[演劇] 長田育恵作、てがみ座『海越えの花たち』 6月26日 新宿・紀伊國屋ホール
(写真右はポスター、下は舞台から、韓国の慶州駅でもの売りをして生きている日本人妻たち、左から二人目が主人公の風見千賀(石村みか))
てがみ座はこれが初見だが、本当に奇蹟のような作品だ。どういうわけか、この二年くらいに見た演劇のうち、もっとも心を動かされたのは、鄭義信『焼肉ドラゴン』、ムワワド『岸 リテラル』、井上ひさし『父と暮せば』、そして本作と、戦争によって傷ついた人々を描いたものだ。なぜだろうと、その理由を考えてみたが、それは、これらの作品は、私たちの「生きることを励ます」からだと思う。そのような系統の作品としては、『アンティゴネ―』『リア王』『カルメル会修道女の対話』などがある。戦争、革命、あるいは植民地支配は、人が殺し/殺されるだけでなく、人々が引き裂かれ、戦わさせられ、互いに憎しみ合う。幸いにして戦争に生き残った者にも、激しい憎悪と復讐の感情が残る。本作でも、何らかの理由で朝鮮人男性の妻となり、戦後も帰国できずに朝鮮に残った日本人妻は、激しい憎悪と復讐感情の対象になる。そして、自分たちを見捨てた日本という国を、自分を捨てた日本人家族を、日本に逃げ帰った日本人同胞を、彼女たちも激しく憎む。朝鮮人男性たちも、日本を恨み、そして朝鮮戦争の背後にいるソ連とアメリカを激しく憎む。しかし、彼らは、自分たちの戦後を、憎悪と復讐に生きることをしない。なぜそんなことが可能なのか。それは彼らに愛があるからである。その愛は、夫婦愛、恋人の愛、友人としての愛、キリスト教の愛など、広義の人間愛である。しかし、それは抽象的な愛ではなく、生身で生きている一人一人の生に即した愛である。その愛は一人一人違う。それを具体的に描くことができるのが演劇なのだ。演劇というのは何と素晴らしいものなのだろう。写真下は↓、左から、朝鮮人の下男の姜景達(カンギョンダル)、千賀の夫の李志英(イジョン)、千賀、そして日本人の家族に捨てられたユキ、姜景達は劇の準主人公ともいうべき重要な人物。
本作は登場人物の一人一人の造形が素晴らしい。裕福な医者の娘でありながら、朝鮮人留学生と結婚した千賀もとてもいいが、それ以上に、朝鮮人の下男の姜景達という人物を作り出したことが大きい。彼は、下男として李家につかえる、むさくるしく、汚らしい中年男だが、戦後、彼はニセ牧師となってニセ教会であるナザレ園を開き、残された日本人妻たちを救う。演じた半海一晃も素晴らしい。彼は決してイケメン俳優ではないが(写真下↓)、姜景達という人間存在そのものが美しいのだ。このような人物を作り出せるのが演劇の素晴らしさだ。つい最近見た『父と暮せば』でも、死んだ父の亡霊は、やはりむさくるしい中年男であった。でも、彼も存在そのものが美しかった。人を愛する時、どんな人間も美しい。人間は、肉体の外見ではなく、人を愛するときにもっとも美しいのだと思う。父の亡霊は、図書館司書の娘に、「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが」と言って励ます。一人一人の人間が、どういう状況に置かれ、そこで何を感じ、何を語り、どう行動するか、演劇も文学も、それを表現する。しかし、これこそが我々人間の真の「現実性」ではないだろうか。社会学も統計学も、そこで描かれる人間は抽象的な存在である。「戦争」の真の現実性は、演劇や文学によって個人を徹底的に描くことにある。それを強く感じさせる舞台だった。もう一つ、本作の優れた点は、朝鮮戦争を描き、朝鮮人自身が、日本に対してだけではなく、二重三重に引き裂かれていることを前景化したことである。朝鮮に残され、朝鮮人として生き、死んでいった日本人妻たちの「現実性」に、これは欠かせない要素だからだ。また、終始主人公たちと関わりを持つ日本外務省官僚の寺嶋を造形したことも、全体の「現実性」を深まったものにしている。ある意味で、本作は真の歴史劇だと言える。私は、本作が68年の新宿駅の闘争場面から始まり、それで終り、しかも日韓国交回復の65年が、それと3年しか離れていないことに衝撃を受けた。68年の新宿駅闘争は、高校生だった私にとって自分のアイデンティティの形成の一部、つまり自分の歴史の一部なのだが、65年の日韓国交回復は、もちろん新聞で読んだ記憶はあるが、その「現実性」については、まったく無知だった。本作を見ると、「日韓国交回復によって従軍慰安婦への賠償は終わっている」などという日本の保守派の主張がいかに間違っているか、よく分る。歴史劇が真の「現実性」を描くことができるとは、そういうことなのだ。これからも、てがみ座はぜひ観たい。
追伸 :1964年の東京オリンピック、青空に美しい五輪マークが描かれる。私は中学2年生でしたが、この光景は記憶に焼き付いています。しかし、このとき、韓国に残された日本人妻たちは、このニュースをラジオで聞いて衝撃をうける。彼女たちにとって、「東京の青空」の記憶はB29が爆弾を振りまいてゆく恐ろしい青空だったのです。これは1965年の日韓国交回復の1年前のことなのです。韓国は敵国扱いだから、韓国に日本大使館はなく、日本人妻たちは完全に見捨てられていたのです。それが20年も続いた。私自身が経験した1964年秋の青空を、まったく違って経験した日本人妻たち。このように描かれることこそ、この作品が真の歴史劇であることの証しなのです。
本作は、叙事詩的な広がりをもった作品で、これだけの時間軸を一つの舞台空間に収める手法にも感心しました。全体が説明的でないのも、いい。ただし、細部は終演後シナリオを読んで初めて分ったので、もうちょっと分かるようにする必要があるのでは。たとえば終幕にうづくまっている女が千賀であることは分かりましたが、シナリオには彼女は死んでいるとある。でもここは、ちょっと難解すぎて、舞台を見ただけでは分からない。逆に、千賀の夫が自殺であることは、遺体が運ばれる影絵で分りましたが、シナリオには何も書いていない。演出家が加えたのですね。シナリオ通りじゃ分らないと判断して。おそらく、今回の上演は演出(=木野花)の功績も非常にあると思いました。あと、演劇の言葉の素晴らしさにも感嘆しました。小説は文字を介して読者と繋がりますが、言語の本来的な在り方は人の口から語られることにある。だから演劇の方が、言葉が生きています。
追追伸 :美的なものは倫理的なものでありうる。これはカントが『判断力批判』において主張したかったけれど、十分に論証できなかったことです。おそらく、人間は人を愛するときにもっとも美しい、ということが、美と倫理を結びつける核なのではないか、と今回感じました。
追追追伸 :日本人として初めてナザレ園を報告した、上坂冬子『慶州ナザレ園』(1982)を買った。本作の姜景達に対応する実在の人物、ナザレ園の創設者にして理事長である金龍成は上坂にこう語っている。「戦前に“朝鮮人”といわれた韓国人の夫とともにこの国に渡ってきてくれた妻たちは、我々と同じ差別を経験した人たちです。じっとしていれば優位にあったものを、親から勘当され、世間からは白い眼でみられながらも、はるばる海を越えて被差別側にまわってきてくれた人たちです。この“愛の勝利者”をどうして私たちがないがしろにできましょう」(中公文庫p257)。6月30日