[演劇] 長田育恵『ゲルニカ』

[演劇] 長田育恵『ゲルニカ』 パルコ劇場 9月8日

(写真上は↓、スペイン内戦を取材に来たジャーナリストのクリフ(中央)とレイチェル(右)、下は、ゲルニカ市旧領主の娘で主人公サラ(中央))

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長田育恵は、あまりにも素晴らしかった『海越えの花たち』(2018)に次いで、観るのはこれが二作目。二作ともよく似ている。どちらも、戦争で二重三重に引き裂かれ、憎しみと敵対の中に置かれた家族や恋人たちが、憎しみと復讐を再生産せずに、和解と愛を再生しようと、もがき苦しむ姿を、深い共感をもって描いている。この主題は、演劇という芸術が表現すべき本来的な主題であり(『アンティゴネ』や『リア王』がそうであるように)、このような作品を書く長田のような劇作家がいることは嬉しい(とはいえ筋立ては難解だが、演出の栗山民也との共作なのか)。今回の『ゲルニカ』も力作だが、私の感想を言えば、あまりにも悲しい結末なので、僅かでもよいから「希望」を見せてほしかった。ただし、私の注意力が足りないためか(座席も最後列二番目で声も聴き取りにくい、特にレイチェル)、終幕の直前、レイチェルが何をしたのか分らず、一番大事なシーンがよく分らなかった。(写真下は、ジプシー出身の女中ルイサを鞭打つサラの母マリア、だが実は、子供の出来なかったマリアに代わって領主の子を生んだのは女中のルイサであるが、サラは本当の母親がルイサであることを知らない、ルイサはこの後、「難民」にいたぶられて殺される、その下はサラ(上白石萌歌)、彼女はわずか9か月の間に深窓の令嬢であった少女から、愛の主体としての一人の女性に成長する。ジュリエットのように)

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ゲルニカ』は、1937年4月26日のドイツ軍によるゲルニカ空爆までの9ヵ月間を、ゲルニカ市の旧領主の娘サラの生活を中心に描いたもので、そこに国際ジャーナリストのクリフとレイチェルの二人がスペイン内戦を取材する過程が副筋のようにからまっている。まず『ゲルニカ』は人々が引き裂かれる対立の構図が半端ではない。1936年のスペイン人民戦線内閣の誕生(1931に王政が倒れて共和国に)とフランコによる軍のクーデターと内戦、中世以来一貫して平和に統治されてきたバスクとスペインとの対立、スペイン大司教ゴマはフランコの反乱軍を直ちに支持し、スペインカトリック教会が急速に反動化したこと、そして連合国と枢軸国の対立、つまりナチスドイツがフランコ軍を応援したのに対して、共和国軍には連合国側の支援がないこと(共和国軍に参加したのはマルロー、ヴェイユオーウェルなど文化人で、またピカソはスペインに戻り「ゲルニカ」を描いた)。さらに、旧領主だったサラの一家と使用人たちとの階級対立、また何より重要なのは、内戦によって周囲からバスク流入した難民とバスク古来の住民との対立(まさに現代的)。そして、これだけの多重の対立に引き裂かれていく人々が、非常に丁寧に人物造形されている。特に、バチカンからバスクに派遣された神父パストールや、数学者志望の学生でドイツ側のスパイになるイグナシオ(サラは彼の子を妊娠する)、そして内戦で苦しむ人への同情など微塵ももたずジャーナリストとして手柄を立てることしか考えない特派員クリフ。人々の分裂が多重で深いぶんだけ、皆がそれぞれ個性的での自分の顔をもっている。(写真下は、国際特派員クリフとレイチェル、彼らも内戦の取材体験を通じて自己変容を遂げ、それは本作の重要な要素なのだが、私は理解が追い付かなかった)

