杉原邦生演出『グリークス』

[演劇] 杉原邦生演出『グリークス』   横浜KAAT  11月21日

(写真↓はコロス、今回の舞台はコロスが素晴らしく、全体の主人公であるように感じた、コロスはすべて登場人物が兼ねていて、中央がエレクトラ、その左テティス、左端イピゲネイア、右から二人目アンドロマケ、右から三人目ヘレネ(たぶんアフロディーテも)、ヘレネが美女でないのは重要な演出意図)

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私は『グリークス』は、コクーン蜷川幸雄演出(2000)、昴の上村聡史演出(2016)を見ているので、この杉原邦生演出は三度目になる。10時間は辛いが、本当に見応えがある。今回の杉原演出は、フェミニズム版ともいえるもので、女たちの存在感が素晴らしい。一人一人の女たちがそれぞれ、全身で、激しく、自己を主張し、出番でないときはコロスとなって、大いに歌い、語る。トロイ戦争では結局女たちが一番苦しむのであり、クリュタイメストラも、ヘレナも本当は決して悪くないのに、男たちと神々の身勝手のおかげで、悪女にされてしまった。そうした苦しみと葛藤を経て、最後の「タウリケのイピゲネイア」終幕では、自由へと解放された女たちが全員集合して円陣を組んで踊る。ここは本当に素晴らしかった。私は今まで、『グリークス』はなぜこの十個の作品で構成されるのか、「(エジプトの)ヘレネ」などかえって話が混乱するのでは、と疑問に思っていたが、今回の演出で、この十個の構成の意味が分かった。(写真下の2枚は↓、帰還したアガメムノンカサンドラカサンドラと終幕のイピゲネイアが日本の巫女姿なのがいい、その下はクリュタイメストラ)

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冒頭の三女神の美人コンテストも、本当は男たちの欲望に沿ったゲームであり、ヘレネも含めて女たちはみな(女神たちも)、男たちの性的欲望の被害者なのだ。私は最前列中央の席だったので、一人一人の顔がよく見えたが、アフロディーテが美人でないのに衝撃を受けた。だが、これこそ演出の意図なのだ。美人コンテスト、アウリスのイピゲネイア、で始まり、タウリケのイピゲネイア、で終わる構成は、女たちの解放というフェミニズムの線で考えるとよく分かる。「(エジプトの)ヘレネ」も、神々の恣意性や遊びを非難する主旨であり、ヘレネは神々の遊びの被害者だという点がポイントなのだ。ヘレネを美人でなく造形したのも、重要な演出意図。『グリークス』の主人公は女たちであり、神々への批判、男性への批判が基調トーンになっている。女たちが激しく自己を主張するのに対して、男たちはどこか滑稽キャラになっている。メネラオスギリシア悲劇の原作でも滑稽キャラだが、この上演は、アガメムノンアキレウスも滑稽キャラになっている。(写真下は、メネラオスアガメムノン、そしてアキレウステティス(彼の母)、アキレウスが甘えん坊の坊やになっているのがいい)

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それにしても、女たちは本当に輝いている。エレクトラクリュタイメストラ、アンドロマケが、それぞれきわめて個性豊かで、激しく自己を主張するのは原作もそうだが、今回は、それに加えてカサンドラ、イピゲネイア、ヘルミオネ、クリュソテミスなどもそれぞれ個性的で、激しく自己を主張する。そして、登場する神々が徹底して滑稽キャラなのがいい。アフロディーテは不器量なねえちゃん、アポロンは芸人の下品なおっちゃん、アテナは本を担いだ元気な本屋のおかみさんだ。そう、『グリークス』は女の解放の物語なのだ。ギリシアの原作も、じっくり読んでみると、そういう側面があるのかもしれない。アリストファネス『女の平和』だけではないのかもしれない。(写真下は、左からプリアモス、ブリセイス、アキレウス)

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 動画です↓。30秒ですが、女たちが輝いています。

https://www.youtube.com/watch?v=FRtFspKIFOo

映画『マチネの終わりに』

[映画] 平野啓一郎原作『マチネの終わりに』  11月16日 熊谷シネティアラ21

(主人公の二人は、卓越した人物で素晴らしい魅力をもっているが、彼らの恋は人生で3回しか会えなかった、そしてその後、4回目は別れの出会いであり、ニューヨーク・セントラルパークですれ違い、目と目が合って微笑みを交わすだけ)

