[美術展] ホキ美術館「森本草介展」ほか

[美術展] ホキ美術館「森本草介展」ほか 千葉市 10月23日

(写真↓は、森本草介の「光の方へ」と「休日」、彼の描く女性は気品があって美しい)

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写実の絵のみを展示するホキ美術館へ行った。森本草介の代表作が展示されているほか、「第3回ホキ美術館大賞展」として、40歳以下の新人の作品21点が展示。私は下の三点↓が印象に残った。一番上は、2000年生まれの中西優多朗「次の音」。この少年の「少年らしさ」がすばらしい。子供の可愛らしさからすっと抜けだして「少年になる」とは、こういうことなのだろう。その下の二枚は女性画家によるもので、まず、1990年生まれの松永瑠利子「寝室」。普通は、森本草介に典型的なように、女性の肌はとても滑らかで光をやわらかに受けている感じに描かれることが多いが、この女性はまったく違う。まず毛深い! 全身脱毛美容など無縁。肌は黒っぽく、ざらざら、ごつごつした感じで、いわゆる「荒れた肌」。にもかかわらず、全体としての彼女は、野性的で、精悍で、美しい。一番下は、1986年生まれの本木ひかり「光をおとす」。美しく洗練された肉体というよりは「素としての」肉体の存在感そのものが魅力になっている。この二人の絵は、女性の肉体に何を見るのかという点で、森本とは大きく違っている。

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あと、新人ではないが、諏訪敦「しろたえ」↓が印象深かった。顔に傷があるように見えるのだが、何なのか分からない。まだ絵が完成せずに、描いている途中のようにも見える。作者の解説によると、画家自身が自分の「盲点を解除する」営みを描いたという。つまり、どんなものを見ても、人はすべてが完全に見えているわけではなく、見ているつもりでも、実は見えていない「盲点」がたくさんある。それを一つ一つ解除しながら、画家は絵を完成させてゆくのだという。とすれば、われわれが眼前に女性を見る場合でも、「盲点」がたくさんあるはずだ。なるほど、絵というものは面白い。

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[演劇] プルカレーテ演出・野田版『真夏の夜の夢』

[演劇] プルカレーテ演出・野田版『真夏の夜の夢』 東京芸術劇場 10月21日

(写真↓は、今回の舞台と、その下は1992年初演の野田演出の舞台)

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シェイクスピアの原作を野田秀樹が改作し、それをルーマニアのプルカレーテが演出。野田版は、『夏夢』の物語をかなり変え、(1)場を日本にして、アテナイ公爵シーシアスとヒポリタとの結婚話をカットしたので、「結婚を寿ぐ」という全体の主旨がやや薄くなった、(2)代りに「恋とは魔法にかかること」という主題が前景化された、(3)妖精パックの他にメフィストという魔術師を造形し、魔法を活躍させた、(4)ヘレナの孤独を強調した。

 演出のプルカレーテはこれまで『ルル』と『オイディプス』を見たことがあるが、人間のグロテスクな肉体を強調し、しかしそこから高貴な美が一瞬立ち昇る素晴らしさがある。そして魔術師の活躍も野田版と親和的だ。今回の舞台は、CG映像が、妖精の国や魔法を現代アート的に表現する。(写真↓は、パックとメフィスト、下は、妖精の女王ティタニアがボトムを可愛がるところ、ボトムはロバではなく腹に顔が移った怪物的な人物)

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全体として、四人の若者たち(ハーミアとライサンダー、ヘレナとディミトリアス)の恋のもつれに焦点が当てられている。四人を老舗の割烹料理店の跡取り娘や板前などにして、店に出入りする業者たちを原作の劇中劇の職人たちに相当させて、うまく物語をまとめた。ヘレナ(鈴木杏)とハーミア(北乃きい)がとても可愛く、背の高低の問題や(ヘレナがのっぽで、ハーミアはちび)、二人の科白などは、原作に割と忠実に従っている。また、ヘレナの孤独を強調する際に、(原作にはない)男たちの同性愛的な関係が仄めかされるなど、ジェンダー的にも話が面白くなっている。(写真↓は、ヘレナ、下がハーミア、その下がディミトリアスライサンダー)

