文学座『お気に召すまま』

charis2014-02-21

[演劇] シェイクスピア『お気に召すまま』 文学座公演(高瀬久男演出)、2月21日、池袋アウルスポット

(写真右はポスター、下はロザリンド役の前東美菜子、24歳の新人)

『お気に召すまま』の実演を観るのはこれで4回目だが、この作品の難しさと独特の魅力をあらためて感じさせる舞台だった。これまで『十二夜』と似たような「ロマンティック・コメディ」として観てきたが、『お気に召すまま』はずっと「渋い」作品なのだと思う。主人公ロザリンドのトランス・ジェンダーの不安定さ、あるいは「セクシュアリティの曖昧さ」(前沢浩子)がこの作品の要なのだが、ロザリンドは非常に難しい役だ。ロンドン・グローブ座の日本公演(1998)では演出が二十代の女性だったからか(Lucy Bailey)、男装のせいで自分の女性性が表現できずに苦しむロザリンドが前景に押し出されていた(=オーランドが来たことを知ったロザリンドは狂喜して全裸になったが、男装を乱暴に脱ぎ捨てて生身の女性を強調したつもりなのだろう)。また、蜷川幸雄のオール・メール版(2004)では、ロザリンド役の成宮寛貴は声が低くて太いので、女性性はあまり感じられなかった。また伊藤大演出では(2008、新国)、悪役のフレデリック公爵とオリバー、羊飼いの老人コリン、憂鬱と厭世の人ジェイクイズ(これはびっくり)を女優に演じさせるという離れ業で、ジェンダーの全体が混乱するように作られていた。要するに、『お気に召すまま』はトランスジェンダーそのものがテーマなので、演出も苦しむのだと思う。今回の舞台は、男役には男優、女役には女優という「普通の」作り。


少し驚いたのは、ロザリンドを演じた前東美菜子は24歳の新人だということ(筑波大の美術科卒の人で文学座・準座員になったばかり、これがデビュー作か)。シーリア(藤崎あかね)が小柄でフェミニンなのと対照的で、ボーイッシュな魅力はよく出ていたが、セクシュアリティの曖昧さや不安定さがデリケートな細部にわたって表現されるまでには至らなかったように思う。というより、『十二夜』のヴァイオラと比べても、ロザリンドは格段に難しい役だから、どんな名女優でも完全に演じ切ることはできないのかもしれない。そもそも、ロザリンドが、自分を恋しているオーランドの「恋の病をさます」ためにカウンセリングをほどこすという設定が、ありえない不自然なものだ。男装したロザリンドは、「男である僕を君の恋人のロザリンドだと仮定して、僕を口説いてみろ」とオーランドをたきつけるが、もともとロザリンドはオーランドに狂おしい恋をしているのだから、カウンセラーがクライアントに対して優位に立つ虚構を演じることなど不可能なのだ。結局、「カウンセリング」といっても、オーランドの言い方や振る舞いにケチをつけるだけで、それも「デートに遅れちゃダメ」「もっと愛情を見せて」という“すねる女”全開モードなので、最初からカウンセリングは破たんしている。その、ぎくしゃく、どたばたを見せるのがシェイクスピアの狙いなのだろうが、これは少年俳優がやっても難しいのではないか。微妙な駆け引きのシーンを松岡訳で見てみよう(第4幕第1場)。


(オーランド)「何か言う前にキスしたい。」
(ロザリンド)「だめ、まず何か言わなきゃ、何も言うことがなくなったらそれをチャンスにしてキスしてもよろしい。・・・」
(オー)「キスを拒まれたら?」
(ロザ)「そうやってあなたに嘆願させる気なの、そこにまた新しい話の種が生まれる。」
(オー)「大好きな人の前で言葉に詰まる男なんているのかな?」
(ロザ)「あたしがあなたの恋人なら、詰まってほしい。さもないと自分がしとやかなだけで頭が悪いと思えてくる。」
(オー)「え、口説き文句に詰まったほうがいいの?」
(ロザ)「文句はいや、でも口説かれるだけじゃ詰まらない。あたし、あなたのロザリンドじゃなかったかしら?」
(オー)「そう呼べるだけでちょっとは嬉しいな、あの人のことを話していられるから。」
(ロザ)「じゃあ、その人の身になって言うわ、あたし、あなたなんか要らないの。」


こんなに微妙で複雑な「カウンセリング」なのだが、今回の舞台では、あっさり進んでしまって、あまり印象に残らなかったように思う。もともとシェイクスピアは科白が多いので、日本語上演では、機関銃のようにすごい早口でしゃべることになる。微妙な駆け引きやトランスジェンダーの捩れを表現するのは、それだけの理由からしても難しいのではないか。


『お気に召すまま』は、「アーデンの森」を舞台でどう作るかが重要になる。ただ木があればよいというものではなく、桃源郷であると同時に宮廷文化とは真逆の荒涼と野生があり、しかも「魔力」をもつ森でなければならない。この上演は、ほとんど「何もない空間」でありながら成功していた。天井から吊り下げられた一枚の大きな布が上下すると同時に照明が変る仕掛けが効果的で、樹木もわざと鉄製の「モデル」にしたのが巧い。生命の森ではなく「無機的な」森なのだ。終幕にわざとらしいハイメン(=結婚の神)が出てこないのもいい。原作の異教的なハイメンは、シェイクスピア死後の加筆という説もあり、何かしっくりこない印象がこれまであったが、ない方がよい。シーリアがとても可愛いのもよかったし、冒頭、ロザリンドとシーリアが、日本の大正時代の女学生風(?)のテニスウェアというのが、いかにも元気なお嬢様という感じで楽しかった。男優たちも若いのに「渋い」感じがよく出ていたと思う。