杉原邦生演出、太田省吾『水の駅』

[演劇] 太田省吾『水の駅』、杉原邦生演出  江東区、森下スタジオ 3月29日

(写真下は、終幕、水場でゆっくりと水を飲む少女、私には「祈り」に見えた、その下の2枚は、水場にやってくる二組の夫婦、二組とも愛を交わすのだが、ぎこちない動きにもかかわらず、その身体はとても美しい、その下は、水場の横のゴミ捨て場)

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 まったく科白のない無言劇だが、1時間50分を、息を呑むように舞台を凝視してしまった。身体の動きと表情が自然記号となって科白の代りをし、言葉ではなく役者の身体だけが語る純粋演劇ともいうべき作品だ。水場に、旅人のように人がやってくる。一度にではなく、かわるがわる、ゆっくりと足を引きずるように、すり足でやって来る。だが水場ですることは、みな違う。水を飲む、うがいをする、口の周りを拭く、ティッシュをぬらす、手拭いを洗う、顔全体を拭く、足を洗う、腕の全体を洗う、頭を洗う、体全体を洗う、下着を洗う、そして、たまった水に相手の頭を押し付けて窒息死させようとする。つまり、水は人を生かすものであると同時に、人を殺すこともできる。乳母車の乳児を殺す者もいる(中絶?)。一本の水道の蛇口をめぐって、人間の、癒し、葛藤、愛、そして暴力がある。やってくる人間はさまざまだが、多くの者が、水道の支柱をひたすらさすり、抱きしめる↓。片足だけ女の赤いハイヒールを履いている僧侶は↓、水場で死に、ダンボール箱に沈むその死体は次に来る旅人が運び去る。生身の人間たちなのに、何か神話を見ているようだ。

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 舞台は、まったく声のない叫びに満ちている。愛を交わすシーンはとても印象的で、体や手の動きは、おぼつかなく、ぎこちない。愛撫とはこんなにも不自由なものなのだろうか。性愛に、ほとんど快は感じられない。むしろほとんどが苦のように見える。人間の身体は、おぼつかないもので、誰もが少しは障害をもっているのだ。にもかかわらず、人間という生きものは何と美しいのだろう! 特に女性の身体は、信じられないくらい美しい。音楽はたった二つだけ、アルビノーニオーボエ協奏曲とサティのジムノペティが繰り返し使われるが、本当に素晴らしい。冒頭と終幕、駆けてきた少女が赤いカップで水を飲むまったく同じ動作のシーンが二回ある。冒頭は、ただ水を飲むとしか見えなかったが、終幕では、両手でカップを抱くように持ち、祈っているように見える。アルビノーニの音楽が、まるで恩寵のように、空から降っている。葛藤と愛と暴力に生きる我々にんげんを代表して、彼女は祈っているのだ。(写真下↓、水場で水を飲む人々は、まるで西洋中世の宗教画のようではないか。終幕、くず拾いのおっちゃんの隣で水を飲む動作も、やはり祈りに見える)

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1986年上演の映像がありました↓。ただし全体が1時間17分なので、一部カットされていると思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=p8J8hGAZ5ow

ヘアハイム演出、チャイコフスキー『スペードの女王』

[オペラ]  ヘアハイム演出、チャイコフスキースペードの女王』 ROHシネマ 有楽町・TOHOシネマズ日比谷 3月20日 (映像は今年1月22日の舞台)

(写真の左側は↓、原作にはないチャイコフスキー、その下は、エカチェリーナ二世の登場シーン、巨大な鏡を使って客席後方からも貴族たちが入場する)