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クリフは実在のモデルがあり、『ザ・タイムズ』紙の特派員のジョージ・スティア(彼は少し後に、アジアのビルマ戦線取材で事故死)。スティアは、ゲルニカ爆撃が軍事目標ではなく市民の無差別虐殺であるというレポートを送り、ゲルニカが世界に知られるきっかけを作った。それはピカソゲルニカ制作にも繋がる重要な報告であり、スペイン内戦は、写真家キャパでも知られるように、世界中のジャーナリストが取材に集まり、戦争報道の戦場でもあった。この劇では、自分の功名心しかなかったクリフが、最後にゲルニカ爆撃を正確に伝えた。そしてレイチェルも新しい行動をした(仕事を捨てて母性を選んだ?)。これが、劇『ゲルニカ』に僅かに見られる「希望」と「救い」なのであろう。だが、爆撃の前日、ドイツのスパイとなったイグナシオから「ここから逃げろ!」と何度も言われたサラは、なぜ逃げずに爆撃で死んでしまったのだろう。最後、レイチェルがサラの子を抱いたように見えたが、サラがイグナシオを知ったのは10月1日、ゲルニカ爆撃が4月26日で、出産は日程的に無理では?(早産の場面あるいは説明あった?) サラの死に納得できなかった私は、8階のパルコ劇場から屋外階段(コロナ対策)を地上まで降りながら、『ワルキューレ』ではブリュンヒルデが父の命令にそむいてまで、妊娠したジークリンデを救ったのに・・、等と考えていた。でもそれは奇蹟であり、やはりサラは死ななければならなかったのか。(写真下は、共和国側についたサラの婚約者で、お坊ちゃまのテオ、彼はフランコ軍に加わるが、銃に不慣れでうまく撃てなかったために、出合いがしらに瞬時の差でイグナシオに殺された。二人ともバスクの若者で、内戦さえなければこんなことには・)。

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46秒の動画が↓。

www.youtube.com

 

[オペラ] ヘンデル 《アグリッピーナ》

[オペラ] ヘンデルアグリッピーナ》 METライブ 東劇 9月2日

(写真↓は舞台、演出のマクヴィカーは斬新な空間造形をする、下はアグリッピーナと夫のローマ皇帝クラウディオ)

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METで2月29日上演の映像。1709年、ヘンデル24歳の作品。それにしても、オペラにかくも完璧な喜劇作品があるとは驚いた。音楽ももちろんだが、台本が素晴らしい。古代ローマから現代にタイムスリップしても、少しも違和感がない。権力の頂点をめぐって色仕掛けの陰謀や駆け引き、ハニートラップが横行するのは、現代でも同じだからだ。ローマ皇帝ネロの母アグリッピナは、夫の皇帝クラウディウスを殺し、連れ子の息子ネロを帝位に付けるが、やがてネロに殺される。世界史でも指折りの「悪女」とされるが、この史実をもとにこの作品は、母アグリッピーナと息子ネローネを軸に、色仕掛け満載の喜劇にしたところがいい。ネローネをメゾソプラノが演じ、恋のライバルの軍人オットーネもカウンター・テナー、他にもカウンター・テナーが活躍し、要するにどの男も女のようで、宝塚的な倒錯感に溢れている。男も女も、腰を振り振りするセクシーであやしげな身のこなしやダンスをするのが、色っぽくていい。しかも最初から最後まで、ほとんどの登場人物が杯やビンを片手に酒を飲み続けている。アグリッピーナを、男勝りのたくましい母ちゃんに、ネローネを、なよなよとしたひ弱なおぼっちゃまに造形したのが大成功。唯一の男性的な人物(バス)である皇帝クラウディオも、外見はマッチョだが、夫としてはとても弱々しく、「悪妻」アグリッピーナにいいようにあしらわれている。要するに全体が、「男ってこんなに弱いんだ! 女ってこんなに強いんだ!」「男って、いばってるけど、実はこんなに弱いし、すぐ泣く」というシーンを見せつけて笑いを取っている。(写真下は、ネローネ、そしてポッペアとアグリッピーナ)