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『夏夢』の妖精の国をいわば強化して、魔法を活躍させたのは、野田の改作の成功といえる。美しい若者たちや妖精が舞台を楽しそうに走り回るのも、いかにも野田演劇的で、そもそも『夏夢』そのものが野田的な作品なのかもしれない。(写真↓は、職人たちの劇中劇)

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[演劇] シェイクスピア『リチャード二世』

[演劇] シェイクスピア『リチャード二世』 新国 10月14日

(写真↓は、左からボリングブルック(=ヘンリー四世)浦井健治、リチャード二世(岡本健一)、その妃イサベラ(中嶋朋子)、その下は舞台、リチャード二世は左端後ろに隠れている)

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鵜山仁演出の史劇シリーズが、これで完結。12年前の『ヘンリー六世』三部作は、ヘンリー六世が草食系男子に造形されており、それがとても面白かったのだが、本作でもリチャード二世とヘンリー四世がそれぞれ繊細に人物造形されている。鵜山演出は実に適切にそこに焦点を当てている。『ヘンリー五世』も、思索的でメランコリックな側面と、竹を割ったような体育会系男子的な側面との、両面がある非常に魅力的な王だった。人物の個性という点からみると、リチャード二世は、非常に興味深い人物だ。史実的には、詩人チョーサーを重用した文化人(ヘタレ人文系インテリ)であり、また側近を重用・寵愛したことで非難された(10歳で即位だから仕方がないとも思うのだが)。本作でのリチャード二世は、性格が弱く、感情が不安定で、臆病なのに強がってみせ、臆病と高慢がつねに交錯して、人格が安定しない。要するに、統治者としての資質を欠いた「ダメな王様」なのだが、自分のどこがダメであるのかをよく自覚しており、それを実に適切に言語化する自己省察が素晴らしい。その自己省察が、きわめて美しい詩的な言葉で語られ、ホメロスオデュッセイア』の語りのように、詩人の言葉で自分を語るリチャードは、おそらく自身が詩人なのだろう。史実はともかく、シェイクスピアの人物造形の核心はそこ、つまり「ボクはホントだめな王さまなんだ」と歌うリチャードの魅力にある。たとえば第5幕第5場、牢獄に一人いるリチャードの独白は素晴らしい。「まず、俺の魂を父親とし、おれの頭脳をその妻とする。この二つから、たえまなく思想という子孫が生れては育っていく。その思想がこの小世界の住民となるわけだ。彼らは外なる世界の住民と同じように気まぐれだ。・・・こうして俺は、一人で大勢の人間を演じても、どの役にも満足できない。・・・いや誰でも、ただの人間である限りは、なにものにも満足しないのだ。おのれ自身がなにものでもなくなって安心するまでは。・・・アッ、音楽だな? フム、調子が狂っておるぞ。・・・音楽が狂人を正気に戻した例もあるというが、俺には正気のものを気ちがいにするとしか思えぬ」(小田島訳) 。この自己省察の素晴らしさは、ほとんどハムレットに匹敵する。そして、そのような自己省察的な詩人であることが、リチャードを統治者として不適格にしているのだ。(写真↓は、側近や王妃たち、リチャードはいつも彼らの中で「浮いている」感じだ、その下はボリングブルック、彼はいつも遠慮がちに後方にいる)

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『リチャード二世』は科白の細部がとても面白い。たとえば、庭師が「俺たちの民主国家であんまり偉そうにのざばってやがるな」と、こっそりリチャード二世を非難する(第三幕第4場)。おそらくこの科白は、シェイクスピアの同時代を意識しているのだろうが、議会と王との対立があるから庶民が「俺たちの民主国家」などと言う(でも本当に庶民が言うかな?)。もっとも興味深かったのは、冒頭ではボリングブルックに対して「お前thou」と呼んだリチャードが、第三幕第3場のボリングブルックに降伏するシーンでは「あんたyou」と呼んでいる。「あんた」は変だなと感じたので帰って調べたら、坪内逍遥がここを「あんた」と訳しているので、小田島訳はそれを踏襲した。なぜ「あなた」ではなく「あんた」なのか? 王だったのに突然実質的に臣下の立場になって、気が動転し、言葉が乱れたのだろうか。そうだとすると、坪内訳は凄い! 『リチャード二世』は、リチャード退位の場面が、エリザベス女王死後に戯曲に加えられたことから分かるように、きわめてデリケートな政治的含意をもつ作品である。もう晩年となり、寵臣の重用を「リチャード二世みたい」と批判されていたエリザベス女王は、このシェイクスピア『リチャード二世』を実際に見て、「私はリチャード二世ね」と公文書記録係の役人に言ったという史実がある。おそらく、シェイクスピアは、当時批判されていたリチャード二世を肯定的に造形することによって、エリザベス女王を傷つけないように配慮したのではないだろうか。ボリングブルック(ヘンリー四世)を、暴力的にリチャードから王位を奪った反逆者としてではなく、低姿勢を装うことで巧みに棚からボタ餅を得るように王冠が転がり込んできたように描いている。これもまたヘンリー四世を肯定的に描くことによって、ランカスター王朝からチューダー王朝への移行を連続的に捉え、チューダー朝正当史観と齟齬をきたさないように慎重に配慮しているとも解釈できる。この舞台では、リチャードとボリングブルックの人物造形が、鵜山演出と、演じた岡本健一浦井健治によって、見事になされたことを讃えたい。(写真↓は、ヨーク公爵夫人を演じた那須佐代子、彼女を滑稽キャラにして、ヨーク一家の家族喧嘩を面白おかしくしたのはとてもよかった)

