ヌスバウム『感情と法』(4)[男子の病理としての羞恥]

charis2011-10-05

[読書] ヌスバウム『感情と法』(慶応大学出版会)  (4)
(承前) 今日は「細やかなやりとり」ができない男の子という問題。


「羞恥」の感情は、ナルシシズムの乗り越えに関る問題を抱えている。ヌスバウムによれば、「羞恥」は、自分の貪欲さを反省するという「建設的な羞恥」もあるが(p270)、病理的で「危険な恥」もある。病理的な羞恥とは、「すべての人間が共通に担っている脆弱性を受け容れ」ようとせず(p271)、完全性を目指さねばという強迫観念によって自我が硬直してしまうことである。羞恥とには、人間の弱さから目をそむけるという危険な要素があるというのが彼女の考察である。しかも、羞恥が病理的な形態になるのは、女子ではなくほどんどが男子なので、そこには社会を支配するジェンダー・バイアスが存在している。


ヌスバウムは、原始的羞恥心からの脱却がうまくできず、ナルシシズムの乗り越えに失敗した実例として、精神分析ウィニコットの患者Bと、J.S.ミルの例を挙げる。ミルは、厳格な父と、あまりに多くの子どもの出産のために精根尽き果て母によって育てられたので、ロボットのような受身の感覚を抱くようになり、いかなる能動的な内的感覚も感じられなくなっていくという精神の危機を体験した。しかし、ハリエット・テイラーという稀有の女性と出会い、結婚することによって救われ、立ち直ることができた(p250~253)。


ウィニコットの患者の医学部学生Bは、愛情に乏しく、完全性だけを執拗に求める母親に育児されたので、母親に甘えることができずに育った。彼は成長してからも、母親を支配したいという欲望が強く、それが女性に対する敵意という形で成人した後まで残ってしまった。「女性に対する敵意」というものは、本人もそれと気付かずに、いわば通奏低音のように患者Bの心を支配するので、彼は女性とうまく付き合っていくことができない。彼は、結婚をした後にも不全感に悩まされ、セラピーを受けることになった。Bは、自分の妻の外見、容貌や振る舞いについてウィニコットに尋ねられても、ほとんど何も答えられなかった。毎日一緒に暮らしていても、何も見ていないのである。それからBは、誰もが親しい人に対して使うファーストネームをほとんど使うことができなかった。誰に対しても親近感を持てないのだ。Bに対して、ウィニコットは、次のようにセラピーを行った。


ウィニコットは、現実の人間関係においては「細やかなやりとりsubtle interchange」の要素があるのだと彼に告げる。・・・ウィニコットは次のように結論する。愛とは、多くのものを意味している。「けれどもそこには必ず、この細やかなやりとりの経験が含まれていなくてはならないし、そういった関係の中でこそ、人は愛を経験し、また現に愛していると言えるのである。」・・・先に見たように、羞恥心はいかなる点においてもけっして自尊心を損なうものではない。明るみに出された自分の支配の欠如や不完全性の前で人が尻込みしたり、あるいはそれらを隠そうとしたりするのは、ひとえに自己に支配を求めたりあるいは完全性を期待したりするからなのだ。先に示されたように、適切な成長過程においては、子どもは、欠如を恥じるべきではないのだと学んでいき、不完全な者同士の柔軟で創造的な「細やかなやりとり」に有益な喜びを感じるようになっていく。(p243)


ヌスバウムによれば、患者Bのようにナルシシズムの乗り越えに失敗するのは、そのほとんどが男子である。なぜそうなのだろうか、また、どのような問題がそこに伏在しているのだろうか。


>有能さと正常さの薄っぺらな見せかけを作り出して世に示してはいるが、他方で自分のうちなる欠乏をうまく隠してしまうことによって、発達が滞り、恥辱にいっそう苦しめられている患者たち――けっしてすべてではないが、そのほとんどが男性である――臨床的な文献は、そんな患者で溢れかえっている・・・女性たちは、成熟とは継続的な相互依存の関係を含むものであり、また欠乏を示すような感情は妥当なものなのだというメッセージを親から受け取っていく。その一方で男性は、母親への依存が悪しきものであると教えられ、また母親からの分離や自立こそが成熟であると教え込まれ、往々にして彼らは自らの感受性や遊ぶ能力について恥を感じるようになっていく。(p246f.)


男子は、自分の弱点を隠すのが巧くなるに従って、「細やかなやりとり」が苦手になる。そこで起きているのは、感情が豊かに育まれないという不全である。そのまま成人した男性でも、能力が高い人は仕事において成功し、高い社会的地位に付いている人も多いので、「細やかなやりとり」ができず、とりわけ女性と感情の交流ができないとしても、そのことが“病理的な”問題として意識されることはまずない。「そういう性格なんだ、そういう男はたくさんいる」という一般論で、普通は片付けられてしまう。しかしヌスバウムは、そこに教育あるいは社会における底深いジェンダー・バイアスを見出す。男の子に感情が育まれないのは、男の子は感情に流されず、強くなければならないという、社会がもつ男子への期待があり、男の子は幼児からそのように教育されるからである。


>何より問題なのは、誰も少年たちに内的世界を吟味あるいはそれを表現するように勧めないことなのだ。彼らは人の気持ちや内的世界に関してひどく無知であるが、それは大人たちが彼らにそれ以上を期待しないからなのである。幼い子どもが感情について母親に質問する時(たとえば「どうしてジョニーは泣いているの?」といった)、母親は女の子には詳しく答える一方で、男の子には、簡潔で、踏み込まない答えをしがちだという。母親は、女の子がこうした興味をもつことを望んでいるはいるが、男の子に対しては期待していないのである。学校に行くようになるまでは、男の子は自分の悲しみや気持ちといったものについてまったく見当もつかず、また人の気持ちに共感することもかなり困難になってしまっている。彼らはすでに、欠乏や悲しみが恥ずべきものであると、思い込んでしまっているのだ。彼らに常に送られているメッセージと言えば、耐えよ、こらえよ、男たれ、ということなのだから。・・・女性的であるような一切の側面を、つまり感情、とりわけ悲しみや、欠乏、共感などを軽蔑する傾向が見られる。・・・好戦的であるのも傲慢であるのも大いに結構であるが、「軟弱」なのはよろしくないというわけだ。・・・多くの少年たちの生活に多様なかたちで刻み付けられている恥辱の経験は、敵意へと変じていく。つまり、女性に対する敵意、自分自身の傷つきやすい部分に対する敵意、またしばしば自分の所属する文化の支配層に対する敵意へと向っていくのである。(p256f.)


ヌスバウムは、そのような男性の特徴として、文学への興味がないことを指摘する。


>彼らは、気持ちのやりとりや相手への信頼を必要とするような本当の親密さを得ることはできない。というのも、彼らは自分の内的な欠乏に関心を向けるすべを知らず、またこの欠乏に向き合うこともできないまま、他人を信頼することから目を背けているからである。同じ理由から彼らは概して、文学や詩など、内的世界をめぐって展開される作品や、内的世界における努力に対して何ら感動を覚えない。・・・オットー・カンバークのある患者は、自分の内面的な生活にもまた他者の内面性にもまったく興味を持つことができず、いつも文学作品を馬鹿にしていた。「堅固で冷たく、有用な事実」しか受け入れなかったのである。(p247f)


以上が、「怒り」「嫌悪」「羞恥」についてのヌスバウムの基本見解である。これをもとにして彼女は、規範や法実践と感情との関係について論じる。その中でも「わいせつとポルノグラフィー」の問題は興味深い論点を提示しているので、少し後になるがまとめてみたい。[続く]