マッケラン主演、NTライブ『リア王』

[演劇] マッケラン主演、『リア王』 NTライヴ 4月24日 渋谷ヒューマントラスト

(写真下は、開幕冒頭、王国分割のシーン、左からコーディリア、ゴネリル、リア。その下は第4幕6場、リアと、両目をくり抜かれたグロスター、リアはぼろぼろの肉体と狂気の中にも威厳を失わない、リアだと分かった盲目のグロスターも含めてこの場面は崇高だ)

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リアを演じたマッケラン(79歳)が素晴らしかった。コーディリアの人物造形が中途半端であることを除けば、物語の筋がくっきりと浮かび上がり、それぞれの人物像も鮮明な見事な舞台だった。『リア王』は、本質的に神話劇なのだと思う。人と人を結びつける力である「愛」のアレゴリーと、人と人を引き離す力である「憎しみ」のアレゴリーとが、壮絶に戦う叙事詩。「愛」は一敗地にまみれるが(コーディリアやグロスターの死)、一抹の希望も残されている(終幕、エドガーが、『ハムレット』のホレーシオの役割であることがよく分かった)。「愛」と「憎しみ」の戦いは個人的なものではなく政治的・社会的なものである(=個人的なことは政治的なこと)。リアが国王であるのはもちろん、軍服を着たコーディリアはフランス軍を率いて戦う全軍総司令官であり、ゴネリルもリーガンもエドモンドも、直接間接にそれぞれ軍の指揮官であり、権力の空間におけるセクシュアリティの激しい戦いこそが『リア王』の核心だ。それは、ホメロスの『イリアス』がそうであるように、戦争と愛の叙事詩である。この上演で、コーディリアとフランス王を黒人俳優にし、ケント伯を女性にしたことは、人種やジェンダーもまた、「愛」と「憎しみ」の総力戦の構成要素であることを示している。そして、『リア王』には「狂気」についての本質的洞察がある。「狂気」とは、その現象としては否定的なものだが、その本質は、自己の内なる否定的なものを肯定的なものに変えようと必死で戦っている姿であり、たとえその戦いに敗れるとしても、その戦い自体が、人間の偉大さを表現している。その狂気を一身に体現しているのがリアであり、狂気を装うエドガー、そして道化もそうである。リアが目覚めてコーディリアと再会するシーン、そしてオフィーリアのように花束を振り回しながらグロスターと語り合うリアの姿は、何と崇高なのだろう! 私は涙が溢れて止まらなかった。コーディリアは、西洋の文学・芸術が創り出した最高の愛のアレゴリーであるが、今回の舞台を見て、グロスター、ケント、エドガーなど、愛のアレゴリーは他にもたくさんいることが分り、それがとても嬉しかった。(写真下はゴネリル(彼女は明晰な政治家でもある)、リーガン(彼女は女を武器に愛人エドモンドを軍司令官にする)、そして、男装のケント(左)と道化)

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しかし、今回のマンビィ演出は、コーディリアの人物造形が不徹底である。なぜ開幕冒頭のコーディリアの二つの科白をカットしたのだろう。たとえば、コーディリアの最初の科白「(aside) What shall Cordelia speak? Love, and be silent. [(傍白) ]コーディリアは何と言えばいい? ただ愛して、黙っていよう」。この科白は『リア王』全体でもっとも重要な科白であり、それはスタンリー・カヴェルが『リア王』を「愛の回避」と特徴づけていることからも分る。コーディリアの二つの科白をカットして、いきなり次の「Nothing, my lord. [愛を表現する私の言葉は]ありません、お父さま」から始めた。「Love, and be silent」があるからこそ、それを踏まえて「Nothing」と言わざるをえないのに。この箇所のリアとの「Nothing」「Nothing」「Nothing」「Nothing」という4回の相互発言は、第5幕コーディリア最後の科白「お会いになりませんか、あの娘たちに、私の姉たちに?」に答えるリアの「No, no, no, no!」に呼応し、さらに終幕、リアが死ぬ直前にコーディリアの死体を抱いて叫ぶ「なぜ、お前には息がない? お前はもう絶対に戻ってこない、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に!Never, never, never, never, never」とも呼応している。『リア王』は、無と存在の形而上学的な戦いである。ならば、「戦闘開始!」の号令たる冒頭コーディリアの命令文「Love, and be silent」を欠くことはありえない。(写真下は、軍事戦に敗れ逮捕されるリアとコーディリア[左中央の軍服]、原作にはないシーンだが、スナップショットのように挿入したのはよい、その下は、リーガンの夫コーンウェルと並ぶコーディリア、そして終幕)

