(写真右は、クランドール(堤真一)とイザベル(秋山菜津子)。写真下は、イザベル、マタモール(段田安則)、リーズ(高田聖子))
モリエール、ラシーヌ、コルネイユなどのフランス古典主義演劇は、あまり上演される機会がないので、貴重な体験だった。かなり前に劇団・円の『イリュージョン・コミック』を見たときには、面白い劇という感想しか持てなかったが、今回、鵜山仁の優れた演出『舞台は夢』によって、「バロック喜劇」の面白さを教えられた。コルネイユは普通フランス古典主義演劇の作家と目されているが、彼が29歳のときの本作は(1635年)、まだ古典主義が確立する以前の「バロック喜劇」というべき作品なのだ。
物語は、家出した息子クランベールの行方を嘆く父親が、洞窟で魔術師によって、息子の人生のその後を映像で見せられる。クランベールは、ほら吹きの隊長マタモールの使い走りをするが、才覚ある口八丁手八丁の男なので、大富豪の娘イザベルをたくみに口説き、駆け落ちして結婚、おおいに出世する。ところが、隣に住む大公妃と不倫の恋をしたトラブルで殺される。これを見た父親は嘆くが、実は、この映像は劇中劇の上演であり、息子クランベールは劇団の役者になっていたというハッピーエンドで幕。
この劇がバロック(=ゆがんだ真珠)だというのは、全体が「どうしようもなく嘘っぽい面白さ」で成り立っているからだ。ほら吹き男マタモールは、でたらめの大言壮語をするが大の弱虫という喜劇的人物で、劇の主人公であるクランベールは、近代演劇にはありえない、でまかせで支離滅裂な人物であることを特徴とする。二枚目ですごくもてるのだが、他者への対応はすべて、そのつどの事情に応じてその場限りの甘言で切り抜ける。それで通ってしまうのだ。その、しゃあしゃあとした嘘っぽさが、この劇の面白さの軸をなしている(スケールは違うが、これはドン・ファンにも共通する)。普通の人間あるいは近代劇の登場人物ならば、ある程度言動に一貫性があり、それが、その人間の「性格」を作っている。だがクランベールは、イザベルには真面目に恋しているようでもあり、そうでないようでもあり、イザベルの侍女リーズに対しても、大公妃ロジーヌに対しても、真剣なような遊びのような仕方で口説く。真剣で深刻な場面も多いので、観客は「あれ、これは悲劇かな」と思い始めると、とたんに本人が「・・・なあんちゃって、これ、ちょっと言ってみただけ」というような感じでひっくり返す。侍女リーズも、自分をからかったクランベールに「復讐する」と言いつつ、ころっと態度を変える醒めた感覚をもっている。人間の行為には整合性などないのであって、ころっと態度を変えるのが当たり前、良心の痛みなどぜんぜん感じないというのが、こうした人物たちの嘘っぽい魅力を作り上げている。喜劇のような悲劇のような、そして結局、喜劇で終わる。モリエールの喜劇でも、人物は類型化され極端なところが面白いのだが、『舞台は夢』は、人物の類型化・誇張化だけでなく、臆面もない嘘っぽさを押し出しているところが、バロック喜劇なのだろう。
ハムレットのように、人間は熟考の末に決断し、その結果に責任を取る「主体」でなければならないと考えるのは、近代の人間観である。だが『舞台は夢』の人間たちはそうではない。人間の心なんて、女神、天使、悪魔の気まぐれや、その日の風の吹き回しによっていつも引き回されているんだから、たまたま心に浮かんだことを口に出したり、行動したとしても、自分に責任なんかない。「人格」の統一性なんて存在しない。こういう人間観もまたありなのだ。
鵜山演出の優れたところは、役者の科白の口調をきわめて多様にして、面白おかしく工夫した点にある。原作はアレクサンドラン(12音節詩)で書かれているが、その韻律を日本語にすることはできないから、同じ人物でも口調が一貫しない(人格に統一性なし)という面白さで劇にメリハリを付けている。役者も非常に巧くて、満足感の高い名舞台だった。