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シュテファン・ヘアハイムは、2006年ザルツブルク音楽祭モーツァルト後宮からの誘拐』で、驚くべき演出をした。音楽は原作のままだが、舞台の上の劇は、原作とまったく違う別の話なのだ。今回は、筋はほぼ原作通りだが、作曲したチャイコフスキーその人をほぼ全シーンに登場させる。パントマイムのような役割だが、それぞれの登場人物に寄り添い、そのシーンの感情表現を自分の身振りや表情で、より深く表現してみせる。音楽を書いた本人なのだから、そのシーンの人物の感情については誰よりも理解しているわけだ。彼は、そのシーンに立ち会うことによって音楽の着想が浮かび、楽譜にせっせと書き込むこともあれば、すでに音楽はあって、その演奏をリードするために、ひたすら指揮の身振りをする。つまり彼は、つねに、楽譜を書くか、ピアノを弾くか、指揮をするかのどれかをしている。チャイコフスキーが登場することによって、舞台の内容が作曲家自身の実人生の苦悩とぴったり重なる。これが演出の狙いなのだ。今回、私は初めて知ったが、チャイコフスキーは同性愛者であり、世間体の為にしようとした女性との結婚は半年足らずで破綻した。そうした彼の実人生の苦悩は、『スペードの女王』の物語とよく重なるのだ。『スピードの女王』は、ほぼ全篇にわたって、死の影が漂う苦悩を表現しており、音楽は美しいが、感情は、重く、苦しい。チャイコフスキーは、生水を飲んでコレラに罹って自殺したという説もあり、最初から最後まで、登場人物たちは、コップの水を繰返し飲む。写真下↓の中央はエカチェリーナ二世だが、この後上着を脱いで、男性であることを示す。

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チャイコフスキーは28歳のとき、父親の要請もあり、世間体のための結婚として、ベルギー人女性歌手のデジレ・アルトーと婚約したが、すぐ婚約解消になった。同性愛者である自分と、異性との結婚は両立しなかったのかもしれない。それが、『スペードの女王』の主人公ゲルマンと、彼が表面的な愛を与えて絶望させ死なせてしまうヒロインのリーザとの関係にぴったり重なる。舞台では、ゲルマンもチャイコフスキーも同性愛者になっているだけでなく、仮面舞踏会の劇中劇では、リーザとその親友パウリーネもレズビアンになっていた。つまり、劇の全体に通奏低音のように同性愛が主題になっている。またチャイコフスキーの音楽は、絵画のコラージュのように、彼以前のたくさんの旋律を少し変えて「引用」もするという、総合的なものになっている。『魔笛』のパパゲーノは露骨に引用されており、仮面舞踏会の「女羊飼い」の劇中劇も完全にモーツァルト的音楽で、私はここが、音楽が一番美しいように感じた。激しい苦悩から歓喜の絶頂まで、感情の大きなレンジが表現されており、これが音楽のスケールを巨大なものにしている。たくさんの人物が登場する舞曲的なシーンが多くあり、いずれも、何ともいえない凄みがある。『後宮からの誘拐』もそうだったが、ヘアハイムは、このような場面を入念に凝った作りにする人なのかもしれない。写真下↓は、リーザ。

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30秒ほどの動画がありました。凄みのある舞台の様子がよく分かります。

https://news.nicovideo.jp/watch/nw4998369

青木涼子、エトヴェシュ・ペーテル『くちづけ』他

[現代音楽] 青木涼子、エトヴェシュ・ペーテル『くちづけ』他 東京文化会館・小 3月9日

(写真↓は3月9日の公演、青木は中央に立って謡う)

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 能の要素を導入した現代音楽で、静謐で張り詰めた美しさがとてもいい。能の二つの鼓を多様なパーカッションが代替し、笛をバスクラリネットとフルートが受け持ち、それにヴァイオリンとチェロが加わって、さらに青木涼子の謡いが加わる。形式としては、弦楽四重奏に声楽が加わるような感じだが、パーカッションが独特の鋭い音を出すので、表現様式としてはやはり新しい。アドルノは、現代音楽も、素材としての物理的な音をいかに形式の支配下に置くかに苦闘した西洋音楽の延長にあると述べたが、今回のエトヴェシュや細川俊夫の作品は、音の素材そのものの多様さを解放する、その自由な解放性が形式になっている。能の笛は、不安定さや音の逸脱によってある種の不調和を導入するが、バスクラリネットやフルートに置き換えると、むしろ音の調和を創り出す側に回っているように感じられる。管楽器や弦楽器の音の柔らかさに対して、青木の謡いには、ざらざらした質感があり、それがとてもいい。声も含めて、音の素材性が自由に解放されていることが、エトヴェシュや細川作品をきわめて新鮮なものにしている。(写真下は↓、「くちづけ」の世界初演、1月27日スウェーデン、このときはエトヴェシュが指揮をしている)