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動画も。

https://www.youtube.com/watch?v=sGJogpX4ToE

https://twitter.com/ntlive/status/1050432854352687104

鈴木裕美演出、チェホフ『かもめ』

[演劇] チェホフ『かもめ』 4月21日 新国・小劇場

(写真下は、ニーナとトリゴーリン アルカージナとコースチャ)

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『かもめ』実演を見るのは6回目。今回の小川絵梨子翻訳、鈴木裕美演出は、リアリズム寄りのオーソドックスな演出でありながら、強い感銘を与えるので、これが一番良かった。マキノノゾミ演出(2002)や熊林弘高演出(2016)は、感情表現を突出させて、テンションの高い尖がった舞台にする優れたものだったが、鈴木演出は、この作品に含まれる対立的諸要素の均衡と調和がとてもいい。どの人物造形も曖昧になっていない。『かもめ』は、アルカージナを除いて、登場人物のそれぞれがどういう人間なのか曖昧なところがあり、人物像がシャープな焦点を結びにくい。誰もが、感情と行動の結びつきが、ちぐはぐなのだ。キャラクターを現実化させねばならない演出家の負担は大きい。モスクワ芸術座での上演成功に導いた演出のスタニスラフスキーでさえ、最初は「この作品は上演不可能ではないか」と思っていた。(写真下は、アルカージナとトリゴーリン)

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アルカージナは、若いツバメがいれば満足する自己中の女。ニーナは夢見る少女だったが、トリゴーリンに捨てられ、女優としても三流であることが分り、絶望に耐えながらも自分の生きていく道を見出した。コースチャは、極端なマザコンで、ひ弱なオタクっぽい文学青年。ニーナには捨てられ、本物の文学作品は書けず、自分の道を見いだせず自殺する。しかし、トリゴーリンだけは、四人の主人公の一人であるにもかかわらず、どういう人間なのかよく分らない。30代後半の作家で、チェホフ自身を反映している複雑な性格の人物なのだが、『黒テント』版で67歳の斎藤晴彦が演じた時は、さすがに枯れ過ぎていて、違うと思った。熊林版で、32才の田中圭吾が演じる、セクシーでアウトドア派(釣りが大好き)でちょっとニヒルな影のある青年のときは、ニーナが、オタクっぽいコースチャではなく、最後の最後までトリゴーリンを愛する理由も分って、なるほど、これがトリゴーリンなのだと思った。(写真下は、終幕近く、コースチャを捨てて去ってゆく直前のニーナ) 

