[演劇] 糸井幸之介『海底歩行者』 ぐうたららばい公演

[演劇] 糸井幸之介『海底歩行者』 駒場アゴラ劇場 10月16日

(写真は、この二人芝居の役者、伊東沙保とキムユス、二人とも素晴らしい役者だ)

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京都のFUKAIPRODUCE羽衣の座付作家・演出家の糸井幸之介の個人ユニット「ぐうたららばい」の第2回目の公演。私はかつて、糸井演出の木ノ下歌舞伎『心中天の網島』に感動し、とりわけ「おさん」を演じた伊東沙保が素晴らしかったので、今回たまたまネットで見つけた上演を見た。

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夫婦愛を描いた素晴らしい作品で、私はベケット『しあわせな日々』を思い出した。老夫婦ではなく新婚夫婦であるところが違うが、夫婦愛の極限を描いたという点が共通している。作家志望の貧乏な青年と、英語塾で教えるやはり貧乏な女性とが結婚して、赤ん坊が生まれる。二人は大学1年生のとき、ワンダーフォーゲル部で知り合った関係で、卒業後だいぶたってから偶然、東京の中野駅で出会い、恋に陥り結婚した。たぶん30歳くらいの夫婦。いかにも東京にはこんな夫婦がたくさんいそうな、普通の地味な夫婦。

 

二人は、六畳一間くらいの貧乏くらしだが、生まれた赤ん坊をとても可愛がりながら二年半くらいが経過する。舞台には赤ん坊がでてこないので、夫婦のそれぞれが赤ん坊役をやる。おっぱいを飲ませたり、オムツを替えたり、ハイハイごっこをしたり、一緒に遊んだり、言葉を覚え始めた子どもとは、片言で会話する(写真上↑)。それがとても微笑ましく、私は自分の子供が生まれてからの同じ時間を思い出し、そうだなあ、まったく同じではないけれど、こんな感じの時があったなあ、と懐かしく感じた。つつましい暮らしだが、幸福な夫婦。二匹の金魚を飼っていて、金魚が泳ぐように夫婦は部屋の中をゆっくり歩いてみせる。つまり二人は「海底歩行者」なのだ↓。

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ところが生まれて二年半の夏、新婚旅行で行った同じ海岸に、今度は子ども連れで旅行したが、海岸でちょっと目を放したすきに、子どもは岩陰の浅瀬で溺れて死んでしまう。その後は、夫婦は放心して、鬱の状態になったまま、一年が過ぎる。その間、夫婦は、いなくなった子どもがそこにいるかのように、子どもに話しかけ、子どもを抱いて過ごしている。それは、最初の子どもが生きているときとまったく同じ仕草、言葉なので、我々は衝撃を受ける。ひょっとして、最初から子どもはおらず、「子どもごっこ」をしていたとしても、同じ情景になるからだ。そう考えると、この夫婦、かなり独りよがりなのかもしれないという疑いもでてくる。そして、かすかな狂気が漂っているようにも感じられる。そうなると、金魚が泳ぐように室内を歩く二人の姿が、少し不気味にも見えてくる。彼女たちが特別不気味というよりは、そもそもヒトが子どもを産み育てることには、どこか不気味なところがあるのかもしれない。

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注意してみると、コミュニケーションも不自然になっている。母と架空の子どもは、しり取りをする。最初は「○○き」(最初の二文字は忘れた)、次は「きす」、次は「すきま」、その次は「まま」と連想ゲームは進む。「すきま」とは、赤ん坊がよくふとんとふとんの間の「すきま」に寝たりしたから、その「すきま」なのだ。だが、このしり取りは、きわめて不自然で、母親の願望がそのまま反映しており、そのことに我々は衝撃を受ける。対話ではなく独白にみえるからだ。『しあわせな日々』の老夫婦の会話が、奇妙にちぐはぐだったように、この若夫婦と架空の子どもとの会話も、奇妙にちぐはぐになっていく。

 

あるとき夫は、実は浮気していたんだ、と架空の子どもに詫びる。妻に詫びるのではなく、架空の子どもに詫びることに、我々は衝撃を受ける。たぶんここが、もし本作がベケット的不条理劇だとすると、本作の肝だろう。だが、架空の子どもに詫びるというのは、何と自然なことだろう! 浮気はまったく舞台には表現されないので、本当かどうかは分らない。妻は知らないように見えるが、知っているのかもしれない。あるとき、妻が寝床で「私を殺してほしい」と言う。夫は首を絞めて殺そうとするが、殺せない。

 

