演劇版 コクトー『恐るべき子供たち』

[演劇]  コクトー恐るべき子供たち』 横浜、KAAT  5月29日

(写真↓は、上が、雪合戦シーン、下が、左からジェラール、ポール、エリザベス、アガート、白い布で作られたシュールな舞台がいい)

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 コクトーの小説(1929)を、ノゾエ征爾が台本、白井晃演出で、演劇化した。原作は、シュールで夢幻的な美しさに溢れており、超現実というか、パリのど真ん中でありながら異世界のような「子供部屋」。学校にも行かず、そこに籠って恋人のように暮す姉と弟。二つベットを並べ、互いの眼前で着替えもする近親相姦的な姉弟の、ピリピリした緊張感がいい。何よりも、地の文が輝くようなメタファーで表現されているのが『恐るべき子供たち』の魅力である。たとえば、「カールした短い髪の下の姉の顔は、もはや素描ではなく、形を整え、混乱のうちに美に向かって急いでいた」(中条訳、p49)、「エリザベートは服を脱ぐ。姉と弟の間には何の遠慮もなかった。この寝室は姉妹の甲羅のようなもので、二人はその中で、同じ体の二本の手のように暮らし、体を洗い、服を着るのだ」(68)、「子供部屋が沖に出たのは、まさにこのときだった。船の帆幅は大きく広がり、積み荷はいっそう危険さを増し、波はますます高くなった」(109) 。しかしそうであればこそ、プログラムノートで台本のノゾエ征爾が言っているように、小説の言葉を演劇の言葉に変えるのが難しい。(写真は↓どちらも姉と弟)

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この演劇版は、登場人物の動きをスタイリッシュに様式化して、舞台をとてもシュールに作ることによって、演劇として成功したと思う。特に最後、姉が、弟とアガートとの恋に嫉妬し、その恋を引き裂き、それが結局、弟の自殺と自分の自殺に帰着するところは、一気呵成に進む緊迫感がある。脇役の登場と役割は劇だけではやや分かりにくいが、単独の演劇作品として十分に鑑賞できる。ただし、小説の超現実であるうちは気にならなかったが、実際に生身の俳優が演じて現実化・肉体化すると、やや違和感を感じたのは、彼らが「もはや子供ではない」ことである。最初の雪合戦の時、姉は16才、弟は14才だが、姉がモデルになりアガートと知り合う時点では19才になっている(p129)。それからマイケルと知り合い、交際があり、マイケルとエリザベスの形だけの結婚とマイケルの死があり、その後にジェラールとアガートが結婚し、小市民的な良識ある結婚生活になるから、エリザベスは最後の自殺のとき少なくとも20才にはなっているはず。『源氏物語』を考えてみても、恋愛する男女としては、彼らはもう「子供たち」ではない。もう一つ、姉弟は、住込みの看護婦もいて、生活に困らない程度には裕福な家庭なのだから、エリザベートはやはりお嬢様なのではないだろうか。この舞台では、彼女が「下町風の、きっぷのいい逞しいねえちゃん」ぽかったので、やや違和感を感じた。(写真下は、アガートと、そしてポールと並ぶエリザベス)

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文楽 『妹背山婦女庭訓』

[文楽] 近松半二ほか『妹背山婦女庭訓』 国立劇場(小) 5月22日

(写真↓は二つとも、とても美しい「山の段」の舞台、吉野川をはさんで左側が太宰家、右側は清澄家、写真下は、ヒロインの雛鳥(人形遣いは吉田蓑助)の首を、母親の定高(さだか)が刀で切り落とすところ、首を切った大きな音が山全体に響く衝撃的なシーン)

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文楽は数回しか見たことがないのだが、この『妹背山』は本当に凄かった。「通し」上演なので、午前10時半から午後8時50分まで、約10時間。会場で配られた床本集は、私の手元のテキスト(小学館『日本古典文学全集77・浄瑠璃集』)より短いので、これでも浄瑠璃の部分はいくらかカットされているのだ(仏教嫌いの蘇我蝦夷子による二人の僧いじめや、最後の蘇我入鹿の死の部分はない)。文楽という表現様式は、通常の演劇における役者の科白と身体運動とを完全に分離し、浄瑠璃と人形とに替えたことによって、それぞれの表現が深まった。人形の視覚的な美しさはもちろんだが、何よりも浄瑠璃の語りの素晴らしさに驚かされた。「芝六忠義の段」の豊竹咲太夫の語りの変幻自在さ(彼はたぶんこの分野の第一人者なのだろう)、「山の段」の左右に分かれた四人の語りなど、絶唱というか、とても役者が舞台で語ったのでは、このような迫力ある語りは不可能だろう。『仮名手本忠臣蔵』と同様、主筋と副筋を合せて上手に構成されており、各段の対照と繋がり方がみごとなので、全体の起承転結が素晴らしい。蘇我蝦夷子と入鹿の親子、天智天皇藤原鎌足たちの宮廷革命の政治劇と、ロミオとジュリエットのような悲恋物語、そして漁師や米屋など生活の匂いのする庶民生活など、すべての階級の人物が総出で活躍するのがいい。スケールの大きな叙事詩。もっとも大化の改新の時代劇にしては、江戸時代の武士がたくさん出てくるので、そこはユーモラス。(写真↓の下は、右が蘇我入鹿)