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 原作の小説が大好きなので、さっそく映画版を見に行った。たいていは小説を映画化すると、つまらない作品になることが多いが、本作は違う。人の人生は、みな孤独で寂しいけれど、人生でたった3回(東京で1回、パリで2回)会うだけで、そして4回目は別れとして出会うだけで、人間は何と美しく輝くのだろう!原作の最後、ニューヨークの蒔野の演奏会が終り、セントラルパークで偶然すれ違う二人は、こう描かれている。「蒔野は、彼女を見つめて微笑んだ。洋子も応じかけたが、今にも崩れそうになる表情を堪(こら)えるだけで精一杯だった。バッグを手に立ち上がると、改めて彼と向かい合った。蒔野は既に、彼女の方に歩き出していた」(p402)。だが、映画では、この「彼女の方に歩き出す」シーンがない。二人は10メートル以上離れており、涙目になった彼女の顔で映画は終わる。二人は体をわずかに動かし始めるが、近づいて抱き合うのではなく、それぞれが未来に向かって前に歩き始めるように私には見えた。二人はもう会うことはないだろう。永遠の別れ。だが、宇宙の時間がそのとき止まり、二人の愛の「永遠の今」が現出する。二人がともに口にした「未来は過去を変える」とは、こういうことなのだ。

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愛がこれほど美しく描かれている作品はめったにない。それは、愛を贈与されるものとして描いているからである。愛の贈与とは、愛する側が愛される側に愛を与えるのではない。その逆である。愛される側が愛する側に愛を贈与するのである。洋子が蒔野に愛を贈与するというのは、蒔野の中に洋子への愛の感情を灯すことである。暗闇の中に小さな灯がともるように、それはまるで恩寵のように贈られる。洋子はそれを意識して行うわけではない。まったく無意識に愛を贈与しているのだ。そして蒔野にとって、洋子から愛が贈与される(=洋子に対して愛を感じる)のは徹底して受動的な経験である。まったく同様のことが、蒔野から愛の贈与を受け取る洋子にも言える。つまり、相思相愛とは、どちらも相手から愛の贈与を受け取るという受動的な感情の生起であり、「愛する」という能動性、他動詞的な要素は一つもない。原作の小説を読んだとき私は、蒔野のマネージャーの早苗が、蒔野の携帯から偽のメールを洋子に打って二人を別れさせるところが、何か不自然に思えた。だが、映画では、まったく不自然に感じない。早苗の蒔野への愛がそうさせたのであり、彼女の自由意志ではなく、牧野が無意識に贈与した愛がそうさせたのだ。洋子も蒔野も自由意志によって主体的に行動しているようには見えない。贈与としての愛を受け取ることにおいて、人間はどこまでも受動的なのだ。蒔野の孤独は非常に深い。長いスランプに陥った彼が演奏家として復活できたのは、彼の演奏を洋子が聴いたから、そしてその喜びを彼女が蒔野に伝えたからである。音楽が二人を結びつけ、音楽が、洋子を通して、蒔野を救済したのだ。そう、音楽もまた恩寵である。映画の全篇に流れる蒔野のギターは、彼の祈りのように、そして運命が贈与する讃美歌のように聞こえる。

 

原作で二度引用されるリルケ『ドゥイノーの悲歌』。映画もこれがすべてを語っている、

「・・・天使よ! 私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、・・・彼らは、きっともう失敗しないでしょう、・・・再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち・・・」(リルケ『ドゥイノーの悲歌』)

 

ニーチェは、芸術は生の最高の肯定、祝福であり、生へ誘惑する偉大な女であると述べている。「芸術における本質的なものは何といっても[人間の]生存の完成状態と充実の産出にある。芸術は、本質的に生存の肯定、祝福、神化である」「芸術は生を可能にする、生へ誘惑する偉大な女であり、生への大きな刺激剤である」(『残された断想』白水社版全集第10巻p541、第11巻p50)。ニーチェに加えて言うならば、彼のいう「生の最高の肯定、祝福」の絶頂に当たるものが「永遠の今」であり、芸術は「生を可能にする偉大な女」であるから、「永遠の今」は「愛の現出」の祝福でもあるだろう。『マチネの終わりに』から、まさしくそれを私は感じた。

(写真下は、中央がマネージャーの早苗)

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『マチネの終わりに』における「永遠の今」は、プログラムノートを読むとよく分かる。監督の西谷弘によれば、最後のセントラルパークの出会いの場面を原作から少し変え、池の所にした。その理由は池の中の「噴水を丸い地球に見立てる」ためである。つまりそこはコスモロジカルな宇宙空間であり、全宇宙の時間が止まり、そこに立ち尽くす二人に「永遠の今」が現出するのだ。

