ヌスバウム『感情と法』(3)[羞恥について]

charis2011-10-04

[読書] ヌスバウム『感情と法』(慶応大学出版会)  (3)
(承前) 今日は「羞恥」についてです。


嫌悪が、人間の動物性にストレートに関る感情であったのに対して、「羞恥」は、動物的なレベルとは異なる人間固有の「自我のあり方」に基づく感情である。羞恥とは、当然できなければいけないと見なされていることができない、という意味での自分の欠点が露わになることの苦痛の感情である。嫌悪感が、どうしようもなく露呈する自らの動物性への拒否感情であったのと違って、人間のあり方の「規範性」からの逸脱の感情が、羞恥なのである。ヌスバウムは、「羞恥」を次のように記述する。


>嫌悪感と同様に、羞恥は、私たちの社会生活の至る所に見られる感情である。・・・私たちは、人生を経てゆくに応じて、自分の弱点を他の長所で埋め合わせたり、それを克服しようと鍛錬したり、あるいは否応なく欠点があらわになってしまうような状況を避けたりするなりして、実際に自分の欠点を覆い隠すことを学んでいく。私たちの多くは、ほとんどの時間、「正常に・規範的にnormal」見えるようにと努力している。そして時に自分の「異常な・規範的でないabnormal」欠点が否応なく露わになると、赤面して恥じ入り、自分自身を覆い隠し、自分の眼を背けるのである。恥辱とは、こうした欠点の露呈に対して生じる苦痛の感情である。(p221)


>恥辱は、[嫌悪に比べると]より巧妙に成立している。この感情はさまざまなかたちの目標や理想に関って人を駆り立てるが、こうした理想や目標には時に重要なものも含まれている。・・・とはいえ、恥辱の起源は、完全であろうとする欲望、あるいは完全に支配しようとする欲望、そういった原始的な欲望に存する。それゆえこの感情は潜在的に、他者の軽視につながっており、またナルシシズム達成の妨げになるようなものに対して牙をむくような、ある種の攻撃性につながっている。(p236)


ここでヌスバウムが、恥辱は「より巧妙に成立している」と述べていることに注目しよう。嫌悪は我々の動物性に直接に関っているので、そのネガティブな側面は見やすいものであった。しかし羞恥は違う。羞恥は何よりも、我々が「完全であろう」とする欲望、つまり肯定的なものに貫かれている。それゆえ、羞恥は何か、我々を向上させるもの、我々に規範を意識させるものとして、建設的で肯定的な感情であるかのように理解される。というのも、羞恥は、我々に期待され要求されるものに自分が応えられないという感情であるが、このことは裏返せば、我々は何かを要求されたり期待されるに値する存在であり、しかもそれに応えられると自分も他人も思っているからこそ、応えられない自分が恥ずかしいからである。嫌悪の場合は、自分の排泄物や肉体がおぞましいとしても、そのおぞましさに自分の責任はないが、羞恥の場合は、要求に応えられない自分が悪いという、何か責任のようなものが自分にあるように感じられてしまう。ここに羞恥の感情が持つ複雑な性格がある。


ヌスバウムが羞恥心の分析のために参照・依拠するのは、アメリカの対象関係論学派の精神分析ウィニコットである(その成果は、実証的な発達心理学とも整合的と言われる)。ウィニコットは、幼時段階における「原初的羞恥心」を重視する。ヒトは、他の哺乳類と違って、生れたばかりの赤ん坊はまったく無力で、完全に他者に依存しなければ生きられない。乳児が他者に完全に依存して生きる長期の無力の期間に、原始的な感情が芽生えると考えられるからである。乳児は、「空腹の苦痛の状態だけでなく、また[授乳による]快適さと充足との交互の感覚を経験している」(p230)。乳児はフロイトによって「赤ん坊陛下」とも呼ばれた。乳児は、他の哺乳動物の誕生直後の赤ん坊と違って、自分ではなにもやらない。王様が自分は何もしないですべてを召使にやらせるように、すべてを周囲の大人にやらせる。乳児は、生きるための手段のすべてを他者に依存している。しかしすべてを他者に依存することは両義的な事態でもある。つまり、授乳は他者からもたらせるので、それが期待通りにならないという苦痛を必ず経験する。当然あるべき授乳がなされない。先行する期待が裏切られるという原初的な苦痛の感覚が、羞恥の原型なのである。「幼児における羞恥心は、何らかの期待や喜びの中断によってもたらされる苦痛の情緒として定義される。」(p234)