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ポッペアがネローネの手を自分の乳房や腰に導いてさわらせ、うぶな少年ネローネが、てもなく性的に興奮してしまうシーンは楽しい。同様のシーンは『フィガロの結婚』などでも何回も見たが、最近の演出の流行なのだろうか。まさかヘンデルの原作にそのような指示があるとは思えない。歌に関しても、バロックオペラに特有の、コロラトゥーラ・ソプラノだけでなく、メゾにもアクロバティックに歌わせるのが凄い。アグリッピーナ、ポッペア、ネローネの三人とも、アクロバティックに絶叫調で歌うのだが、とりわけネローネ役のケイト・リンジーが体操をするようにのた打ち回りながら歌うのは圧巻。インタヴューでリンジーは言っていたが、ジムに通い、専門家の指示に従って有酸素呼吸を最大化し、発声のトレーニングを繰り返して、オリンピック選手並みに身体のぎりぎりの限界で歌っているのだ。バロックオペラのアクロバティックな歌いというのは、こういう「聴かせどころ」が売りなことがよく分る。ヘンデルのゆったりと大らかな美しい音楽を基調としながら、そこにリズミカルでセクシーな現代風ダンスが加わっても不調和にならないのがいい。喜劇だから、もつれにもつれた色恋沙汰が最後にあっけなく解決して、めでたしめでたしで終る。途中、あれほどはらはらさせながら、最後はストンと落すのは、やはり台本の勝利だろう。(写真下は、ネローネの恋のライバルの軍人オットーネ、カウンター・テナーで、最初から最後までなよなよとして、男性性がほとんど感じられない、そしてその下は「強い女」アグリッピーナ)

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34秒ですが、全体の感じがよく分る動画が。

https://www.youtube.com/watch?v=sCstgIRFixY

下着姿で歌うポッペア、酒を飲みながらの絶叫。

https://www.youtube.com/watch?v=vNQv5_-4wew

 

今日のうた (112)

[今日のうた] 8月ぶん

(写真は涌田悠1990~、8月30日の歌の作者で、第63回短歌研究新人賞・次席、職業はダンサーで、自分の踊る身体を詠んだ)

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  • 霧はすき人がひかりに見えるから呼吸をするみたいに手をのばす

 (高山由樹子「灯台を遠く離れて」、『歌壇』2019年2月号、作者1979~は第30回歌壇賞受賞、山道で霧に捲かれた、やっと霧の向こうに人の姿が浮かび、「人がひかりに見える」、人に出会った安堵から、「呼吸をするみたいに手をのばす」) 8.1

 

  • すいれんすいれん図鑑をめくり次々とすいれんじゃない花流れゆく

 (戸田響子「境界線の夢をみる」、『歌壇』2019年2月号、作者1981~は第30回歌壇賞候補、植物図鑑で「すいれん」を調べる、でも図鑑をめくってもなかなか「すいれん」に行き当たらず「別の花」ばかり「流れてゆく」)  8.2

 

  • 紫陽花をばちんばちんと断ち切ってこの子は天国、あの子は地獄

 (佐巻理奈子「水底の背」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞候補、他の歌をみると作者は子どもの頃いじめられっ子だったようで、ひりひりする感じの歌が多い、この歌もそう)  8.3

 

  • 好きでいるまだ好きでいるカステラのまぶしいところをちぎって食べる

 (椛沢知世「切り株の上」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞次席、恋の歌だ、彼についての自分の気持ちが分らなくなったのか、自分に言い聞かせながら、カステラの黄色い部分だけちぎって食べる)  8.4

 

  • 一人対四十人と生徒は思うらしもわれは(一人対一人)×四十と思へど

 (大松達知「八百屋舞台」、『歌壇』2019年2月号、作者1970~は歌誌「コスモス」選者、東京の私立高校で英語を教える、教室で気合の入った授業をしているのがよく分かる)  8.5