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だが、今回の鈴木演出では、今まで見たすべての上演と違って、トリゴーリンは、とても弱々しいマザコンの青年になっている。演劇台本を書いたトム・ストッパードは終幕に、「トリゴーリンは、ニーナを捨てたあと母のもとに戻った」という原作にない科白を加えた。なるほど、トリゴーリンもひ弱で傷つきやすいマザコン青年ならば、彼という人物がよく分かる。第三幕の終り、彼はアルカージナに向ってこう言う。「僕には意志というものがないんだ、意志のあったためしがないんだ。無気力で、いくじがなくて、いつも言いなりになる男、いったいこんな男が女にもてるのだろうか。僕をつかまえて、連れていっておくれ、ただ、どうか一歩も放さないでおくれ」(松下裕訳)。トリゴーリンはマザコンであると同時にロリコンでもある。少女ニーナに対する彼の愛は、ロリコンから発するもので、アルカージナに対する愛は、マザコンに発している。マザコンロリコンの両方の要素をもつことは、つまり普通の男性だということだ。よく分かるではないか。チェホフ劇の人物は誰もが、感情と行動がちぐはぐで、妙に居丈高になったり、突然とんでもない時に告白して大恥をかいたり、空疎な哲学的演説を始めたり、とても滑稽になってしまう。しかし、その理由は、「愛」というものは高度に複合的な現象であり、快、不快、喜び、悲しみ、憎悪、怒り、嫉妬、プライド、優越、卑屈、喪失など、たくさんの感情が噴き上がる、もっとも人間的な事象だからだろう。誰もが、本当の愛は得られないままに、必死に、もがきながら生きている。絶望の中に、かすかな希望にすがりつくようにして生きようとするニーナ。人はみな、人生の寂しさと苦さに向き合って生きるしかないのだ。今回の鈴木演出は、終幕に、第一幕の劇中劇の一部をニーナが「再演」するシーンを入れたが(原作では科白を口づさむだけ)、これはとてもよい。「私はかもめ? いいえ私は女優」と叫ぶニーナは、絶望にぼろぼろになってはいても、激しく輝やいている。そう、これこそ『かもめ』なのだ。(写真、一番下は劇中劇)

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シェーンベルク『グレの歌』

[音楽] シェーンベルクグレの歌』 東京文化会館 4月14日

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 大野和士指揮、東京都響。この曲は、CDやYou Tubeでしか聴いたことがなかったが、実演では印象がまったく違う。やはり実演で聞かなければダメだと思った。何よりもオケの大編成がすごい。弦楽器だけで80人、木管金管を合せて50人、そしてティンパニ6台+ドラム、ハープ4台、計150人、そして大編成の合唱隊130人。響きの厚味が半端ではない。全体の形式はオペラに似ているが、これではオケピットに入らない。指揮者が広げている譜面が新聞のように大きい。シェーンベルクはこの曲のために53段譜を特注したというが、あれがそうなのか。作曲開始から完成までに10年近い中断を含んでいるため、第一部の後期ロマン派様式の部分と、第二部以降の無調時代の作風が見られる部分との間に差異があり、しかもそれが全体の構成を豊かにし、その構成の豊かさが、1時間50分に及ぶこの作品を非常に魅力的なものにしている。つまり、調性的な西洋音楽が無調的な現代音楽へと移行する、その移行そのものがこの作品の内実になっているわけだ。とりわけ、第3部の道化の歌は無調性が強く感じられ、それが道化の歌であるところにも意味があるだろう。道化(A.クラヴェッツ)だけが、他の歌手とちがって、ふざけながら登場し、ふざけた身振りで歌っていたが、これは原作の指示なのだろうか。まさに現代音楽への「移行」そのものが主題になっているからだろうか。

  西洋音楽の調性は、音(=響き)という素材を、限られた音程の組み合わせのみを選択することによってコントロールし、形式が素材を支配した。しかし12音技法は、すべての音(=響き)を均等に解放したために、形式による素材のコントロールが難しくなった。その結果、旋律という形式よりも、音の素材性が単独で前景化することになる。第3部では、マーラーのような美しい旋律と、前景化した音の素材性とが、目くるめくように交替する。大合唱が突如として停止し、直後の2~3秒くらいの沈黙の中に、声という素材が幻の姿で溢れ出すさまは、まるで太陽を見た直後の残像現象のようだ。第1部最後の「山鳩の歌」(藤村実穂子)の旋律的美しさがとくに印象的なので、それとは対比的に、すごく短い第2部を挟んで続く第3部では、それぞれの楽器の音がパートごとに単独で浮かび上がる箇所が多く、その前景化そのものが、現代音楽の新しい形式性だと分る。そして、そのためにこそ、オケは大編成でなければならない必然性があるのだ。最後の大合唱もすばらしく、世界そのものが、いや存在そのものが輝くような印象を受ける。これも声という素材の前景化から来ているのだと思う。これからも、『グレの歌』は実演を聞かなければと、強く感じた(次の上演は10月)。そして、アドルノが言ったように、シェーンベルクは、マイナーな作曲家などではなく、バッハ、モーツァルトと並ぶ西洋音楽の大作曲家であることが、『グレの歌』によってよく分かった。↓写真下は終演。