また洋子を演じた石田ゆり子はインタビューでこう語っている。

> ―― 洋子と蒔野は、三度しか会わなかった二人ですね? /・・・人と人が出会う。その関係性でいちばん大事なことは、相手の人生を否定しない。尊重していくこと。どんなに愛しても、その人は自分のものにはならない。自分の人生も人のものにはならない。それぞれ自分の人生を生きていく過程で出会うしかないわけです・・・。そういう意味でこの二人の関係って、せつないけれど理想的で。結ばれない恋かもしれないけど、でも永遠の絆を伴っている。

> ―― そして、ラストの洋子の表情・・・ / 特別な時間ですよね。その時間だけが永遠に残るような時間だろうと思いました。

石田は、『マチネの終わりに』の核心を本当によく理解している。運命すなわち他者に対する二人の関係性の総体が、二人の身体に内面化していること、それが出会いをもたらし、互いに惹かれあって、二人は恋に落ちる。このように運命が贈与する愛は、「永遠の絆を伴い」そして「永遠に残る特別な時間」である、と彼女は明言している。

(写真↓は、大崎で蒔野に会えなかった洋子)

f:id:charis:20191121053119j:plain 1分半の動画がありました。

https://natalie.mu/eiga/gallery/news/354613/media/41727

今日のうた(102)

[今日のうた] 10月ぶん

(写真は原石鼎1886~1951、虚子門下で、大正期の「ホトトギス」で活躍した)

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  • 秋晴れの日本は首相をヒトラーに喩へようとも罰せられぬ国

 (栗木京子『ランプの精』2018、作者はデモに参加して、そして詠んだ歌の一つ、表現の自由は、人間の権利の根本に関わる問題、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」を見れば分かる) 10.1

 

  • 地下室で君は目を弓のようにしわたしに触れた鮮やかな夜

 (川谷ふじの『角川短歌』2019年8月号、作者は2000年生まれの若い人、第61回短歌研究新人賞受賞、初恋のときだろうか、彼氏が「目を弓のようにし」たというのがいい、作者も「地下室で」緊張していたのが分る) 10.2

 

  • 照らすもの持たないままに灯台の放つあかりは闇を横切る

 (伊波真人『角川短歌』2019年7月号、作者1884~は歌誌「かばん」会員、灯台のサーチライトは何かを照らすためのものではない、海上からその光の点が確認されればよいから、その放つ「あかり」はつねに闇の先まで届く、そしてこれは何かの比喩でもありうるだろう) 10.3

 

  • 夕焼けの空に穴ありわたりゆく先頭の鳥見えなくなりぬ

 (小島ゆかり『六六魚』2018、雁など渡り鳥の姿をよく見る頃になった、遠くなるまでずっと見続けていると、あるところで突然フッと視野から消えてしまう、まるでそこに穴があるかのように) 10.4

 

 (稲畑汀子ムクゲの花は本当に季節が長い、我が家のご近所では7月から咲き始め、今は別の家のムクゲが咲いている、夕方になると花をたたむのがとてもいい) 10.5

 

  • 逢ひにゆく袂触れたる芙蓉かな

 (日野草城、芙蓉の花は美しい女性の姿を思わせる、作者は女好きで名高い俳人、自分の袂に触れた芙蓉の花を、これから「逢いにゆく」女性に見立てないわけにはゆかない) 10.6

 

  • コスモスに雨の狼藉残りをり

 (岩垣小鹿、たくさんのコスモスが咲くとき、方向や角度は揃っておらず、奔放に、乱雑に、咲いているのが、コスモスの野性的な美しさ、そして、にわか雨が降った直後は、水滴の重みでもうメチャメチャ、まさに「狼藉が残っている」) 10.7

 

  • ざつと降れば三十分ですむ雨が出し惜しみして夕べまで降る

 (馬場昭徳『夏の水脈』2019、たしかにこういうことはある、天気予報ではすぐ上がるはずの雨が、降ったり止んだりして、「夕べ」までぐずぐずしている、「出し惜しみして」がいい) 10.8

 

  • 外国に似た遠さかな東京もわがふるさとも「内地」と呼ばれ

 (松村由利子『光のアラベスク』2019、作者1960~は、毎日新聞の記者だった人、2006年から石垣島に住む、そこでは作者の故郷の福岡県も東京も、ひとしく「内地」と呼ばれる) 10.9

 

  • ゆふあかねしづかに充ちて回送の電車に下がる吊り革の群れ

 (小谷陽子『ねむりの果て』2019、「ゆっくりとホームを通り過ぎてゆく回送電車には、人は誰もいないが、室内に夕陽の光が溢れて、たくさんの吊り革が揃って揺れている」、「ゆふあかねに揺れる吊り革」というのがいい) 10.10

 