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 もう一つ、今回の曲の中では、細川俊夫「打楽器のための線Ⅵ」も素晴らしかった。10分間くらい、神田佳子が一人で幾つもの太鼓を演奏するのだが、バチで叩くだけではない。太鼓の皮に対して、10本の指をピアノを弾くように震わしながら触れたり、指でひっかいたり、腕で撫でたり、腕全体で抱くようにこすったり、貼ったガムテープをはがしたりする。それぞれみな違う音がするのだ。太鼓の皮への触れ方によって、かくも多様な音が作られること自体が驚きだ。タイトルは「線」になっているが、神田は、まるで体操のように両腕をゆっくり回してから叩いたりするので、線というよりは面になって、音が広がっていくように感じた。

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舞台の動画はないが、青木涼子自身↑による解説動画が↓。

https://www.youtube.com/watch?v=p8PZJKnxhEI

オールビー 『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』

 

[演劇] オールビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』 NTライブ ヒューマントラストシネマ有楽町 3月6日

(写真↓は、左から右へ、若い大学講師(生物学者)のニック、中年の大学助教授(歴史学者)ジョージ、ニックの妻ハニー、ジョージの妻マーサ)

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 J.マグドナルド演出、ロンドンのハロルド・ピンター劇場で2017年5月に上演された舞台の映画版。3時間以上にわたって、激しい夫婦喧嘩が繰り広げられ、その罵り合いが実に面白く、おかしい。インテリ夫婦の偽善的な結婚関係が次々に暴かれていく、というのはその通りなのだが、しかし戯曲も読んでみると、この作品の真の主題はそうではないと思う。子供ができない夫婦の苦しみが一番のポイントであり、それが夫婦関係の歪みを生み出しているのだ。1962年の作品で、いかにもアメリカ的。アメリカ大統領選挙の選挙運動では、候補者は必ず夫婦子供揃って登場する。そうなるのは、結婚したら子供がいるのが当たり前だと誰もが思っているからだろう。とすれば、子供ができない夫婦は非常につらいはずだ。(ジョージとマーサ↓)

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 深夜、歴史学者のジョージの家に、新任の生物学者のニック夫妻が訪れて歓談が始まる。ジョージ夫妻は、夫婦仲が良いところを見せつけようとするのだが、彼らにはどうしても触れてほしくない秘密があるようで、「子供」が話題になると、ジョージもマーサもギクッとして、「その話はしないで!」と硬い表情になる。ところが、マーサはハニーと二人だけになったときに、「21歳の息子がいる」と漏らしてしまい、一方、ニックはジョージと二人だけになったときに、ハニーのお腹が大きくなったので彼女と結婚したが、それは想像妊娠だったと打ち明ける。これはハニーにとって一番知られたくない秘密だ。一方、ジョージとマーサは、本当は子供はいないのだが、二人だけで「想像上の息子」という架空の物語を作って共有し、それだけが二人を夫婦として繋ぎ留める絆になっている。ジョージとマーサの罵り合いの中で、秘密がばらされてゆき、最後に「二人には本当は子供がいない」ことをジョージとマーサが認めるところで、終幕。とはいえ、劇の途中の科白にたくさんの伏線があり、観客は、子供の話はどうもおかしいと気づく仕掛けになっている。まず、最初の方で、「子供はいるのか」と聞いたニックに対して、ジョージが「知りたければ自分で探るんだな」と答えるが、これはとても変。また、ニックの専攻の生物学について、ジョージは、染色体、精子、試験官ベビーなどを話題にするが、これはすべて妊娠に関わることである。そして、ジョージはニックの妻のハニーの「おヒップが細い」ことを何度も繰り返し言って、ハニーが妊娠しにくいことをからかうし、ニックのことを「種馬」とも言う。マーサが自分の「息子」について得意げに嘘の話をすると、ハニーは「私も子どもがほしい、赤ちゃんがほしい」と涙ぐむ。つまり、劇の中心主題は「妊娠」なのだ。そして最後になって、ジョージは「息子が交通事故で死んだ、という電報が来た」と告げるが、その電報を見せろと迫るマーサに対して、ジョージは「電報は僕が食べちゃった」と言う。どんなに鈍い観客でも、ここで、「息子がいる」というのは嘘だと分かるが、しかし不思議なのは、「息子の死」を聞かされたマーサが激しく苦悩することだ。「息子の存在」は嘘なのだから、これは演技なのだろうか? そうではなく、マーサはかなりアル中で、「息子の存在」は彼女に固着した妄想になっているのだ。だから、夫婦喧嘩にずっと笑い続けてきた観客は、最後は笑えない。マーサを演じたイメルダ・スタウトンの迫力は凄い↓。