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大池容子作、うさぎストライプ『ハイライト』

[演劇] うさぎストライプ、大池容子『ハイライト』 駒場アゴラ劇場  4月8日

(写真下は、終幕近く、夜行バスに乗って、東京という寂しい大都会を去る若者たち、だが、彼らは寂しさから逃げるのではなく、寂しさと向き合い、それを引き受けることによって、寂しさを乗り越え、未来を生きていこうとする。いや、彼らが東京から去るのではなく、東京という町そのものが彼らから離れてゆくのか)

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 大池容子の作品は、『バージンブルース』、『空想科学Ⅱ』、そしてこの『ハイライト』も、寂しい若者たちが主人公である。歌手を夢見て東京に出てきた東北の少女が、歌手にもなれず、恋人もできず、友人もおらず、交通安全ロボットの「安全太郎」に恋をする。道路工事現場から盗んだ安全太郎と一緒に、はとバスに乗って、東京を一日デートするが、良心の呵責に耐えかねて、現場に安全太郎を返しにきたとき、家出少女のように警察に保護される。これが物語の核に見えるが、いや、それはまだ可能世界であって、最後に夜行バスの中で「ほっこりニュース」として紹介されたように、本当は、東京に出てきたまま故郷にも帰れない「練馬区在住の三十代の女が、安全太郎を盗んだあと保護された」のかもしれない。彼女だけではなく、東京に暮らす他の若者も、やはり寂しく生きている。男は、結婚したばかりの妻に逃げられ、女は、8年越しの彼氏と結婚には至らない。もう一人の男は、オリンピック選手になれるくらいだったのに、交通事故で足を失い、今は道路工事現場で、安全太郎とほぼ同じ、車の通行整理の仕事をしている。(写真下は、「タロ子」と呼ばれる田舎くさい家出少女、とても寂しげな表情で、演じる菊池佳南は非常に上手い)

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 生きることは寂しい。結婚しても、家族がいても、親友がいても、職業的に成功しても、それでも我々は孤独に生きている。そして、そういう寂しさから逃げるのではなく、その寂しさを引き受けて、毎日を生きている。東京という町は、そういう人々の集積する空間である。チェホフ劇において、モスクワが人々の欲望の夢の中にしか存在しなかったように、大池の作品もまた、寂しさを引き受けて生きようとする人々の愛おしさに溢れている。そして、生きることの寂しさは、主に、愛を得られないことに由来しているという点でも、チェホフ的である。さらに言えば、チェホフの時代よりも我々の時代は、孤独がより深まったぶんだけ、それだけ不条理劇化している。若者たちは、架空の結婚式ごっこをやり、愛の喪失を補償する。この『ハイライト』は、幾つもの可能世界が現実世界と重なるかなり凝った作りになっている。ロボットに恋をしてしまうフェティシズム東京オリンピック前の狂騒的な道路工事、オリンピック開催中のテロまがいによるオリンピックそのものの荒廃、そして、オリンピックによって多くの人々が傷ついたというオリンピック後の世界。これらが時間的に重なっているだけでなく、『ハイライト』は、空間のワープがうまい。椅子の位置を動かすだけで、工事現場が、はとバスの車内になり、結婚式場になり、オリンピックテロの救護室になり、東京タワーの展望デッキになる。(写真下は、はとバスの車内、左側がバスの二階で安全太郎とタロ子だけが客、だから二人のデートなのだ、右側は一階で、バスガイドと運転手になっている他の男女、彼らも寂しい若者だ)