f:id:charis:20190523042849j:plainf:id:charis:20190523042955j:plain全体の中では、それだけで二時間近い「山の段」が特によかった。舞台の美しさも格別だが、内容が衝撃的だ。姫である雛鳥の首を母親が叩き切るだけでなく、その首を嫁入り道具と一緒に川の対岸に送り、恋の相手である久我之助(切腹して死の直前)の前に首を並べる「死体による結婚式」シーン。浄瑠璃はもうほとんど叫びになっている。ロミ・ジュリの二人の最後の自殺でさえ、これに比べれば穏やかなものだ。こういう表現は人形だからできるので、生身の役者ではできない。「山の段」だけ単独に上演するのもよいのではないか(ワーグナーの『ワルキューレ』のように)。なにしろ文楽では、観客は注意を集中して語りを聴いているので、通し全部に集中力を維持することは体力的にむずかしく、オペラよりもずっと疲れる。

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21世紀音楽の会 第16回演奏会

[音楽] 21世紀音楽の会 第16回演奏会  東京文化会館小ホール 5月8日

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 主に東京芸大作曲科出身の作曲家たちの新作発表の場なのか、私は初めて聴く人たちだが、6人の新作はどれも興味深いものだった。現代音楽もまた、平均律を基調とする西洋クラシック音楽から派生したものだが、素材としての音(音響)を音楽形式が支配する際の、その素材/形式の支配関係が、調性音楽とは違ってくる。調性は際立って合理的な支配形式だったわけだが、現代音楽では、十二音技法や微分音の使用、楽器の変則的で極端な音の出し方など、音という素材がどっと解放されて、いわば無政府状態になっている。つまり、素材/形式のバランスが素材に大きく傾いているのだ。

  たとえば、今回の作品では、渋谷由香《潮騒》、高畠亜生楊貴妃玄宗皇帝》は、どちらも楽器音に立ち混じって声の素材性がぐっと前景化するのがスリリングだった。《潮騒》は、ソプラノ、篳篥(ひちりき)を吹きつつ謡う男性、Vl、Vcの4人で構成され、まったく異質な素材が調和を創り出すその様相が素晴らしい。歌といっても言葉はほとんど聴き取れず、楽器音と同じように声という音が響いている。声は、意味をもたらすシニフィアンにはならず、素材が素材として現出している。考えてみれば、日本人の発声は日本語とという言葉をしゃべるように音の素材性が(母音や子音など)制約されており、フランス人の発声はフランス語に合せて音の素材性が制約されているはずだ。それに対応して、聴衆の耳もまた、ふだん聞いている音の素材性の制約があるだろう。とすれば、作曲家は、どの音程の声を出すかという課題以前に、解放するべき音の素材性の「質」の選択がまず問題になるだろう。

  《楊貴妃玄宗皇帝》は、宝生流能楽師二人に、VcとFl、それに楊貴妃を歌うカウンターテナーという5人構成。カウンターテナーが中央に立ち、いわば通奏高音(?)のように基調を作り、その左右に楽器と謡いを振り分けるという「響きの配置」がとてもいい(写真下↓)。二人の低音の謡いは微妙にハウリングを起こすような「揺れ」が快く、まったく異質の声であるカウンターテナーとの素材の差異性が際立ち、VcもFlもどちらかというと尖がった音を出すので、5人の出す音に含まれる素材性のかくも大きな隔たりがバランスするさまは、それ自体がかなり緊張を孕んでいる。どちらかというと同質的なものの間で差異と緊張と調和を創り出す弦楽四重奏のようなものとは、緊張と調和の在り方が大きく異なっている。これが現代音楽の魅力なのだと思う。

