文学座『尺には尺を』

charis2014-02-22

[演劇]  シェイクスピア『尺には尺を』 文学座公演(鵜山仁演出)、2月22日、池袋アウルスポット

(写真は、左からイザベラ、マリアナエスカラス、アンジェロ、修道士に化けた公爵)

『尺には尺を』はイギリスでは人気らしいが、日本ではそれほど上演されないようだ。すぐ入手できる翻訳も小田島訳しかない。私が実演を観るのはこれが三度目、2006年にアカデミック・シェイクスピアカンパニー公演(彩乃木崇之演出)と青年劇場公演を観た(青年劇場の演出は、昨日の『お気に召すまま』の高瀬久男だった)。もともとシェイクスピアの「問題劇」と言われており、主要な登場人物の行為や振る舞いに納得いかない点があり、全体の成り行きが釈然としないまま終わる作品なのである。ウィーンを治める公爵は乱れた風紀を立て直すために、位を一時アンジェロ卿に譲り、自分は水戸黄門のように姿を隠して国情を探っている。自分の手で厳罰を復活すると評判が落ちるので、嫌な役割をアンジェロに押し付けたわけだ。アンジェロにはマリアナという女性との婚約を不当に踏みにじった過去があるのに、それを知る公爵がアンジェロを「非の打ちどころのない人物」と評し、周囲の人もそう思い込んでいる。しかし事件が起こるやいなや、公爵らしくない策略を次々にめぐらすだけでなく、ただちにウィーンに戻って公位に復帰する。水戸黄門大岡裁きのような「君子の善政」というには、公爵に小賢しい感じが残り、どうも釈然としない。


一方アンジェロは、内縁の妻を妊娠させた青年クローディオを婚前交渉の罪で死刑にするという謹厳なピューリタンのようでありながら、死刑をやめるよう嘆願した妹のイザベラが美人の修道女であるのにムラムラっときて、イザベラが処女の操を自分に提供すれば兄を許してやるというとんでもない取引を提案する。このような悪い男でありながら、最後に事がばれたときには、「自分は死刑になって当然」と淡々としている。またイザベラは、兄の生命より自分の貞操がはるかに優先するという貞操原理主義であるのはまぁアリとしても、最後の場面で、自分を弄ぼうとしたアンジェロを許し兄には厳しいという、不可解な態度を取る。「この人[=アンジェロ]は、私にお目をとめるまで、その職務を忠実に果たしました。ですから死刑だけはお許しください。兄は死にあたいする罪を犯しましたので、死刑になったのも当然です」(第5幕第1場)。要するに、結婚を予定している内縁の妻を妊娠させた兄は婚前交渉の罪で死刑になって当然だが、自分を犯そうとしたアンジェロの罪は軽いというのだ。そういう変な女に、公爵が最後にプロポーズするというのも解せない。プロポーズを受けたイザベラは無言のまま幕が下りるが、1950年のピーター・ブルック演出では、プロポーズの言葉を聞いたイザベラは公爵をはり倒した。こちらの方が、修道女イザベラの一貫性のある態度のように思うが、本公演の鵜山仁演出は、イザベラは公爵のプロポーズを受入れたように幸せ一杯という態度を取る。めでたしめでたしという大団円なのだ。


この鵜山演出は、「問題作」である『Measure for Measure』を、何とか受け入れ可能な物語として再構成しようとする試みで、これはこれで評価できる。木下順二は、タイトルの意味を「尺には尺を」ではなく「策には策を」と解したそうだが、「サプライズ」の大好きなおもろいおっちゃんである公爵が、奇策をつぎつぎに繰り出して、似非ピューリタンや頑なな律法主義者を懲らしめ、嘲笑し、そして最後に全員を救済するというハッピーエンドのドタバタ喜劇というわけだ。この方向で舞台を作るために、鵜山演出は、細かい工夫をたくさんしている。たとえば、アンジェロから処女の操と交換という提案をされて驚愕したイザベラが、自分の体を汚して永遠の罪に落ちるくらいなら、兄が死んだ方がましだと、きっぱり断り、自分を励まして言う独白:「さあ、イザベラ、操を守って生きるのよ、お兄様が死ぬとしても。お兄様は大切でも、女の操はもっと大切ですもの」(第二幕第4場最後)。この科白をイザベラは、2006年の高瀬演出では、いかにも原理主義者らしく毅然として胸を張って言ったが、本上演では、ほとんどすすり泣きながら、途切れ途切れに言う。つまり、イザベラは原理主義者の厳格さの仮象をとっているが、その内実は、人間らしい感情のある普通の弱い女なのだという解釈であり、厳格ピューリタン風のアンジェロが実はセクハラおやじだというのはよくあることとみなすのと同じく、「生身の人間の真実」に寛容であってこそ、喜劇に仕立てることができる。「女に目がない、ちょい悪オヤジ」という公爵のキャラを石田圭祐も見事に演じた。鵜山演出は、この作品を「人間みんなどこか変」という線で一貫させた。それは評価できるが、しかしこの作品には、もっと別の解釈もできるのかもしれない。