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 『バージンブルース』『空想科学Ⅱ』と『ハイライト』、三つとも非常に優れた劇作品だと思う。どれも、不条理劇の形式で愛の喪失を描くことによって愛を讃えている。ただ、あえて言うならば、内容がやや詰め込み過ぎではないか。不条理劇は、たくさんの可能世界の重なりと均衡によって成り立っている。内容を詰め込み過ぎると、それぞれの要素が弱まり、この均衡がうまくいかない。たとえば最後にちらっと出た「東京遷都」の話。人々が東京を去るのではなく、東京という町が人々から去るのだから、こここそはもっと深めてほしい要素だ。それに対して、はとバスがコンビニにトイレ休憩に寄るとかの場面は不要だ。音楽にもやや過剰さがあり、大池の劇はすべて昭和レトロの歌が繰り返し歌われる。寂しい感じがよく出るという点で、昭和レトロの音楽はたしかにぴったりなのだが、音楽が感情に寄り添い過ぎても、全体が泥臭く、センチメンタルになってしまう。太田省吾『水の駅』の音楽は、アルビノーニオーボエ協奏曲とサティのジムノペティの二つの旋律のみだが、一方は感情に寄り添い、他方は感情を突き放すという点で、理想的な音楽の使い方だ。『ハイライト』は、若者たちの初デートの場所が想起され、それは、今はなくなってしまった高田馬場ビッグボックスや渋谷のゲームセンターだったりする。懐かしさに溢れるこの感情をもう少し押さえて、感情を突き放すシュールな要素をもう少し増やしたら、劇全体がいっそう美的に昇華されると思う。(写真下は、実在の安全太郎、1970年以来、50年も使われ、電力消費が少なく24時間活動する、35kgしかないが78万円もする。舞台の安全太郎は、実物なのか?)

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今日のうた(95)

[今日のうた] 95 3月ぶん

(写真↓は、右側が樋口一葉1876~92、左側は一葉が短歌を教えていた太田竹子、一葉はたくさんの短歌を残し、彼女自身の恋を詠んだものもある)

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  • 腹に在る家動かして山笑ふ

 (高濱虚子、冬は冬眠しているように見えた山も、早春になると活動し始めるように見える、これが季語の「山笑う」、しかしこの句は面白い、「山腹にある家が動くくらい、山が大笑いしているよ」) 3.1

 

  • 片屋根の梅ひらきけり烟(けむり)出し

 (内藤丈草、作者1662~1704は芭蕉の高弟、「小さな小屋の片流れの屋根にくっつくように、小さな梅の木があり、花がぽつぽつと開き始めた、あっ、かすかに烟も出ている、人が住んでいるんだ」、梅の季節になった) 3.2

 

  • またものとの雛(ひひな)の店に戻りけり

 (国安一帆、「どの雛人形を買おうかな、あちこちの店を回ってもなかなか決められません、結局はじめの店に戻ってきてしまった」、今日は桃の節句、私の住む鴻巣市雛人形の特産の町) 3.3

 

  • 春の水ところどころに見ゆるかな

 (上島鬼貫1661~1738、春になると、川、池、沼、湖などの水は、どこか明るく、豊かになる、これが「春の水」、それが「ところどころ」に見ゆる、というのがいい、平易だが名句) 3.4

 

  • たんぽぽやひとり笑ひのひとり泣き

 (前田典子、作者1940~は三重県俳人、ひとり笑ひ「の」ひとり泣き、の「の」が重要、自分のことだろう、一人で笑ったり一人で泣くことの多い孤独な生活なのだろうか、地味で小さくて可愛いタンポポの花たちは、作者の親しい友人) 3.5

 

  • 娘とはつねにまぼろし 亡ぼしし夢のことなどまた夢に見つ

 (睦月都「十七月の娘たち」2017、作者は20代半ばの若い人、「娘」とは、母にとっての「娘」なのか、それとも自分の自己意識なのか、自分が「娘」であるというのはつねに幻想なのか、でも夢の中では自分は「娘」) 3.6

 

  • ブランコを漕ぐことへたになりてゐるわれに気づかぬふりをして漕ぐ

 (小島ゆかり「ブランコ」2018、娘と小さな孫がいる作者は、一緒に近所の公園で、数十年ぶりにブランコを漕いだのか、「あら、漕ぐのへたになっちゃったわ」とは言わずに「気づかぬふりを」する) 3.7

 

 (カン・ハンナ「膨らんだ風船抱いて」2017、作者は日本に留学中の研究者、他分野の人達との合同研究会が終り、キャンパス内の並木道を一緒に歩いているのだろう、各人の意見の違いの理由を考えながら) 3.8