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  国枝春惠《花をⅡ》は、Flだけ4人という同質的な楽器の四重奏だが、4本のFlは音の出し方が大きく違うので、それがとても面白い。全体をリードする第一Fl はまるで尺八のような音をだす。滑らかな美しい楽音から、ほとんど空気を擦するようなガサガサ音まで、Flがこんなに多様な音が出せるのに驚いた。楽器の一つ一つが自己主張をしているのだ。作曲者によればこの曲は、「響きが呼応しながら微風になり、あるいは澄み切った空を切って木霊し、かくれキリシタンの声も聞こえるように」意図したとあるが、私には、夜空に流星群が流れ続くなかに、遠い恒星のまたたきも加わるような、そんな美しさに感じられた(写真下↓)。現代の芸術は、19世紀までのそれとは違い、もはや「美」を第一義的に表現するものではないと、よく言われるけれど、しかし私は、現代音楽は非常に美しいと感じる。ただ、緊張と調和からなる美しさの内実が、調性音楽のそれとは異なっている。

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S.カヴェル「愛の回避 ― 『リア王』を読む」

[読書] スタンリー・カヴェル「愛の回避 -『リア王』を読む」 (『悲劇の構造』所収)

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 先日、NTライブの『リア王』を見たが、その前後にリア王解釈を幾つか読んだ。アメリカの哲学者カヴェルが1967年に書いた論考が優れたものだったので、忘れないうちに要点だけメモしておきたい(『悲劇の構造』中川雄一訳、春秋社2016、p69 ~201 )。コーディリアの死について、私は初めて納得いく説明を与えられたように思うので。

 ヤン・コットが『リア王』の主題を「世界の解体と崩壊」と捉えたのに対して、カヴェルは「愛の回避」と捉える。『リア王』解釈の最大の難点は、コーディリアの死の必然性をどのように理解するかである。ヤン・コットは、コーディリアの死を「全シェイクスピア作品で、これほど不快な場面はない」と言った。改心したエドムンドの「助けよ」という命令が間に合わず、彼女が看守に絞め殺されてしまったのは、単なる時間差の偶然であるように見える。だが、そうだとすると、コーディリアの死は犬死に、無駄死にということなる。それは、とても我々には耐えられない。多くの解釈は、コーディリアを「超越的な愛の象徴としてリアの魂の救済を見出す」というものである。コーディリアの死をイエス・キリストの死と重ねるのである。私も今までそのように理解していた。カヴェルも、「コーディリアの死の中に希望がある」(p134)と述べるように、超越的な愛の象徴としてのコーディリアを否定するものではないが、彼女はあくまで人間であり、神の子ではない。つまり、あくまで人間であるコーディリア自身にも問題があり、それが彼女の死を招いた、という解釈である。コーディリアは「愛するふりをする」ことができない、ただ愛することしかできない。そして、リアのような「愛を受け入れることができない」人間が存在すること(=「愛の回避」)が理解できず、それが彼女の死を招いたのである。

 リアは、他者の愛を本当には受け入れることができない人間である。彼には、他者の目に「自分が愛されているように見える」ことだけが重要であり、だから、ゴネリルもリーガンも父を愛していないことを彼は良く知っているが、大勢の廷臣たちの前で彼女たちが「愛しています」と口先だけで言えば、それで大満足する。ところが、コーディリアは本当に父を愛しているので、「愛するふりをする」ことはできない。

  >公然と愛するふりをすることは、愛がないならば、容易である。愛するふりをすることは、じっさいに愛があるならば、明らかに不可能である。(105、このテーゼは、言語行為の限界をめぐって、カヴェルがデリダを批判するポイントでもあり、また別に考察してみたい)

  これこそが、コーディリアの最初の科白、「(aside) What shall Cordelia speak? Love, and be silent. [(傍白)コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう]」 の意味するところである。だがリアは、「愛に報いることができないと知りつつ愛されることは苦痛であり」(104)、他者の愛を受け入れず回避してしまう人間である。彼は、コーディリアの愛を受け止める自信がない。しかしそれでも、大勢の廷臣の前で「自分が愛されているように見える」ことにはこだわった。だから、コーディリアが「Nothing, my lord.[父への愛を語る言葉は]ありません、お父様」と答えたのに対して激怒し、それが彼を狂気に導くことになる。