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小山ゆうな演出 ヴェデキント『ルル』

[演劇] ヴェデキント『LULU』 小山ゆうな演出 赤坂red theater 3月4日

(以下の写真は「ステージ・ナタリー」3月1日の電子記事より転載、上はルル[霧谷大夢]、下は背後に映像も同時に映されるルル、原作では絵画だが、画家のシュバルツ[手前の若い男]を写真家に変えて、映像を同時に映す手法はとても効果的)

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 『ルル』はベルクのオペラは幾つも観たが、演劇版は2013年のラドゥ・スタンカ劇場のプルカレーテ演出『ルル』を観ただけで、これが二度目。今回の小山版『ルル』は、プルカレーテ版と非常に違うのに驚いた。原作は、冒頭の動物使いが、イプセンの人物は「躾けられた家畜ばかり」と批判するように、「野生の美しいけもの」としてのルルを、つまり生々しく性的な肉体としてのルルを前景化するのだが(プルカレーテ版はまさにそれ)、この小山版ルルは、洗練され、スタイリッシュで現代的な美女ではあるが、生々しく性的ではない。おそらくプルカレーテ版が原作の趣旨に近いのだろうが、性的な生々しさを抑えてスタイリッシュな美に昇華させた小山版の方が、私は好きだ。ルルと同性愛者のゲシュビッツ伯爵令嬢を、ともに元宝塚女優にしたのがよかった。たしかに原作では、自称父親のシゴルヒが「この女はセックスを売りものにして生活することはできないんだ。なぜって、この女の人生はセックスそのものなんだからな」と言う(終幕)。だが、本当にそうなのだろうか。「野生の美しいけもの」つまり、人間らしい心がなくて肉体だけの女がルルなのだろうか。男性=精神性と、女性=肉体性(自然)という対比は虚構であって、小山版のルルは、どのシーンのルルも、悲しい心が溢れ出る精神的存在のように私には感じられた。原作でも、ゲシュビッツ令嬢は、同性愛者であり男性とのセックスはできないという意味で精神的存在である(原作では彼女は画家だが、小山版では職業は何なのだろう)。だが彼女とは逆に、100%セックスの塊のように言われるルルが、精神性がないのかと言えば、そうではないと思う。ベルクのオペラ版でも、私が見た中では、もっともセクシャルではないクリスティーネ・シェーファーのルルが一番良かった。

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 小山版ルルでは、原作と違って、終幕、最低ランクの娼婦に落ちぶれたルルが、切り裂きジャックに殺されるのではなく自殺する。局部を刺されておぞましい死に方をするのではなく、ルルは、切り裂きジャックの持つナイフをぐっと自分で引き寄せて自分の胸を刺す。みずから自分の人生を閉じる尊厳死である。すぐ続いてジャックは、原作では、ルルの隣に倒れている瀕死のゲシュビッツ令嬢の「下着で手を拭く」ことになっているが、小山版では彼女の美しいスカートで手を拭く。ゲシュビッツは最後の科白を叫んで死ぬ、「ルル! わたしの天使! もう一回顔を見せて! わたしはこんなにそばにいるのよ! このままずっとそばに、いつまでも!」。二人は、愛の中で死んだのだ。小山版のこの終幕には、明らかに、正当な悲劇のもつカタルシスがある。二人の女性が凌辱された姿で死ぬのでは、後味が悪すぎる。小山演出の舞台は、これまで幾つか見たことがあるが、どれもシンプルでスタイリッシュな美しい舞台だった。このような洗練された美しい『ルル』も、やはり「正しい」ルルなのだと思う。

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下記は↓、ラドゥ・スタンカ劇場プルカレーテ演出『ルル』の私の劇評。写真と動画もあります。

https://charis.hatenadiary.com/entry/20130301