 

 (橋本多佳子1935、「南風(はえ)と練習船」と前書、「練習船」は大きな帆船である海洋練習船のこと[たぶん1930年進水の日本丸だろう↓]、「練習船の大きな帆が一斉に膨らんで、白く輝いている、積雲と競い合うように」、初期の句だが、多佳子の句はくっきりと美しい) 8.6

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  • 何蟲ぞ姫向日葵の葉を喰ふは

 (高濱虚子1902、姫ヒマワリの花は普通のヒマワリと違い、小さくてかわいい(直径8センチくらい)、そりゃ、姫に悪い「虫がついたら」いかん、て皆思うでしょ) 8.7

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  • 焦土の辺晩涼は胸のあたりに来

 (森澄雄1947、「浦上原爆の地に小居を得」と前書、作者は長崎の人、浦上天主堂のあった近くに移り住んだときの句、どうしてもここで原爆で亡くなった人たちのことが忘れられないので、「夕暮れの涼しさが胸のあたりに来る」、今日はその8月9日) 8.9

 

  • 夏火鉢つめたくふれてゐたりけり

 (飯田龍太『百戸の谿』、1947年夏の作、「北溟南海の二兄共に戦死をしらず」と前書、作者の二人の兄は北の海と南の海に出征、だが戦死通知はまだない、蛇笏一家は甲府境川村という高所に住むので、夏火鉢を使う、でも「つめたく触れてゐる」のみ) 8.10

 

  • あはれとや空に語らふ時鳥(ほととぎす)寝ぬ夜つもれば夜半の一声

 (式子内親王「前斎院御百首」、「ホトトギスさん、彼を待ちわびている私をかわいそうに思って、私に語りかけるように鳴いたのね、彼を待って明け方まで寝ない夜が続いたけど、今夜はホトトギスさんの声で夜が明けたわ」) 8.11

 

  • 空蝉の羽(は)におく露の木(こ)がくれて忍び忍びに濡るる袖かな

 (空蝉『源氏物語』空蝉巻、「貴方[=源氏]が私の寝室にこっそり忍び込んだとき、私は怖くて、蝉が殻を脱ぎ捨てるように小袿を残し、すり抜けて逃げました、でも葉(=羽)に置く露が木陰に隠れるように、貴方から隠れ続ける私は寂しいのです」) 8.12

 

  • いかでかは思ひ有りとも知らすべき室(むろ)の八島の煙ならでは

 (藤原実方詞花和歌集』、「貴女は僕の片思いにまったく気付いてないんだね、どうしたら気付いてもらえるかな、あの八島に立つ煙みたいに、とにかく人目に付くくらいに、派手に振る舞わなくちゃだめなのかな」) 8.13

 

 (川崎彰彦、湖か海岸で、遊覧船の脇を水上スキーが猛スピードで追い越そうとしているのだろう、だが突然、水上スキーが「ころんだ」、遊覧船の客から「どっと」声があがる、驚きか、悲鳴か、面白がっているのか) 8.18

 

  • 涼風(すずかぜ)の曲がりくねって来たりけり

 (一茶1815『七番日記』、「裏店(うらだな)に住居(すまひ)して」と前書、一茶は、路地の奥まったところの長屋のつきあたりに住んでいる、涼しい風も真っ直ぐには吹かず、「曲がりくねって来たりけり」) 8.19

 

  • 公園に旅人ひとり涼みけり

 (正岡子規1893、東北を「漫遊」した時の句、「福嶋」と前書があり、次の句は仙台なので、福島県か、「旅人ひとり」って、どうして旅人と分かったのかな、服装と大きなカバンからそう判断したのか、いやひょっとして自分のことか) 8.20

 