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 42秒の動画が。

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[オペラ] ブリテン『夏の夜の夢』

[オペラ] ブリテン『夏の夜の夢』 新国 10月4日

(写真↓上は、二組の恋人たち、下は、ロバになったボトムと妖精の女王、そして妖精を演じるボーイソプラノたち、マクヴィカー演出はいつも空間構成が斬新、「夜」がとても幻想的に表現されている)

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『夏夢』は、古くはパーセルのオペラ化があり、メンデルスゾーンの劇音楽、それを使ったバランシンのバレー化など、どれも良かったが、1960年作の本作も素晴らしいオペラだ。何よりも音楽がいい。12音技法に基づきながら、調性的に聞こえる美しい旋律に溢れている。特に第三幕は演劇と音楽がうまく融合して、稀有の舞台になっている。ボトムたちのドタバタ喜劇で、男たちの不満には前衛音楽的不協音が伴い、女装した男の花嫁が愛を囁くときは美しい調性的旋律が寄り添う。少人数オケなので、響きの厚みはないが、楽器ごとの澄んだ音がくっきり分離して、チェレスタやハープなどの「楽器音」が美しい。アドルノは『新音楽の哲学』で、12音技法以後の現代音楽は、旋律の形式性よりも音の素材性の魅力に多くを負っていると言ったが、それは本作にも当てはまる。妖精の王をカウンター・テナーにしたのが、とてもいい。王とはいえ、妖精だからマッチョではないのだ。妖精たちをボーイソプラノにしたので、重唱や合唱には澄んで透明な美しさがある。そして、パックは科白だけで、コンテンポラリーダンスのようなアクロバティックな身体表現をするのが、際立った対照性を生み出している。この人(河野鉄平)、ダンサーかと思ったら、オペラ歌手なのだ。(写真下は、劇中劇の花嫁と新郎、その下は左から、端がパック、妖精の王、女王、彼女の寵愛する少年)

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『夏夢』は構成がかなり複雑で、街と森とが対照世界をなし、ドタバタ喜劇の劇中劇が両者を媒介する。最初、二人の恋人ハーミアとライサンダーの結婚を頑固な父親が許さず、二人は森に駆け落ちすることになるが、その最初の場面がないので、ちょっと心配したが、第三幕でアテナイ公爵の結婚と合わせて回想的に説明されるので、初めて見る人も分ったと思う。『夏夢』は、結婚を寿ぐのが主題だが、それぞれの立場をもつ街の人の結婚のそれなりの難しさと、妖精の王夫妻の夫婦関係の難しさなど、それぞれ結婚という試練の滑稽さが同時並行的に描かれ、最後にそれが一挙に解決し、めでたしめでたしとなる。これは、オペラ化に実に適した素材と言える。今回の舞台は、どの夫婦も、恋人たちも、生き生きとしており、それがとてもよかった。(写真下は、ディミートリアスとヘレナ)

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6分間の映像がありました。

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今日のうた (113)

[今日のうた] 9月ぶん

(写真は、野見山朱鳥1917~70、虚子に師事し「ホトトギス」同人となる、絵の才能もある人だったが、胸を病み病床詠も多い)

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  • はいよ、って渡せば何も言われずに持ち去られた思い出が作られる

