように、「自由な競争」という見せ掛けは、それ自体が高度に政治的な産物なのである。規制を緩和した自由な競争といっても、それは決して同じスタート地点に立つ公平な競争ではない。すでに有利な条件に立つ強者が、自分がさらに有利になるようにルールを変更する「私益」の追求なのだ。そのような強者は、お経の題目のように「自己責任」を唱え続ける。我々はまず、「自己責任」という言葉のこのような政治的性格を見抜かなければならない。


あらためて考えてみると、政治のもっとも重要な役割は「公益」の実現である。公益=公共の利益とは、その利益が社会の構成員のほとんどに及ぶような利益である。「ある人々の犠牲において、ある人々の利益を増進するような政策は公共の利益ではない」(p35)。だが、公益というものは自明なものとしてあらかじめ決まっているのではなく、各人がさまざまに異なる私的な利益を主張し・求める中から発見され、作られてゆくものである。民主主義としての政治の役割は、私益のぶつかり合いの中から公益を発見することにあり、だからこそ、表現の自由言論の自由、思想信条の自由は大切なのだ。新自由主義者は、自分の「私益」を、あたかも「公益」であるかのように語って勝利した。2005年の郵政選挙では、小泉改革によって犠牲になる若者たちが熱烈に小泉を支持するという逆説的な事態が起こった。規制緩和の結果、経済格差が広がり、たくさんのワーキングプアが生み出されたにもかかわらず。


これに立ち向かうには、経済の問題を、何よりもまず政治の土俵で捉える視点が必要である。アメリカ発の「グローバル・スタンダード」や小泉改革によって強者の「私益」追求の犠牲になった人々、とりわけ若者が、もっと自己と自己の「私益」を主張し、政治的な力とならなければならない。新自由主義者の偽の「公益」論に騙されずに、彼らの「私益」に対して自分たちの「私益」をぶつけ、その対立の中で新しい「公益」を作り出してゆくこと。これが政治である。近代民主主義の原理に立ち返り、民主主義的な政治闘争を通じてのみ、経済的な要求もまた実現できるのである。


我々はともすれば「現実」を前にして意気消沈しがちだが、「現実」というものは決して一枚岩の単純なものではなく、「現実」それ自体が対立的・複合的側面から成り立っているのだ。山口氏は丸山真男を引用しつつ、次のように述べる。「現実とは多様であり、また人間の働きかけによって動きうるものであるにもかかわらず、日本ではつねにある種の現実が不動の前提とされ、それに追随することを現実主義と呼ぶ傾向がある」と(p177)。このような「現実主義」ではなく、多面的な現実に働きかけ、それを作り変えてゆくのが民主主義の政治なのである。山口氏はこのようにして、若者を励ます。(続く)