  • 花火尽きて美人は酒に身投げけむ

 (高井几董、屋形舟か、酒を飲みながら花火を楽しんでいるグループに美女が一人いる、「彼女は「あーあ、もう花火終っちゃった」と言って、杯のペースがあがり、すっかり酔いつぶれちゃってる」、「酒に身投げけむ」がいい、作者1741~89は蕪村の弟子) 8.21

 

  • 人の來てつくつく法師つまづきぬ

 (原田且鹿、「庭の樹でつくつく法師が威勢よく鳴いてるよ、いいなあ、あっ、人が来訪した気配に気づいたか、「ツックン・・、ジ、ジ、ジ・・・」と声が小さくなって「つまづいちゃった」みたい。これはかなり昔の句、最近は蝉の声が少なくなった) 8.22

 

  • 星月夜空の高さよ大きさよ

 (尚白、初秋にかけて、天の川を含む満天の星は本当に美しい、しかし最近では、それほどの「空の高さ」「空の大きさ」が感じられない、それは空に街の明りが反射して、空の暗さがなくなったから。この句はかなり昔のもの) 8.23

 

  • 一夏の詩稿を浪に捨つべきか

 (山口誓子1940、誓子には反省的内省的な句もかなりある、この年には年来の病である肋膜炎が悪化し、伊豆の川奈に静養、42年には勤務先の住友も退社、海を「浪」と、自ら詠んだ句を「詩稿」と言っているところに、誓子の苦しみが表現されている) 8.24

 

  • ひるがへる七夕様をむすびけり

 (貴葉子、「短冊の紙を七夕の笹の葉に結びつけ終わった、風がけっこうあるのね、短冊が葉と一緒にこんなにひるがえっている」、旧暦を新暦に換算すると、かなり日程が前後する、今年の換算では今日8月25日が七夕) 8.25

 

  • クーラーの中の静かな心かな

 (込宮正一「朝日俳壇」8月23日、高山れおな選、暑い戸外で汗だくになって自宅に戻る、室内ではクーラーがかすかに聞こえるくらいの音をたてている、なぜかクーラーが、静かな心で自分を迎えてくれる人のように感じられる) 8.26

 

  • 蛇ながる蔓(つる)につかまるまで流る

 (佐野三千代「東京新聞俳壇」8月23日、小澤實選、「蛇が川を流されていく、蛇には手がないから自分から何かにつかまることはできない・・・、あっ、からまった蔓が蛇をつかまえてくれた、蛇くんよかったね」)  8.27

 

  • 口元を隠した日々が積もってく何だか嘘が上手くなりそう

(内田うさ子「東京新聞歌壇」8月23日、佐佐木幸綱選、「毎日マスクをつけるのが当たり前のようになった昨今、本当を隠しつつ生きているような感覚」と選者評) 8.28

 

  • 「本当なら今ごろは」ってみんな言う本当なんてどこにもないのに

 (上田結香「朝日歌壇」8月23日、永田和宏選、コロナのせいですっかり予定が狂い、「本当なら今ごろは~~してるのに」とみんな言う、でも、「本当なんてどこにもない」のだから、これはたんなる弁解かもね)8.29

 

  • あばら骨でひかりを編んでまたほどく四角い部屋はふくらんでゆく

 (涌田悠『短歌研究』2020年9月号、第63回短歌研究新人賞・次席、作者1990~はダンサー、ダンサーは痩せた人が多い、あばら骨が透けて筋が浮かんでは消えるのか、光線を浴びたステージか自室で踊る自分の身体を詠む) 8.30

[オペラ] ベルク 《ヴォツェック》

[オペラ] ベルク《ヴォツェック》 METライブ 東劇 8月25日

(写真↓上は、第二幕、酒場のシーン、下は第一幕冒頭、大尉の髭を剃るシーンだが、ヴォツェックはカメラを操作しており、スクリーンにはヴォツェックの幻覚や妄想が映し出される)