 (平出奔『短歌研究』2020年9月号、第63回短歌研究新人賞・受賞、作者1996~が、ある町の小学校の校庭脇を通ったら、ボールが飛び出してきた、拾って渡したが、小学生はそれを奪うように無言で受け取り、そのまま走り去って行った) 9.2

 

  • 煙ではない? ビルをまわって近づけばおもってたより空の遠くに

 (公木正『短歌研究』2020年9月号、第63回短歌研究新人賞・次席、作者1974~は日常生活の細部を、ざっくりした口調の口語短歌で詠む人、高層ビルが林立する都市では、遠近感がうまく働かないことがある) 9.3

 

  • 足元に蟻が来てます新任の教師はとにかくあまいのだろう

 (鳥本純平『短歌研究』2020年9月号、第63回短歌研究新人賞・候補作、作者1989~は高校教員、同僚の新任教員なのか、新任の先生はまだ自信がないので生徒に「あまい」人が多いのだろう、たまたま「足元に蟻が来てます」) 9.4

 

  • 巻き雲が尾をひき並び夕焼けぬ

 (橋本多佳子1935、作者の初期の作品、雲の形を通じて夕焼けの美しさを詠んでいる、「尾をひき並び」がいい、そういえば巻き雲の「尾」ってどのくらい長いのか、どんな感じに「並ぶ」のかなと、思わず想像してしまう) 9.5

 

  • 汽車とまり大いなる虫の闇とまる

 (加藤楸邨穂高』1935、田畑の中にぽつんとあるホームだけの小さな駅だろうか、夜になっても人家の明りはほとんどない、真っ暗な闇に虫の声だけが拡がるが、しかし汽車が音を立てて停車したので、一瞬、虫の声がやんだ) 9.6

 

  • 秋果盛る灯にさだまりて遺影はや

 (飯田龍太『百戸の谿』、「昭和二十二年九月、長兄がレイテ島で戦死の公報あり」と前書、戦死だろうとは思っていたが正式の通知が届いた、さっそく遺影が「灯にさだまりて」見えるのが悲しい) 9.7

 

  • ばう然と野分の中を我來たり

 (高濱虚子1896、帰宅するにせよどこかに行くにせよ、台風の中を歩くとき、人は「ばう然と」なるのだろうか、「我」と自分について言っているのが卓越) 9.8

 

  • 四肢衰へて見る白桃は夢のごとし

 (森澄雄1948、作者は結婚してすぐ上京し社会科教師になるも、腎臓を病み入院する、人生で健康が最悪の時期、ほとんど動けずに病室のベッドに横たわっていると、「白桃」が供された、「夢みたいだ」と感じる) 9.9

 

 (佐巻理奈子「水底の背」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞候補、子どもの頃いじめられっ子だった作者は、人をみると「この人はいじめられたことある?/ない?」がまず気になる、友人と映画を見てもそう) 9.10

 

  • 眠れない夜の開脚ストレッチ わたしを象形文字にほどいて

 (椛沢知世「切り株の上」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞次席、眠れない夜に「開脚ストレッチ」をするのは、眠れるようにするためだろうか、「わたしを象形文字にほどいて」自分の本来の姿になるのか) 9.11

 

  • くりかえす嘆きの儀式両の手の泡にしずかに顔をうずめて

 (高山由樹子「灯台を遠く離れて」、『歌壇』2019年2月号、作者1979~は第30回歌壇賞受賞、毎日顔を洗うことは、作者にとって「嘆きの儀式」なのだ、怒りや悲しみを吐き出す儀式が必要なように、嘆きを吐き出す儀式も必要なのか) 9.12

 

 (島田修三『短歌研究』2020年9月号、歌人の窪田空穂1877~1967は人生でスペイン風邪に三度罹患したが死ななかったという、「全歌集」を見て知った驚き、「全歌集」からはそういうことも分るのだ、コロナ禍ゆえの歌) 9.13

 

  • 鉄路よりしづけきものなし虫がなき

 (山口誓子1940、真夜中すぎだろう、汽車が通るとき轟音を立てる「鉄路」も、汽車が通らないときはしんと静まり返っている、その静けさが虫の声を暗闇一杯に広げる) 9.14

 