 

  • 占領地区の牡蠣を将軍に奉る

 (西東三鬼「京大俳句」1939、戦前、前衛俳句運動の中心の一人であった三鬼は、出征はしなかったが戦争の句をたくさん作った、1940年には京大俳句事件で検挙された) 3.9

 

  • 病院船牧牛のごとき笛を鳴らし

 (平畑静塔1905~97、作者は戦前の前衛俳句運動の中心の一人で精神科医、1940年に京大俳句事件で検挙、1944年に南京の陸軍病院に勤務、この句は1940年頃か、帰港の「病院船」は軍の船だろう、肉体も精神も損傷した兵士たちを満載し「牧牛のごとき」汽笛を) 3.10

 

  • 赤く青く黄いろく黒く戦死せり

 (渡辺白泉1939、作者1913~69は戦前の前衛俳句運動の中心の一人、京大俳句事件で検挙、この句の「赤、青、黄、黒」の色は、人間の肉体の色なのか、戦死した兵士たちの色) 3.11

 

  • 天雲(あまぐも)に翼(はね)打ちつけて飛ぶ鶴(たづ)のたづたづしかも君しいまさねば

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「あの鶴は、翼を雲にぶつけながら、よろめくように飛んでいます、貴方がいらっしゃらないから、心配で仕方がない私のように」、翼を「雲に打ちつける」ように飛ぶという表現がみごと) 3.12

 

  • 夢のうちに逢ひ見むことをたのみつつ暮らせる宵は寝むかたもなし

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「うん、今夜は夢できっと君に逢えるんだ、と、僕はそれだけを心の支えに今日一日を頑張って過ごしたよ、でもそんな日に限って、ああ、夜になると眠れない、夢も見られない」) 3.13

 

  • うとくなる人をなにとて恨むらむ知られず知らぬ折もありしに

 (西行『新古今』巻14、「つれなくなってしまった君を、どうして僕は恨むのだろう、だって、以前そうだったように、お互いが相手を知らない時とまったく同じはずなのに、でもなぁ・・・」) 3.14

 

  • 木蓮に日強くて風さだまらず

 (飯田蛇笏、モクレンは、春になって日差しが強くなると、それまで蕾だったのが一斉に開く、そして風の強い日も多く、花は散ってしまう、我が家の白木蓮も今満開だが、強い風に電線が鳴っている) 3.15

 

  • 蒲公英(たんぽぽ)や日はいつまでも大空に

 (中村汀女タンポポが咲き出す頃は、日が長くなり、夕方が一日ごとに明るくなっている、この句もたぶん夕方だろう、日は「いつまでも」大空にあって、容易に落ちない) 3.16

 

  • はる雨や猫に踊(おどり)ををしへる子

 (一茶、かすかに春雨が降ってきた、家にも入らずに、子どもが子猫と一緒にたわむれている、それを「猫に踊りを教える」と詠んだのがいい、子猫も可愛いし、子どもも可愛い、動物や子どもを愛した一茶らしい句) 3.17

 

  • 桃の花暗くなるまで父といる

 (森下草城子、「公園かどこか、桃の花が咲いているそばのベンチに、小さな女の子がお父さんと座っている、もうだいぶ夕方になったけれど、二人はまだ帰らないのかな」、我が家の近くの桃も、ぽつぽつと開き始めた) 3.18

 

  • 茨の芽のとげの間に一つづつ

 (高濱虚子、「薔薇の芽」とは、冬の間、太い幹と大きなトゲだけになっていた薔薇に、春になると、幹のあちこちから小さな芽と葉が一斉に吹き出ることを言う、この句は「とげの間に」がいい、我が家の薔薇もいま「薔薇の芽」が一斉に吹き出した) 3.19

 

  • 一を知つて二を知らぬなり卒業す

 (高濱虚子、今、大学卒業式の時期、街でも、華やかな袴姿の女子、スーツ姿の男子を見かける、だが、大学で学んだことは、荘子の言うように、物事のほんの一面にすぎず、知らないことの方がずっと多い、大人になったとはまだ言えないのだ、若者が大人になりにくい時代) 3.20

