小林よしのり『靖国論』(14)

charis2005-10-16

[読書] 小林よしのり靖国論』(幻冬舎 05.8.1)


(写真は、1945年1月、「軍人勅諭」を奉読する熊谷陸軍飛行学校の少年兵。同学校からは多数の特攻隊員が生まれた。天皇の名の下に戦い、死んだ少年兵たち。『戦争と子供たち④』日本図書センターより)


小林よしのり氏は、戦後の日本人がアメリカの占領政策によって完全に「洗脳」され、その状態が今も続いていると『戦争論』で繰り返し述べている。「洗脳」という捉え方は不適切だが、ここには、戦後の日本の対米追随「体質」への自己嫌悪感が表明されており、イラク戦争を巡る「親米ポチ派」批判や産経新聞批判と合わせて、『戦争論』が一定の説得力をもつ理由の一つになっている。


この問題は、もう少し広く捉えるならば、加藤典洋氏の言う「戦後のねじれ」あるいは「戦後の自己欺瞞」とも部分的に重なるところがある。自分の行った戦争に「主体として」向き合っていないために、戦争による死者への態度が定まらず、A級戦犯などの戦争指導者、戦死した一般日本軍兵士、日本軍兵士に殺されたアジア諸国の兵士や民衆、原爆や東京大空襲で殺された日本国民などに対して、それぞれどのような見地から慰霊すべきかが分らないという問題である。「とにかく誰もが戦争の被害者」という見地に立てば、全員の慰霊ができるが、そこでは加害者・被害者という区別も消えてしまう。


だが、いわゆる“よしりん史観”もまた、黒船来襲以来の日本史全体を、「凶暴な白色人種」に叩かれた完全な「被害者」と見なす“被害者史観”である。だから、先のアジア・太平洋戦争に「主体として」向き合えないという点では、その受動性は、氏の批判する「親米ポチ派」や「欺瞞的な戦後民主主義サヨク」と異なるものではない。“よしりん史観”は、大東亜戦争に正義ありという勇ましい語り口をするので、一見すると主体的な立場のように錯覚されるが、実は、その根本を「白人によるイジメ」という受動的な構図に置いているので、本当の意味で日本を主体として回復することができない。


よしりん史観”の欠陥は、昭和天皇の免責にいささかの疑問も感じないという点に端的に現れている。天皇東京裁判不訴追とA級戦犯の訴追とは、GHQの戦後処理においては表裏一体のもので、天皇が逃げ切るために東条に責任を押し付けるという戦略は、GHQと日本側の利害が一致して、いわば共同で推進したものである。昭和天皇の退位は多くの人が予想し、また可能なものであったにもかかわらず(例えば、近衛は具体的な段取りまで計画した)、結局行われなかった。もし仮に天皇が退位していれば、それは日本人が自ら戦争に対して責任を取ることであり、戦争後の日本が主体として覚醒するための重要な契機になったはずである。トップの天皇が責任を取れば、当然、それ以外の日本人も「自らの責任の取り方」を考えざるをえない。東京裁判あるいはGHQの公職追放令など、完全に受動的な過程に戦争責任問題が回収されてしまったことが、問題の根本である。昭和天皇の退位がなかったことにより、日本は国家主体としての戦争責任を取るチャンスを失い、それこそが小林氏の言う「戦後洗脳体制」や加藤氏の言う「戦後の自己欺瞞」の成立を可能にしたのである。


小林氏は、戦後の日本人が、アメリカの戦争犯罪である原爆や東京大空襲に無頓着であることを、口を極めて非難する。「[親米ポチ派である]彼らにおいては、我らの祖父たちが都市空爆で90万人、2個の原爆で30万人、アメリカに殺されたことはもう水に流しているのです」(『戦争論3』p18)。だが、小林氏はなぜ同じ批判を昭和天皇に向けないのだろうか? 昭和天皇その人こそ、「原爆投下を水に流した」のである。1975年10月31日、初めての訪米から帰国した昭和天皇は、記者会見で次のように答えた(『昭和天皇語録』講談社学術文庫 p332)。
[問い] いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?
[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い] 戦争終結に際し広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか?
[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。