  • コーヒ店永遠に在り秋の雨

 (永田耕衣『殺佛』1978、当時78歳の作者には、仕事の打ち合わせなどにも使ったなじみのコーヒー店が近所にあった、その店がよほど好きだったのだろう、秋雨の降るある日、店は「永遠に在る」ように感じる) 10.11

 

  • 猪(ゐのしし)もともに吹かるる野分かな

 (芭蕉1690、「いやあ、すごい台風だな、あそこにいるずんぐりした猪も、動けないほど吹きまくられて、うずくまっている」、当時、芭蕉滋賀県大津の「幻住庵」に滞在していたが、付近には猪が出没したと『幻住庵記』にある) 10.12

 

  • 山川に高浪も見し野分かな

 (原石鼎1886~1951、台風で増水すれば、山沿いを流れるたいして大きくない川にも「高浪」が立つ、今回の台風19号でも、山川ではないが、植村の住む近所の荒川、利根川、そして東京の浅川や多摩川の増水や高浪には驚いた、四つの川はどれもよく知っているので) 10.13

 

  • 音もなく殖えて悲しや秋出水(あきでみづ)

 (高濱虚子、「台風一過、刈り入れを待つ稲や家々が、音もなく増水した出水につかっている、悲しい光景だ」、「秋出水」とは台風などで川が増水して溢れること、今回の台風19号でも同様の状況が) 10.14

 

  • 月に行く漱石妻を忘れたり

 (夏目漱石1897、「僕は月に見とれて、すっかり夢見心地になっていたので、妻のことを忘れてしまったよ」、漱石は熊本の第五高等学校に赴任したばかり、妻は隣りで月見をしているのではなく、流産したばかりで東京で静養していた、昨夜は中秋の名月) 10.15

 

  • 木犀の昼はさめたる香炉かな

 (服部嵐雪、「ひんやりとするの秋の昼間、木犀のいい香りが漂ってくる、でも香りは夜よりわずかに少ないかな、<ちょっとさめた香炉>みたい」、今年はだいぶ遅かった我が家の金木犀は、台風で花芽がかなり散って、そして咲いた) 10.16

 

  • だれのこころも知りたくないというわれに金木犀は錆びて香りぬ

 (米川千嘉子『牡丹の伯母』2018、秋になって初めて金木犀の香りを感じる時、人の心に去来する感情や内容は千差万別だ、たまたま「誰の心も知りたくない」というネガティブな心情だった作者は、香りも「錆びて」感じる) 10.17

 

  • うつくしう 嘘をつくなう 唄うなう うい奴ぢや さう 裏梅のやう

 (小池純代『梅園』2002、「裏梅のやう」というのが、とても印象的だ、「裏梅」とは、梅の花を裏からみた形をデザインしたものらしい) 10.18

 

  • 解き衣(きぬ)の恋ひ乱れつつ浮き真砂(まなご)生きても我はありわたるかも

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「ほどいた着物のように乱れに乱れて貴方を恋している私は、流れに浮いた砂のように生きているのね、ずっといつまでも」、男の訪れを待つ女の漂流するような苦しさ) 10.19

 

  • 秋の野の尾花にまじり咲く花の色にや恋ひむ逢ふよしをなみ

 (よみ人しらず『古今集』巻11、「秋の野のすすきに混じって咲く花は特に目立つよね、よし僕も、それを真似て、はっきり人目につくよう行動するからね、だって君はこっそりと逢ってくれないんだもの」) 10.20

 

  • 玉水(たまみづ)を手に結びてもこころみむぬるくは石の中も頼まじ

 (よみ人しらず『新古今』巻14、「この澄んだ水を手にすくって飲んでみよう、ひんやりと新鮮ならがいいが、もしぬるかったら、石井戸の水を飲むのはやめよう、僕たちの間はもうマンネリになったのだから」) 10.21

 

  • 松の葉の地に立並ぶ秋の雨

 (内藤丈草1662~1704、「秋雨が静かに降っていて、松の樹がすっかり濡れている、樹の下を見ると、落下した松の葉が、苔むした庭にそのまま突き刺さって、何本も立っている」、寺の庭だろうか、非常に観察が細かい)10.22

 

  • 樅(もみ)の木のすんと立(たち)たる月夜哉

 (上嶋鬼貫1661~1738、「モミの大木が月夜にすっきりと立っている」、モミの木といえば、クリスマスツリーの連想で西洋由来のものと勘違いしていたが、昔から日本にも自生していたのだ、この句は「すんと立たる」がいい) 10.23

 

  • 大原女(おはらめ)や野分にむかふかゝへ帯

 (斯波園女1664~1726、「台風の風にもかかわらず、しっかり帯を結んだ大原の女たちが、荷を頭に載せて、京都へ向かって歩んでゆく」、「大原女」とは工芸品などを頭に載せて京都へ売りにゆく大原の女たち、「かゝへ帯」は、腰に巻きつける帯) 10.24