  >人間は愛を拒むように生まれついているのではなく、そうするように学んでゆくのだ。[幼少期に]私たちの生活が始まるには愛の名のもとに与えられる親密さをすべて受け入れねばならないが、私たちはやがてその親密なものを放棄しなければならなくなる。こうして忌避されたあるいは受容された特殊な愛が他の愛に伝染していくだろう。あらゆる愛は、受け入れられようと拒絶されようと、他のあらゆる愛の中に反映される。・・・私たちは、愛を拒絶すると同時に受け入れるための努力と恐怖の中で私たちはいまにも気が狂ってしまうのではないか。その中で魂が引き裂かれ、身体が引き裂かれる。(120.f)

  この文章はカヴェルのリア王解釈の核であり、『リア王』はそれを奇蹟のように表現した作品である(120)。リアは最後まで「宇宙的な不安や幻想の中に閉じこもり、真心と共感の世界に心を開かない」(125)。彼がコーディリアの愛に応え、彼女の愛を受け入れるのは、彼女の死体を抱き、大声で泣くときである。ああ、遅すぎる! でも、リアの魂は最後の最後に、コーディリアの愛によって救済された。

  『リア王』は、愛を差し出すことによって自分は死ぬという「身代わり」の物語である。愛は、受容されたり拒絶されたりしながら変容し、変容しながらも、木魂のように他者の愛に反映し、伝染し、生きながらえてゆく。それが、リア、コーディリア、グロスター伯、エドガー、ケント伯たちの、生と死の意味するところである。

  >リアは自分の愛を身代わりにした。しかしコーディリアがリアの身代わりであるという事実は、リアが私たちの身代わりであるという事実と矛盾しない。そして彼を身代わりと見ることは、彼が愛を避けていると見ることと矛盾しない。(126)

  >愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない、愛はただ私たちの伴侶となりうるだけである。愛はその地点を感知しなければならない。(97)

  「リアが私たちの身代わりである」というのは、私たちもまた、ほとんどの人は、他者の愛を本当に受け入れることができず、いわばリアと同類だからである。もしコーディリアが、「愛するふりをする」こともできて、「愛を受け入れることができない人間もいる」ことを早く知ったならば、彼女は死なずにすんだであろう (リアが「愛を回避している」ことを彼女が知るのは、第5幕第3場、二人が捕らわれて獄に入る直前で、コーディリアはただ泣くしかない)。しかし、私たちの愛は、どこまでも人間の愛である。「愛は愛を超えた地点へと私たちを導くことはできない」としたら、そして「愛はただ私たちの伴侶となりうるだけ」だとしたら、コーディリアこそ最高の「愛の伴侶」であり、「愛がその地点を感知した」のがコーディリアの死なのである。

今日のうた(96)

[今日のうた 96] 4月ぶん 

(写真は渡辺白泉1913~69、戦前の新興俳句運動の一員であり、「京大俳句」事件で検挙された、非常に鋭く戦争を詠んだ句で知られる)

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  • 先の世ものちの世もなき身ひとつのとどまるときに花ありにけり

 (上田三四二1977『遊行』、作者は医師、自分も癌を病み、東京・清瀬の病院で午前中のみ診療に携る、医学を奉じる作者は来世を信じないのだろう、そういう「身ひとつ」だからこそ、桜の花はひときわ愛おしい) 4.1

 

  • 白雲は呼び声に似ておほぞらに「おーい」「おまえ」と雲ふたつ浮く

 (小島ゆかり「ブランコ」2018、青空に浮く白い雲は「呼び声に似ている」、まるで「おーい」「おまえ」と互いに呼び合っている、作者自身もきっと、周りの人たちに「おーい、元気かい」と呼びかけたい気持なのだろう) 4.2

 

  • 春昼や映し映れる壷二つ

 (三宅清三郎、作者は虚子に師事し「ホトトギス」同人、画廊も経営した人、「春昼」は春の季語で、虚子篇・歳時記には「春の昼間は明るく、のどかに、のんびりと眠たくなるような心地がする」とある、壺と壺も互いに姿を映し合って楽しんでいる) 4.3

 

  • 日おもてに咲いてよごれぬ沈丁花

 (高野素十、じんちょうげは木の丈は低いけれど、花には独特の風格がある、「咲いてよごれぬ」がとてもいい、我が家の玄関わきの小さな小さな沈丁花も今が盛り) 4.4

 

  • 菜の花や鯨もよらず海暮(くれ)ぬ

 (蕪村、「何てことのない鄙びた漁村だけど、菜の花が一杯に咲いている、海に鯨でも来れば大騒ぎになるんだが、そんなこともないまま、今日一日の海が、静かに暮れてゆく」、菜の花を、それとはまったく無関係な空想の鯨と取り合せたのが妙味) 4.5