  • 何よりも自粛自粛や扇風機

 (神郡一成「東京新聞俳壇」9月13日、石田郷子選、エアコンでは部屋の換気が行われないので、長らく使っていなかった扇風機を持ちだし、窓を開けて扇風機を回すのか、たしかにこれも「自粛自粛」だ) 9.15

 

  • 誘ふ声応ふる声や虫の闇

 (井芹眞一郎「朝日俳壇」9月13日、稲畑汀子選、「静けさが支配する中で、誘う声や応える声が聞こえてくる。厳かな雰囲気が描けた」と、選者評) 9.16

 

  • お化け屋敷のお化けたちにもある悩みお客とのソーシャルディスタンス

 (「朝日歌壇」9月13日、永田和宏選、「お化けたちもそれなりに気を遣っているんだ」と選者評、でもね、無音でそっと近づいて、至近にスッと現れるのが一番怖いのにね」) 9.17

 

  • 君の持つ星の形を知りたくて目蓋の上より触れる眼球

 (中原佳「東京新聞歌壇」9月13日、東直子選、素敵な恋の歌、作者は女子だろうか、恋人の瞳はキラキラと「星」のようだ、もとの「形を知りたい」と、まぶたの上から「触れて」みる、「繊細な場所だけに、主体と共にドキドキする」と選者評) 9.18

 

  • やるせなき胸の愁を何とせんタンゴに込めて君と踊らん

 (九鬼周造「巴里心景」1926、パリ留学中の哲学者は、女優や踊り子とたくさんの恋をした、この歌は匿名で『明星』に発表したもの、「君」と軽やかにタンゴを踊る、「胸の愁い」を込めながら踊る) 9.19

 

  • 人もがな見せも聞かせも萩の花咲くゆふかげのひぐらしのこゑ

 (和泉式部、「誰か人がいないかなぁ、見せたいなぁ、聞かせたいなぁ、夕陽にこんなに美しく咲いている萩の花を、こんなに響いているひぐらしの声を、でも誰もいないなぁ」)  9.20

 

  • 叩きつる水鶏(くひな)の音も更(ふけ)にけり月のみ閉づる苔の戸ぼそに

 (式子内親王、「あんなに叩くように鳴いていた水鶏もすっかり静かになったのね、この苔むすわび住まいは戸も閉めていないので、月の光が戸の代りのように射し込んでいる」、誰も人が来ない寂しさを詠む) 9.24

 

  • 言はざりきいま来むまでの空の雲月日へだてて物思へとは

 (藤原良経『新古今』巻14、「貴方は私に「すぐ行くからね」と言ったわよね、「空の雲が月や日を隠すように、月日を隔てて長い間物思いしろ」とは言わなかった、ひどいじゃない!」、訪れない男を恨む女の気持ちになって詠んだ) 9.25

 

  • 心こそうたて憎けれ染めざらばうつろふことも惜しからましや

(よみ人しらず『古今集』巻15、「人の心というのは、まったく憎らしいものですね、もし僕の心が貴女だけに染められていなければ、そもそもそんなこともなかったのに、染められた色があせてゆくのはとても耐えられません」)9.26

 

  • 我が背子に直(ただ)に逢はばこそ名は立ため言(こと)の通ひに何かそこゆゑ 

(よみ人しらず『万葉集』巻11、「貴方に直接逢ってるのを人に見られたならばともかく、こうやってラブレターを交換してるだけなのに、なんでもう人の噂になるのかしら、恥ずかしいわ」、手紙を届ける女中がしゃべったか) 9.27

 

  • 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)散るや赤きに耐へかねて

 (野見山朱鳥、曼珠沙華は別名がたくさんあり、彼岸花だけでなく、死人花、幽霊花、地獄花など、なんだかイメージが悪い、あの真っ赤な針で出来ているような形が不吉なのか、この句も「赤きに耐へかねて」が秀逸) 9.28

 

  • さあ来いと大口あけて石榴(ざくろ)かな

 (一茶、石榴は贅沢品だったのか、一茶は貧乏でめったに食べる機会がなかったのだろう、いや、珍しく食べられる機会があって、「さあ来いと大口あけて」待つ、なんだか悲しい) 9.29

 

  • 栗飯のまつたき栗にめぐりあふ

 (日野草城、栗ご飯の季節だ、食べる時には、ご飯の中の栗をつい見てしまう。立派な「まつたき栗にめぐりあふ」嬉しさ) 9.30