 

  • 人ごみに蝶の生るゝ彼岸かな

 (永田耕衣、春になって初めての蝶をどこで見かけるだろうか、山野だろうか、住宅地だろうか、いや、大都会のど真ん中の「人混み」の雑踏に見かけることもある、そういう蝶こそもっとも印象的だ、今日は彼岸の春分の日) 3.21

 

  • 僕らはママの健全なスヌーピーできるだけ死なないから撫でて

 (柴田葵「母の愛、僕のラブ」2019年1月、作者1982~は第一回「笹井宏之賞」大賞を受賞、家を出て恋人から「ボクっ娘をやめろ」と言われるまで、自分を「僕」と呼んでいた、そういう女性は意外に多いのだろうか) 3.22

 

  • 数式を誰より典雅に解く君が菫の花びらかぞえられない

 (笹原玉子『南風紀行』1991、作者1948~は歌誌「玲瓏」会員、詩集『この焼跡の、ユメの県』もある人、この歌の「君」は数学者なのだろう、夫だろうか、それとも知人か) 3.23

 

  • 酩酊をわたしは待つた日曜の広いベランダに身を投げだして

 (睦月都「十七月の娘たち」2017、「酩酊」とは、実際にアルコールを飲んだのだろうか、それとも、「日曜の広いベランダに身を投げ出し」ていると「酩酊」のような気分になれるのか、前後の歌からは分からない) 3.24

 

  • 人もなき国もあらぬか吾妹子(わぎもこ)と携(たづさ)はり行きて副(たぐ)ひて居らむ

 (大伴家持万葉集』巻4、「僕たちのことをじゃまする人のいない国はないかなあ、貴女と手を取り合って、そこへ行こうよ、ずっと寄り添って一緒にいようよ」、樋口一葉にこれを真似た歌がある) 3.25

 

  • 我が戀は逢ふにもかへずよしなくて命ばかりの絶えや果てなん

 (式子内親王、「私の恋は、貴方と逢って相思相愛になることができない空しいものなのね、ただ悶々と貴方を思っているうちに、ああ、私の命は終わってしまうのかしら」) 3.26

 

  • 住の江の草をば人の心にてわれぞかひなき身をうらみぬる

 (建礼門院右京大夫、「住の江の忘れ草みたいに、私を忘れちゃったのは貴方じゃないの、ずっと貴方を思い続けて恨んでいるのは私よ」、恋人の平資盛[清盛の孫]の「僕につれない君を恨むよ」という歌への返し、もっと彼をじらさなきゃいけないのに、うっかり本音を言っちゃった) 3.27

 

  • さまざまの事思ひ出す桜かな

 (芭蕉1688、桜の花は、さまざまな記憶を呼び起こす、「年々歳々花相似、歳々年々人不同」とあるように、その記憶は何よりもまず「人」の記憶だろう、我が家の近所でも、まだ満開ではないが、桜の花らしくなってきた) 3.28

 

  • 知人(しるひと)にあはじあはじと花見かな

 (向井去来『猿蓑』、「花見に来たよ、知人に会わないといいなぁ、会いたくないなぁ」、微妙な心理が面白い、一人で心ゆくまで花を味わいたいのか、それとも、さる女性と一緒にこっそり花見に来ているので、知られたくないのか、たぶん後者) 3.29

 

  • 酒を妻つまを妾(めかけ)の花見かな

 (榎本其角、「妻と一緒に花見に来てるんだけどさ、満開の桜の下で飲む酒は本当に美味いぜ、まぁ大きな声じゃ言えないけどさ、俺にとっちゃ、酒が本妻、妻が妾かな」、少し酔っ払っているか、無類の酒好きだった其角らしい) 3.30

 

  • 真先に見し枝ならん散る桜

 (内藤丈草『猿蓑』、「桜の花が満開に咲き誇っている、本当にいいな、あっ、あの枝の桜が散った、そうだ、あの枝の桜は、たぶん、咲き始めたときに最初に見た、あの桜の花だ」、最初に散った花を捉えたのが卓越) 3.31