 

  • 高山(たかやま)の嶺(みね)行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君とすれ違ったとき、高い山の峰を群れていくカモシカのように、僕は大勢の友達と一緒だった、恥ずかしいから君に手を振らなかったけど本当にごめんね、もちろん君だって分ってたよ」) 4.6

 

  • 恋ひ死ねとする業(わざ)ならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「ねぇ君、ひどいじゃないか、僕に恋い死にしてしまえっていうのかい、昼間はぜんぜん逢ってくれないのに、夜になると夢にひっきりなしに出てくるなんて」) 4.7

 

  • まだ知らぬ人をはじめて恋ふるかな思ふ心よ道しるべせよ

 (肥後『千載集』巻11、作者は白河天皇皇女令子内親王に仕えた女流歌人、「ほとんど知らないあの人に恋しちゃったわ、あぁどうしよう、ひたすら恋い焦がれる私の心だけが頼り、さぁ私の心よ、あの人のところへ連れてって!」) 4.8

 

  • 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどゐぬるかな

 (藤原兼輔後撰集』巻15、「親の心は闇とまでは言えないが、自分の子を溺愛するあまり、何も見えなくなってしまう」、作者877~933は三十六歌仙の一人で、紫式部の曽祖父、本歌は『源氏物語』で八の宮が娘を思う心境に引用) 4.9

 

  • 掃除機は何もかも吸ふ桜冷え

 (正木ゆう子『水晶体』、その強力な吸引力で「何もかも吸う」掃除機に、我々はふと一抹の寂しさを覚える時がある、それを「桜冷え」と組み合わせたのが妙味、もし「桜冷え」ではなく「大晦日」だったらまったく違う句になる、今年は桜冷えが長い) 4.10

 

  • うつくしきひとを見かけぬ春あさき

 (日野草城「花氷」1927、作者の第一句集で26歳、この句は「花氷」の冒頭の句、作者は「女」をたくさん俳句に詠んだ人で、妻との初夜を詠んだ「ミヤコ ホテル」が名高いが、第ー句集の冒頭句からして「女」を詠んでいる) 4.11

 

  • 春の夜の乳ぶさもあかねさしにけり

 (室生犀星1935、「春の夜に、灯火の光を受けて、乳房も、いつも以上に美しく照り映えている」、誰の乳房なのだろうか、愛妻のとみ子と思われるが、しかし犀星には、家族に秘密にしていた愛人がいたことが死後明らかになってもいる) 4.12

 

  • 比喩としてさまざまな乳房はゆたかなりと読むときわれの乳ふさ涼し

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、「乳房とはゆたかなものだ!」という何か母性礼讃みたいな記述を読んだのだろう、作者はそれに違和感をもち、「われの乳ふさは涼しい」と応じる) 4.13

 

  • ひかりの矢ここにあつまるごときかな空しかあらぬ地点にけやき

 (渡辺松男「木と木と木」『短歌』2019年3月、地平線まで広がる畑地か、建物が立つ前の広大な更地か、あるいは海際か、ほとんど空だけを背景に一本の大きな欅の樹が、まるで「ひかりの矢が集まる」ように立つ) 4.14

 

  • 死にたいとつぶやくひとに語りゐる言葉のいつしかわれを励ます

 (升田隆雄『角川・短歌』2019年3月号、作者は医者なのだろう、精神科医かもしれない、患者と向かい合って語り合っている、言葉を選び選び、患者を励まそうとしてるが、その言葉は自分を励ますものにもなっていた) 4.15

 

  • ギャルが嫁にくる 冗談のようなメールののちのしずけさ

 (辻聡之『あしたの孵化』2018、作者の弟に嫁がきたときの歌、「ギャルが嫁にくる」と弟が家族にメールしたのか、そのメールを家で家族が一緒に見ている、「のちのしずけさ」がとてもいい) 4.16

 

  • これからどうするんやろこの人は、と思ったり思われたりして別れる

 (竹中優子『角川・短歌』2019年3月号、自分が相手について思うだけでなく、相手も自分についてそう思うだろう、という醒めたがとてもいい、作者1982~は、第62回角川短歌賞受賞) 4.17

 

  • 発音をすることのない言葉たちたとえば縁(よすが) 顔を上げてくれ

 (遠野真『角川・短歌』2019年3月号、語りの中で「縁(えん)」と言うことはあるが、「縁(よすが)」と言うことは少ない気がする、眼で読まれる表意文字=漢字にはルビがないのか、作者1990~は短歌研究新人賞の人) 4.18