 

  • 恥もせず我(わが)なり秋とおごりけり

 (立花北枝 ?~1718、作者は金沢の人、1689年に芭蕉を家に迎えた時の句、「こんなみすぼらしい我が家なのに、「うちの秋の庭はいいですよ」と自慢して、芭蕉先生をお迎えしてしまった、先生どうぞおくつろぎください」) 10.25

 

  • なみなみと零(こぼ)れ出そうな心抱きプラットフォームに沿って歩めり

 (川谷ふじの『角川短歌』2019年8月号、まだ十代の若い作者2000~は恋をしているのだろうか、それとも何かを一身に考えているのか、プラットフォームをまっすぐ歩いている、「なみなみとこぼれ出そうな心」を抱いて) 10.26

 

  • 月にむかい汝を負へば背中よりふたたびわれへ入りくるような

 (江戸雪『椿夜』2001、生まれた赤ちゃんを背負って月を見ているのだろう、赤ちゃんが動いたのか、自分の体の外にいるはずの赤ちゃんが「ふたたび自分の体の中に入ってくるように」感じた、「汝」と言ったのがいい) 10.27

 

  • きみが胸にわが影いくつ残したる互(かた)みに違ふ時間を生きて

 (今野寿美『花絆』1981、恋が始まった頃の歌だろう、作者は20代半ば、笑わない暗い少女だった作者が恋をしたのは歌人の三枝昂之、それぞれ仕事で忙しかったのか、数少ない過去のデートを回顧して懐疑する切なさ) 10.28

 

  • 単純な倫理に科学責めたれば愛より確(しか)とわれを憎むや

 (米川千嘉子「夏空の櫂」1985、20代前半の作者、情報工学専攻で東大大学院生の彼氏の、科学者らしい素朴な倫理観を批判したら、「科学は男女の愛よりずっと確実だ」と強く反論された、「私嫌われちゃったかしら」と悩む作者) 10.29

 

  • お二階にヨガしてをられ花芒(はなすすき)

 (梶川みのり『転校生』2004、ご近所の裕福な御宅だろう、「お二階」でヨガをして「をられる」のはたぶん奥様か、庭にはススキの花ががたくさん咲いている、ススキとヨガの取り合わせがとてもいい) 10.30

 

  • かたすみのかたいすすきを描(か)く絵筆

 (宮本佳代乃、俳誌「豆の花」2012年4月、さまざまな花が活けられた大きな花束を絵に描いているのだろう、花束の中央にある色鮮やかな花ではなく、むしろ地味な「かたすみの、かたい」ススキを描くとき、絵筆が生き生きと動いている) 10.31

(手話による)チェホフ『三人姉妹』

[演劇] (手話による)チェホフ『三人姉妹』 池袋・東京芸術劇場 10月20日

(写真下↓は三姉妹、左からイリーナ、マーシャ、オーリガ、第四幕最後の「さあ、生きていきましょう」のシーン、手話だから身振り手振りが豊かだが、実はこのシーンはとても悲しい、下は第一幕の三姉妹)

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 ティモフェイ・クリャービン演出。ロシアのレッドトーチ・シアターによる上演。『三人姉妹』とは、こんなにも胸が引き裂かれるような、辛い、悲しい作品であったのか! 私は過去に実演だけで10回以上見ているが、今回がもっとも衝撃的だった。これまで私は、最後の「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ!」には、かすかながらも希望を感じていた。だが、これはむしろ絶望の叫びなのかもしれない。三姉妹は、自分たちの人生にはもう幸福が訪れないこと、このまま老いて死んでゆくこと、を自覚したのだろうか。『三人姉妹』の結幕はそういうことなのか。私は最前列中央席の至近距離で見ていたが、三人とも演じながら泣いていた。役者は、科白がしゃべれなくなるから泣いてはいけないのだが、手話で演じているから、泣いてしまったのだろうか。イリーナは、ひと呼吸のあとのカーテンコールのときにも、目を真っ赤に泣き腫らしていた。『かもめ』のニーナの「わたしはかもめ、いいえ私は女優」も、彼女が女優になれそうもないことは確実だから、これも絶望の科白かもしれない。『ワーニャ伯父さん』の最後、ソーニャの「さあ私たち、生きていきましょう」も、二人は一生結婚できそうもないという予感のもとに言われているのか。だとすれば、チェホフ劇の核心に灯る生命ともいえる、この「さあ生きていきましょう、私たち、生きていかなければ」は、希望がすべて失われた地点で言われているのだろうか。もう消えてしまいそうな灯、何という小さな灯なのだろう! (写真下↓は、第三幕、火事で町の人達が避難してきた部屋。字幕はロシア語か。今は照明がついているが、ほとんどは真っ暗で、各人が自分の寝床でスマホをじっと見ているのがとても印象的、暗闇ではスマホは小さな灯、その下は、自分のスマホといるイリーナ)

