[演劇] シェイクスピア『十二夜』 シアターコクーン、1月22日
(写真右は、松たか子のヴァイオラ。男と女は一つの体から分れたというプラトンの神話の絵の前で、双子の兄セバスチャンと一人二役を演じる。この一人二役が、本公演の基調をなしている。写真下は、オリヴィア姫(りょう)とオーシーノ公爵(石丸幹二)に挟まれたヴァイオラ。)
数ある芝居の中でも、『十二夜』はとりわけ素晴らしい作品だ。『ハムレット』も『アンティゴネ』も『ドン・ジュアン』も、そして『ゴドーを待ちながら』も、それぞれに良いが、私が何度でも観たいと思うのは、やはり『十二夜』や『お気に召すまま』のような作品である。夢のような美しさと、ちょっとしたほろ苦さと、メランコリックな雰囲気が、絶妙にミックスしているからだ。「ロマンティック・コメディー」というジャンルは、おそらく『お気に召すまま』や『十二夜』から始まるもので、それまで「笑劇」の対象でしかなかった恋愛を「近代の神話」(アドルノ)に転換した人が、他ならぬシェイクスピアであると私は考えている。要するに、シェイクスピアは恋愛の神様なのだ。
とはいえ、『十二夜』の実演を見るのは、久しぶりの気がする。今回の、串田和美の潤色・演出による上演は、一風変っていた。それは、役者がみな何か楽器を演奏し、しがない楽隊を形成するという音楽劇風の基調と、道化フェステ(笹野高史)がさまざまな即興物語を語る吟遊詩人になっていることである↓。要するに、洗練された宮廷劇ではなく、”田舎芝居”としての『十二夜』である。
このように、原作にはない即興がたくさん加わる”田舎芝居・十二夜”は、私が初めて見るタイプの上演だったが、渋さと寂寥感をたたえた、味わいのある十二夜になっていた。執事マルヴォーリオ(串田和美)やオリヴィァ姫がナルシスティックに”舞い上がる”滑稽なシーンや、オーシーノ公爵の独りよがりな詠嘆は、すべてうらぶれた劇中劇になっており、それ自体が、召使や道化などの劇中観客の笑いの対象になっている。恋とは、結局、それがどんな恋であっても、我々人間が泥臭く「演じている」田舎芝居のようなものなのだ。そのような中で、美しく光るのは、ヴァイオラと双子の兄セバスチャンとの兄妹愛である。一人二役の松たか子は、死んだと思っている心中の兄にしみじみと語りかけると同時に、ただちに兄となって、妹にやさしく応答する↓。
最後の兄妹の再会の場面も、鏡を持ち出すのかと思われたが、それは男と女が別の体に分かれた神話の絵であった。『十二夜』は「ロマンティック・コメディー」ではあるが、離れ離れになっていた家族が再会するというシェイクスピア「後期ロマンス劇」の側面もある。それがよく分る上演だった。道化の笹野高史はとても味わいのある役者ぶりであったが、女中マライア(荻野目慶子)は笑い上戸の蓮っ葉娘になっている↓。もう少し知性を感じさせるキャラであるべきだと思うが、全体の寂寥感を考えてこうしたのかもしれない。