 

  • 空想の水平線の花雌蕊

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、前後の句には、花粉、花が散る、などの語が頻出、たぶん作者は、幻覚のように、水平線の上に大きく咲いた「水平線の花」を空想しているのだろう、その花の中心には爛熟したメシベが輝いている、花は何よりも植物の生殖器なのだ) 4.19

 

  • 百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり

 (飯田龍太『遅速』1991、ウグイスが美しい声で鳴くのはメスへの求愛だ、「百千鳥」の賑やかなさえずりは、オスメス入り乱れての声の交わし合いなのか、「雌蕊雄蕊を囃す」と植物になぞらえたのが卓越) 4.20

 

  • ひと拗(す)ねてものいはず白き薔薇となる

 (日野草城『転轍手』1938、「ひと」は白い服を着た女性だろう、作者とどういう関係にある女性なのかは分からない、でも作者にとってこの女性は、「すねて、もの言わぬ」ところが「白い薔薇」のようで、たまらなく美しいのだ) 4.21

 

  • きらきらと蝶が壊れて痕(あと)もなし

 (高屋窓秋「ひかりの地」1970~75、剥製の蝶ならば、きらきらと粉のように崩壊して痕に何も残らないだろう、だが生きた蝶も、剥製が壊れるように死ぬことがあるのだろうか、新幹線や高速道路でフロントガラスに蝶がぶつかったのだろうか) 4.22

 

  • 花の家思想転変たはやすく

 (渡辺白泉、おそらく1941年の作、前年には京大俳句事件に関連して作者も「思想犯」として検挙され、起訴猶予、執筆禁止となる、釈放の条件に「転向」の一筆を書かされたのか、桜の花の散りしきる中で、「たはやすし(=容易だ)」と苦い思いをかみしめる) 4.23

 

  • 春暁(しゅんげう)のまだ人ごゑをきかずゐる

 (石田波郷『鶴の眼』1939、「春暁」は春の明け方のこと、虚子は、「春の朝」と言うとまた感じが違ってしまうという、東の地平線が明るいだけで、まだ朝とは言えない夜の終り頃だろう、だから、「まだ人ごゑをきかずゐる」) 4.24

 

  • 花水木子ら四五人の英語塾

 (柏木進、埼玉県川口市、「NHK俳句」選2011年、花水木が咲いている傍らに、「子ら四五人の」小さな英語塾、たぶん小学生だろう、花水木の花は白または薄い紅色で、独特の明るい雰囲気がある、我が家の近くの花水木も咲き出した)  4.25

 

  • いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯(か)くぞ覚ゆる暮れて行く春

 (与謝野晶子『みだれ髪』1901、俵万智の「チョコレート語訳」によれば、「春はもう暮れてゆきますひたすらに燃えるがままに燃えてゆきたい」、いつでもどこでも「恋に燃える」のが晶子、春の夜ならばいよいよ燃える) 4.26

 

  • 甲斐なしや強げにものを言ふ眼より涙落つるも女なればか

 (岡本かの子『かろきねたみ』1912、作者1889~1939は21歳で画家の岡本一平と結婚したが、個性の強い激しい性格の二人はよく衝突した、そして夫は放蕩、その頃の歌だろう、強気で喧嘩しているうちに涙がこぼれてしまった) 4.27

 

  • 戦ひの後のはかなき支へとも架空の愛を待ちつつ過ぎき

 (三国玲子『空を指す枝』1954、戦争中疎開していた作者は、22歳のとき東京へ戻って働くが、苦しい生活が続く、「恋人がほしい!」という叫びのような歌、だが同世代の男子はたくさん戦死して、数が少ない) 4.28

 

  • ためらひつつ人を愛する吾が脳を或日未熟の果実に寄(よそ)ふ

 (富小路禎子『未明のしらべ』1956、1926年生まれの作者は華族の出だが、戦争で同世代の男子がたくさん戦死した世代、男性と面と向き合えないくらい内気な性格で、恋ができなかった自分を「未熟な果実」に喩える) 4.29

 

  • 洋々と双手(もろて)をひろげ入江なす胸へ満ち潮のやうに寄せてゆく

 (松平盟子『帆を張る父のやうに』1979、「入江のように広い彼の胸へ、私は、満ち潮が寄せるように、抱かれてゆく」、双手を広げるのは彼なのか、いや、二人ともそうして抱き合うのか、「寄せてゆく」という能動形がいい) 4.30