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 今回の上演は、科白がすべて手話だったが、太田省吾『水の駅』に科白がまったくなかったのとも違っている。この舞台は生活音などさまざまな音に充ちている。手話で話す人たちは、身振り手振りが激しく、顔もとても表情豊かに話すので、演劇を、科白も含めた身体による感情表現とみなすならば、手話によって得られるものは、科白を失ったぶんを補って余りあるのかもしれない。この上演では、舞台中央の高い所に、大きな液晶画面があり、そこに科白の字幕が出る。ロシア上演では、たぶんロシア語が映るのだろう。この画面は観客との間の通訳として機能する。そして、女中アンフィーサと守衛フェラポントの二人だけは(アンドレイも?)、普通にしゃべれる上に手話も使うので、彼らは家の外の人達との間の通訳ともいえる。そして、これがもっとも重要なことだが、手話で会話する人たちは、何も音を出さないのではなく、うめき声のような音、科白のような意味はないが、しかし何か意味のありそうな、何かを言いたげな音=声を出す。特にイリーナは、これが一番激しい。そして、他の人も重要な発言になると、手話の身振り手振りに加えて、それに伴って出される音=声が大きくなる。こうしたことは、感情を表現するうえで極めて効果的だ。それから、原作でも、登場人物は、ハミングを口ずさむという仕方で音楽がけっこう登場するが、この舞台では、イリーナがロック風の音楽が大好きで、TVを見てうっとりしている。視覚もまた聴覚を補うのだ。(写真下↓は、音楽する人々、スマホを見ているが、アンドレイはVlも弾く)

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 手話で演じることは、観客にとっては、言葉としての科白と身体表現とが分離されることを意味する。文楽がそうであり、また宮城聡がクナウカで試みているように、演劇の可能性を広げるものだろう。この上演では、字幕が活躍していることも重要だ。たとえば、「さあ、生きていきましょう」に次いで二番目に重要だと私が思う科白は、しっかり字幕で示される。婚約者トゥーゼンバフから「君は僕を愛していないね」と尋ねられたイリーナは、こう答える。「それは私にはどうにもならないわ。私はあなたの妻になります。忠実で従順な妻に。でも愛は無理、どうしようもないの。(泣く)生まれてから一度も私、人を愛したことがない!」。この科白は、やはりこの通りに言われなければならず、表音ではなく表意文字である手話で完全に表現するのはかなり難しいのではないだろうか。あと、この舞台では、イリーナが活発な少女に造形されており、彼女はマーシャに似ている。原作そして私が見たすべての舞台では、イリーナは、将軍家の末娘でおとなしい受動的なお嬢様だったが、この上演では違う。それは、手話だから可能になったのだと思われる。手話プラス字幕というのは、演劇に新しい可能性を開く表現形式になるだろう。スマホで短いメールをやり取りするのもいい。たとえば、不倫関係にあるマーシャとヴェルシーニンは、原作では、「トラム・タム・タム」「トラ・タ・タ」と『エフゲニー・オネーギン』(?)のハミングを、愛の暗号として交し合うが(他者には分らない)、この舞台ではそれをスマホのメールで遣り取りする。表音に近い言葉は、手話ではむずかしく、聴覚障害の人達もたぶん筆談が必要だろう。スマホのメールはそれを瞬時にやってのけるのだ。(写真下↓は、活躍するスマホと自撮り棒)

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2分間の動画が↓。最後の「さあ生きましょう、私たち、生きていかなければ!」のシーンもあります。軍楽隊の行進曲は消されていますが、ステップを踏みながら踊る三姉妹。

https://www.geigeki.jp/ch/ch1/t221.html

今日のうた(101)

[今日のうた] 9月分

(写真は小池純代1955~、やや古風な文体の優雅な言葉遊びの歌を詠む人、歌集に『雅族』1991、『梅園』2002などがある)

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  • あをくさきわれの胸処(むなど)に落ちしものきみが歌きみが口にせぬ悔い

 (今野寿美『花絆』1981、「きみ」は、のちの夫で歌人の三枝昂之、8才年長の「きみ」は短歌の師でもある、「きみ」の歌や、「きみ」が口にせぬ悔いが、作者の心の深い処に届くようになった) 9.1 

