文楽 『妹背山婦女庭訓』

[文楽] 近松半二ほか『妹背山婦女庭訓』 国立劇場(小) 5月22日

(写真↓は二つとも、とても美しい「山の段」の舞台、吉野川をはさんで左側が太宰家、右側は清澄家、写真下は、ヒロインの雛鳥(人形遣いは吉田蓑助)の首を、母親の定高(さだか)が刀で切り落とすところ、首を切った大きな音が山全体に響く衝撃的なシーン)

f:id:charis:20190523042707j:plain

f:id:charis:20190523042743j:plain

文楽は数回しか見たことがないのだが、この『妹背山』は本当に凄かった。「通し」上演なので、午前10時半から午後8時50分まで、約10時間。会場で配られた床本集は、私の手元のテキスト(小学館『日本古典文学全集77・浄瑠璃集』)より短いので、これでも浄瑠璃の部分はいくらかカットされているのだ(仏教嫌いの蘇我蝦夷子による二人の僧いじめや、最後の蘇我入鹿の死の部分はない)。文楽という表現様式は、通常の演劇における役者の科白と身体運動とを完全に分離し、浄瑠璃と人形とに替えたことによって、それぞれの表現が深まった。人形の視覚的な美しさはもちろんだが、何よりも浄瑠璃の語りの素晴らしさに驚かされた。「芝六忠義の段」の豊竹咲太夫の語りの変幻自在さ(彼はたぶんこの分野の第一人者なのだろう)、「山の段」の左右に分かれた四人の語りなど、絶唱というか、とても役者が舞台で語ったのでは、このような迫力ある語りは不可能だろう。『仮名手本忠臣蔵』と同様、主筋と副筋を合せて上手に構成されており、各段の対照と繋がり方がみごとなので、全体の起承転結が素晴らしい。蘇我蝦夷子と入鹿の親子、天智天皇藤原鎌足たちの宮廷革命の政治劇と、ロミオとジュリエットのような悲恋物語、そして漁師や米屋など生活の匂いのする庶民生活など、すべての階級の人物が総出で活躍するのがいい。スケールの大きな叙事詩。もっとも大化の改新の時代劇にしては、江戸時代の武士がたくさん出てくるので、そこはユーモラス。(写真↓の下は、右が蘇我入鹿)

f:id:charis:20190523042849j:plainf:id:charis:20190523042955j:plain全体の中では、それだけで二時間近い「山の段」が特によかった。舞台の美しさも格別だが、内容が衝撃的だ。姫である雛鳥の首を母親が叩き切るだけでなく、その首を嫁入り道具と一緒に川の対岸に送り、恋の相手である久我之助(切腹して死の直前)の前に首を並べる「死体による結婚式」シーン。浄瑠璃はもうほとんど叫びになっている。ロミ・ジュリの二人の最後の自殺でさえ、これに比べれば穏やかなものだ。こういう表現は人形だからできるので、生身の役者ではできない。「山の段」だけ単独に上演するのもよいのではないか(ワーグナーの『ワルキューレ』のように)。なにしろ文楽では、観客は注意を集中して語りを聴いているので、通し全部に集中力を維持することは体力的にむずかしく、オペラよりもずっと疲れる。

f:id:charis:20190523043116j:plain

f:id:charis:20190128103716j:plain