>羞恥心は、生後一年間にわたって徐々に現われるのではないだろうか。またおそらく十分に成熟した感情が到来するのは、分離の感覚が完成した後に限られるのではないだろうか。・・・注目したいのは、羞恥心がけっして自尊心self-regardの減少を命じはしないという点である。ある意味で、羞恥心とは、本質的に自尊心を背景として要するものなのである。人が、自分の不完全さや、自分のつまらなさのしるしを前に尻込みしたり、それを覆い隠してしまったりするのは、何かしらの点で自分が完全で、価値があるということを期待しているから。・・・より一般化して言えば、ここで理解されている限りの羞恥心とは、何らかの理想的な状態に達しえなかった感覚に対する苦痛の感情なのである。羞恥心とは、ある特定の行為に関るというよりは、むしろ自己全体に関るものである(一方、罪悪感の向けられる主たる対象は、人物全体というよりも、特定の行為である)。(p235)


だが、問題は実はここから始まる。期待した授乳がなされない、来てほしい母親が来ないなどの苦痛を乳児が経験するとしても、そのことと、羞恥が問題的な感情になることとの間には、まだ大きな距離がある。なぜ羞恥は、人間が成長するに従って問題的な感情になるのだろうか。乳児は、初めは、自分が何もやらず、すべて周囲の大人がやってくれるという“王様状態”にあるが、自分が動けるようになるに従って、自分と外界との関係は変わってくる。するとこの変化の中で、自分の“王様状態”とそれに固有の快と苦の感情も、変わらざるをえない。つまり、乳児は自らのナルシシズムを乗り越えなければならないのだが、この過程でさまざまな問題が生じるのである。ヌスバウムは、ナルシシズムの乗り越えのもっとも望ましい形態を以下のように記述する。


>子どもの全能感に対して適切な反応を返し、しっかりした世話をする両親(あるいは他の保護者の)対応の能力は、やがて徐々に育まれていくことになる相互依存や信頼関係のための枠組みを構築する。ひとたび、他人が頼れるものであるということ、そして、まったくの無力な状態の中で見捨てられたりはしないのだということが理解されたならば、幼児はその全能感を徐々に緩め、常に関心を向けてほしいという欲求を次第に緩めていくのである。(p238f.)


>真に成熟した関係へと向う中で、いかにしてナルシシズムが乗り越えられるのか。・・・子どもは、保護者の完全な支配[=赤ん坊陛下、全能感]という要求を不適切なものとみなして、徐々にこれを断念できるようになっていかなくてはならない。・・・子どもが、悪しき望みと悪しき行いを、善き望みと善き行いによって贖うことができると学ぶ時、その支配の断念には創造性も伴うのである。・・・世界の中心たろうとするまさにその欲求が別の人間を傷つけてしまっていたのだと気がつく瞬間から、多くの愛と創造が始まるのだとメラニー・クラインは鋭く指摘する。他者もまた生活する権利を持ち、自身の意図を携えているのだと理解していることを示しつつ、いまや子どもは他者のために何かをしようとし始める。・・・愛は、ナルシスティックな融合や、支配せんとする激怒を通じてではなく、交流や相互性を通じて徐々に理解されていく。(p240)


そうはいっても、これはかなり困難な過程である。ヌスバウムプルーストの『失われた時を求めて』を例に、次のように述べる。


>人生における初期のナルシシズムの刻印は大変根深い。プルーストは、この刻印は克服されえないものであると考え、後に生じるいっさいの愛は本質的に、かつて支配されることを拒んだその人、つまり母親を支配せんとする試みであると考えている。(p240) 


また、「羞恥」の分析ではもっとも重要なものにマックス・シェーラーのものがあるが、シェーラーは羞恥の根源に性的なものを見た。それに対し、ヌスバウムは、第二次性徴以降の人間において確かに羞恥と性的なものは重なる面もあるが、起源は違うと考える。仕事の失敗を恥じるなど、性的でない羞恥はいくらでもある。[続く]