  • 灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

 (中城ふみ子『乳房喪失』1954、作者は若くして乳がんで亡くなった人、この歌も、自分の死を予感しているのだろう、絶唱の愛の歌) 9.2

  • さやうなら煙のやうに日のやうに眠りにおちるやうに消えるよ

 (小池純代『雅族』1991、作者1955~は優雅な言葉遊びの歌を作る人、この歌も「やうな」「やうに」が繰り返される、恋の別れのなのか、それとも友人との普通の別れなのか、何の別れなのだろう) 9.3

  • 夕されば床(とこ)の辺(へ)去らぬ黄楊(つげ)枕何(いつ)しか汝(な)れが主(ぬし)待ちかたき

 (よみ人しらず『万葉集』巻12、「夕方になるといつも私の床にいて離れないすてきな黄楊枕さん! 私と同じようにあなたも待っているのよね、なのに、貴兄はどうして来てくれないの!」) 9.4

  • 秋の野になまめき立てる女郎花(をみなへし)あなかしがまし花も一時

 (僧正遍昭古今集』巻19、「秋の野にしゃなりと立つ女郎花みたいに、彼女はすごく色っぽいな、でもねぇ、私って美しいでしょと、いくら誇っても、花の盛りは短いんだよね」、「なまめき立てる」とか「あなかしがまし」とか、ずいぶんきつい言い方) 9.5

  • 睦言(むつごと)もまだ尽きなくに明けにけりいづらは秋の長してふ夜は

 (凡河内躬恒古今集』巻19、「君と共寝して、いろいろ楽しくおしゃべりしているうちに、もう夜が明けちゃったね、<秋の長い夜>はどこへいっちゃったんだろう」、そんなに話すことがあるのか、会話の名手躬恒?) 9.6

  • 入る方(かた)はさやかなりける月影をうはの空にも待ちし宵かな

 (紫式部『新古今』巻14、「その日の月が沈む場所が明確なように、今晩貴方がどの女の所に行ったかはもちろん知ってるわよ、ああそれなのに、貴方が来るんじゃないかと宵のうちから心待ちにしていたのよね、私は」) 9.7

  • 魔がさして糸瓜(へちま)となりぬどうもどうも

 (正木ゆう子1999、「何か出来心でちょっと悪いことをしちゃった、そしたら自分がヘチマになっちゃった、照れくさいので、まわりのヘチマたちに、<どうもどうも>と挨拶する」?、よく分からないが面白い句) 9.8

  • 颱風に吹きもまれつつ橡(とち)は橡

 (富安風生、「トチノキは樹高の高い大木である、そのトチノキが激しく台風に「吹きもまれ」ている、しかし、もがき苦しむように枝がうねっても、しっかり立っている」、台風15号は今、中心が千葉市の北あたりか、埼玉の我が家も風雨が強い) 9.9

  • 語りつゝ立てる親子や野分跡

 (吉澤無外、作者は富山県の旧制魚津中学教諭だった人、この句は、久しぶりに大きな台風が来て去った翌日だろう、台風の爪痕を見ながら、親から子に「語ること」がたくさんある、災害は次世代に語り継ぐべき過去の重要な記憶) 9.10

  • 月光をふめばとほくに土こたふ

  (高屋窓秋『白い夏野』1936、「月あかりが地面一杯に広がっている、ちょっと足を踏み出したら、足元ではなく<遠くの>土が応えたような気がする」、月光がコミュニケーションの媒体になっているのか) 9.11

  • 日に吼(ほ)ゆる鮮烈の口あけて虎

 (富澤赤黄男『天の狼』1941、『天の狼』冒頭には、虎、豹、黒豹などが出てくる、動物園で見たのかもしれないが、中国戦線に動員されて戦争句をたくさん詠んだ作者だから、何か象徴的な意味があるのかもしれない) 9.12

  • おらは此のしつぽのとれた蜥蜴(とかげ)づら

 (渡辺白泉『白泉句集』、昭和43年頃の句、翌年作者は脳溢血で亡くなる56才、晩年の句には強い苦しみを感じさせるものが多い、植村は今日から少しだけ山に籠ります) 9.13

  • 息を呑むほど夕焼けでその日から誰も電話に出なくなりたり

 (石川美南『離れ島』2011、作者1980~はある離れ島に来て、素晴らしい夕焼けを見たのだろう、その日から自分はまったく別人になったような気がする、家族や友人ともまったく話が通じなくなってしまった、というのか) 9.16

  • 膨大な記憶を転写されている夕焼けのわれにピアノのしずく

 (井辻朱美クラウド』2014、作者1955~は歌誌「かばん」主宰、夕焼けを見詰めている作者の脳の中では、RNAが「膨大な」情報を「転写」しているのだろうか、記憶がどっと甦ってくる、その中にピアノの音が「しずく」のように混じっている) 9.17