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今年1月11日のMET上演の映像。演出のケントリッジは映像作家で、彼の演出した『魔笛』は、映像が説明的なのと細部の解釈に疑問があったので、あまり感心しなかったが、本上演は、CG映像が舞台装置とぐちゃぐちゃに混じり合う、印象深い効果を生み出している。以前、新国でクリーゲンブルグ演出版を二回見たが、その時は内容にばかり気を取られていたが、今回は、ベルクの音楽の凄さに圧倒された。第二幕の酒場のシーンでは鳥肌が立ったが、音楽がこんなにも深く感情を表現できるのだから、「オペラは19世紀で終わった」などとはとても言えない。アドルノは《ヴォツェック》を讃えて、こう言っている、「今日では、音楽がさまざまな性格に対応して具体的な形をとることができるかどうかということに音楽の生存権のすべてが掛かっているのだから、《ヴォツェック》は最大の今日的意義(アクチュアリティ)を持っている」(「<真の人間性>のオペラ」1955)。《ヴォツェック》はアドルノが「<真の人間性ヒューマニズム)>のオペラ」と呼ぶように、貧困にあえぎながら底辺に生き切る人々の苦悩に、深い共感を寄せる正真正銘の「ヒューマニズム」オペラである。ほとんどの場面でベルクの音楽は、ヴォツェックや内縁の妻マリー、そしてその周囲の人々の激しい苦悩を表現しているが、彼らを冷たく突き放すのではなく、音楽はつねに、彼らをやさしく包み込む美しい抒情性を伴っている。兵士ヴォツェックはつねに不安におびえ、おどおどしており、人間として自信をもって生きている瞬間が一つもない。実際に第一次大戦に徴兵されたアルバン・ベルクの経験が反映しているのだろうか。(写真下は、ヴォツェックとマリー、P.マッティは、ヴォツェックが不安におびえ、つねにおどおどしている様態を、これ以上は考えられないくらい見事に演じている。難しい役なのだろう、終演後のインタヴューで彼はヴォツェックという役は「何重にも張り巡らされたクモの巣のようだ」と答えていた)

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ヴォツェックとマリーの3歳の子供を、人間ではなく人形に演じさせ、しかも第一次大戦で使われたガスマスクをしているのは、戦争批判を意図した演出だろう。それにしても、第三幕冒頭、子供の横で、聖書の「姦淫してしまった女をイエスが許す」節を泣きながら読むシーンは、本当に胸塞がる。ヴォツェックは浮気したマリーをナイフで刺し殺し、沼に投げ捨てたナイフを拾いに沼に入って溺れ死ぬ。そして終幕、「マリーおばちゃん、死んでるよ」と、よその子供に言われても意味が分からず馬乗り遊びを続ける子供。《ヴォツェック》は、ヴォツェックとマリーと子供との家族愛が、ばらばらに千切れ、飛散し、消滅してしまう過程を、目をそむけることなく直視する。そして、その深い悲しみを共有することによって、愛の神聖さを讃えている。アドルノは、小論「《ヴォツェック》の性格づけのために」(1958)の最後をこう結んでいる。「人間がもっとも困窮にあえいでいる場で心から探し求めているもの、すなわち愛に対して、聞き手は尻込みしてはならない」と。(写真下は、怪しげな医者の人体実験モデルになり小銭を稼ぐヴォツェック、そして第3幕、マリーを刺した血がついていることを酒場で咎められるヴォツェック(中央)、彼の右斜め下がマルガレーテ)

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33秒の動画が、ケントリッジ演出のCGの活躍がよく分ります。

https://www.youtube.com/watch?v=KGruNSi8Bhc&feature=emb_err_woyt

[オペラ] グラス 《サティアグラハ》

[オペラ] グラス《サティアグラハ》 METライブ  東劇 8月18日

(写真は舞台、アリアも合唱も、全篇「バガヴァッド・ギーター」がサンスクリット語で歌われ、意味は英語字幕で)