 (梅内美華子『エクウス』2011、競馬で「ウオッカ」という名の美しい体をした牝馬が快走した、作者は「ウオッカ」に自分の姿を見ているのだろうか、夜、自分の体を撫でながら、また「ウオッカ」を想いだす) 9.18

  • 近づいてまた遠ざかるヘッドライトそのたびごとに顔面すてる

 (江戸雪『駒鳥(ロビン)』2009、郊外の真っ暗な夜道を車で走っている、対向車のヘッドライトが当たるたびに、顔が照らし出される、でもまた完全に闇に消えてしまう、「そのたびごとに顔面をすてる」かのように) 9.19

  • 遠き太鼓の音聴くやうに人と居て人の話をまつたく聞かず

 (大口玲子『東北』2002、「すぐ眼の前にいる人の話を聞いているのだが、まるで「遠い太鼓の音を聴いている」ような感じで、話の内容はまったく私の心に届かない、私の心はまったく別なことに占められているから」) 9.20

  • 京筑紫去年(こぞ)の月問ふ僧仲間

 (内藤丈草『猿蓑』、京都のある僧と、その仲間で筑紫から帰ってきた僧とが、一緒に京都で月見をしている、互いに分かれて別々に見た「昨年の」月について尋ね合いながら、今年は一緒に月見できることをよろこぶ) 9.21

  • 舟炙(あぶ)るとま屋の秋の夕(ゆうべ)かな

 (服部嵐雪『虚栗』、「苫ぶきの小さな小屋のある海辺で、漁師が船の底板を炙っている、立ちのぼっている白い煙がわびしい」、船底に付着した藻や貝殻をこそぎ落したあと「火であぶる」作業、定家の歌のもじりだが、こちらは生活の匂いが) 9.22

  • 物の音ひとりたふるゝ案山子かな

 (野沢凡兆『猿蓑』、「田を歩いていると、どこかでバサッというもの音がした、驚いてそちらを見ると、風もないのに案山子が倒れたのだ、寂しい田だな」、「ひとりたふるゝ」がシャープな把握) 9.23

  • 別れては昨日今日こそ隔てつれ千代しも経ぬる心地こそすれ

 (謙徳公『新古今』巻14、「貴女と喧嘩して、もう二度と会わないと誓って別れてから今日で二日目、でもこの二日は千年にも感じられて、寂しくてたまらない、あの誓いを取り消すから、僕とまた会ってよ」、女の返しは明日) 9.24

  • 昨日とも今日とも知らず今はとて別れしほどの心まどひに

 (恵子女王『新古今』巻14、「私だって、喧嘩したのが昨日だったか今日だったか思い出せないの、貴方とはもうこれで終りかと思うと悲しくて悲しくて心が乱れてしまったからよ、でも、仲直りしましょう、早くいらしてね」、昨日の歌の返し) 9.25

  • うたゝ寝にはかなく覚めし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ

 (相模『千載集』巻15、「私がうたた寝している最中の夢に、貴方が現れた、と思ったら、しかし、いつもはかなく覚めてしまう、でもそんなはかない夢でさえ最近は見ないわ、貴方とはもう夢でさえ会えないのね」) 9.26

  • 秋の蝶小さき門に就職する

 (宮崎重作『昭和俳句選集』1977、この句は1951年の作だという、秋の蝶は、低く、フラフラと弱々しく飛んでいることが多い、その蝶が「小さき門」に留まった、たぶん実景だろうが、作者はやっと小さな会社に就職できたのだろうか) 9.27

  • 鰯雲故郷の竈火(かまどび)いま燃ゆらん

 (金子兜太『少年』、1941年頃の作、作者は東大経済学部に入学して東京にいるのだろう、ある秋の日、明るい空に広がる鰯雲が、作者には、故郷の秩父の実家にある暗い竈で燃えている炎のように見えた) 9.28

  • 灯火親し英語話せる火星人

 (小川軽舟『俳句研究』2004年10月号、「灯火親しむ」は秋の季語、家族と一緒に居間でTVを見ているのだろうか、英米で作られたSF映画なのか、出てきた火星人が当然のように英語をしゃべっている、そこに違和感を感じる作者) 9.29

  • 秋雨の瓦斯(ガス)が飛びつく燐寸(マッチ)かな

 (中村汀女、昔の台所では、一台一台別に置かれた小さな黒いガスコンロが使われていた、マッチを擦ってから、コンロの栓を開くと、コンロの穴から噴出したガスがマッチに「飛びつく」ように炎となる) 9.30