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珍しいオペラを見た。東劇のアンコール上映、2011年MET上演の映像。フィリップ・グラス1937~が1980年に作曲した作品で、マハトマ・ガンジーの生涯を描いた政治劇。「サティアグラハ」というのは、サンスクリット語で「真理の把握」という意味で、ガンジー自身が自らのインド移民救済運動をこう呼んだ。オペラのリブレットは「バガヴァッド・ギーター」から採られており、歌はサンスクリット語ガンジーは23歳のとき、弁護士として南アフリカに行き21年間滞在、インド系移民の救済運動を指導し、非暴力の大規模な抵抗運動を創出した(運動を導く新聞の刊行、登録証の集団焼き捨て、大デモ行進、大量逮捕させて刑務所をパンクさせる等々)。この運動はその後、彼がインド帰国後の独立運動の原型になったもので、さらにはアメリカのキング牧師公民権運動にも継承された。その全体が、一大叙事詩としてオペラで表現されている。科白は極端に少ないが、舞台のそれぞれの局面で何が起こっているのかは分る。(写真↓は登録証を焼き捨てるガンジー、そして後はキング牧師か)

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音楽は現代音楽で、旋律は通奏低音のように繰返し反復され、大きな輪がゆっくり回転しながら上昇していくような印象を受ける。アリアも合唱も、全編が讃美歌を歌い続けているようで、私は、ガンジーがすべて暗記していたとされる「バガヴァッド・ギーター」がこんなにすばらしい言葉に溢れているとは知らなかった(ヒンドゥー教の聖書なのだから当然だが)。「バガヴァッド・ギーター」が詩となり歌となって、人種差別からの解放運動に生き生きとした魂を吹き込む。「非なる者を倒そう、ふたたび<善>をその座につかせるために」「さあ、憎しみ合いはやめて、愛をもって報いよう」「敵にも味方にも、尊敬にも軽蔑にも、平等であろう」「さあ賢者よ、立ち上がり、行動しよう」・・・。私には、このオペラの音楽は、アメリカのプロテストソング「We shall overcome」のように聞こえた。全編が讃美歌のようでありながら、個々の歴史的事象、政治的事象はきちんと表現されている。当時の南アではヨーロッパ系移民が一級市民で、インド系移民は二級市民として蔑まれた。ガンジーは新聞「インディアン・オピニオン」を発行して、分断されていたインド系移民を団結させた。どちらの移民もそれぞれの新聞を読み、それがそれぞれのアイデンティティを作り出す。まさにアンダーソン『想像の共同体』そのものの舞台だ。本作では新聞の存在が強調され、明らかに「言葉の力」が全体の主題になっている。本作によれば、この時期のガンジートルストイと文通があり、またタゴールとも知り合っていた。人間を自由にする言葉こそ、彼の人生の主題でもある。(写真↓上は、ヨーロッパ系移民たち、彼らは自分たちの新聞を読み、ガンジーをいじめる、下は対抗して刊行される「インディアン・オピニオン」、壁の窓にいるのはタゴール)

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 このオペラ『サティアグラハ』は、オペラという表現様式がホメロス叙事詩イリアス』のような表現の力を持っており、芸術の根源を示しているように私には感じられた。つまり、言葉がその真の力を発揮するのは、論理的に説得するときではなく、詩となり音楽となって、人々の心に共感を生み出すときなのだ。人が感情によって結びつくことができるのは、何とすばらしいことだろう! 『魔笛』のタミーノの笛が動物たちを優雅なダンスに誘い、パパゲーノの鳴らすグロッケンシュピールが追っ手たちを「ラララ・・」と歌い出させたように、言葉が音楽となった時、それは人々を憎しみと敵対から解放し、和解と愛をもたらす。『サティアグラハ』はそれを身を以て示す傑作だ。

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 4分半の動画が。

https://www.youtube.com/watch?v=PCGmbzRz9Ws