それからしばらくして、妻がぽつりという。「私たち、生きていても、人生では三つの言葉しかないかもしれないね。ありがとう、ごめんなさい、さようなら、この三つだけしか言うことがないよね」。二人は、お互いに、この言葉を言い合う。二人とも「さようなら」と言ったので、二人は離婚することになる。

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離婚する直前、二人はまた例の海岸に「離婚旅行」をすることにした。子どもが死んだ海を眺めているうちに、海の無限に近い広がりに二人は感動を覚え、二人で海の上を飛んでいるような高揚した気分になる。そこで明りが消える。終幕かと思ったがそうではなかった。次のシーンは、すこしだけ明りがついて、海の底を、二人は海底歩行のように泳いでいる。子どもがいた前と同じように。しかし、今度は夫婦が並んで泳いでいる。子どもがいたときは、ばらばらに泳いでいたのに、今度は、二人並んで泳いでいる。電気が消えて終幕。

 

二人はひょっとして離婚するのをやめたのかな、という思いもちらっと横切るが、それは分らない。予定通り離婚したのかもしれない。しかしどちらであっても、ここに、夫婦愛の極限が描かれていると私たちは感じ、とてもとても、二人が愛おしい。

 

 

[今日の絵] 10月前半

今日の絵 10月前半

1 中村彜 : 自画像 1912

人物画のモデルになる人は、画家が描いている最中は自分が拷問にかけられているように感じるだろう、<見られる>とは拷問にかけられることだからだ、自画像になると、画家=モデルには、拷問をかける/かけられるの二重性が生じる、だから自画像は絵画芸術の頂点なのだ

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2 梅原龍三郎 : 自画像 1908

7月にパリに留学した20歳の梅原が10月に描いた初めての自画像、彼はパリに着いた翌日、リュクサンブール公園美術館で初めてルノワールを見て、「これこそ私が求めて居た、夢見て居た、そして自分で成したい画である」と感じた、この絵にもその感動が溢れている

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3 萬鉄五郎 : 雲のある自画像 1912

萬は27歳だが、現代人と違って堂々たる大人の風格がある、そして眼が優しく美しい、当時、萬のアトリエを訪れた木村壮八は、萬の死の直後、「眼は、あのつぶらな綺麗な眼は、萬君一生の珠宝だったと思います、その愛念の籠る眼は、あの時と雖も後と変わっていません」と回想している

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4 岸田劉生 : 自画像 1912

岸田は38年間の生涯に30枚以上の自画像を描いたが、そのほとんどが1913~14年に集中しているから、これは最初期の自画像で21歳の時、生涯で初めての個展に出品した、この個展を見に来て文通が始まったのが、将来の妻の小林蓁(しげる)、彼女はこの絵を見て思うところがあったのか

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5 小出楢重 : 自画像 1913

東京美術学校の卒業制作、浮世絵の大首絵を背景にして、本人も和服だが、西洋パイプをくわえているのは、ハイカラな洋風趣味なのか、それとも、東京美術学校日本画科から西洋画科へ転科した自身の経歴(7年在学)と関係があるのか、どの自画像も顔の細さが印象的だ

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6 佐伯祐三 : 自画像 1923

佐伯1898~1928の東京美術学校卒業制作、当時佐伯は中村彜の近所に住み、影響を受けていた、この絵も中村の「エロシェンコ氏の像」(1920)の影響がある、だがそれ以上にこの自画像は、佐伯という人間の存在を底の底まで捉え切って、描き切っている

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7 Cranach : Venus 1553

このヴィーナスはかなり細身で、イタリアルネサンスで描かれた、ふくよかなヴィーナスとはかなり違う、足指の向きからすると、体をやや捻じっている、非常に美しいが、表情がどこなく不気味、明るいギリシアの女神たちとは雰囲気が違う、北方のヴィーナスだからか

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8 Velazquez : ヴェラスケス 鏡のヴィーナス ca1650

ヴェラスケスが描いた裸婦像で現存する唯一の作品(17世紀のスペインでは裸婦像が宗教的に弾圧されたらしい)、鏡にヴィーナスの表情が映っているが、私には何だか「普通の女」のような顔に見える、後姿だが、肩から脇腹、腰、脚へ、流れるようなラインが美しい

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9 Delacroix : 白靴下の女 1826

ドラクロア1798~1863は「民衆を導く自由の女神」等で名高いロマン派の画家、人物を「劇的に」描く人、この絵も普通の裸体画とはやや趣を異にしている、肢体の向き、手を後ろに組んでいる、白い靴下など、優美というよりは強気の女という感じ、そして色のコントラストが見事

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10 Chassériau : 泉のほとりで眠るニンフ 1850

私は2017年に国立西洋美術館でこの絵を見たが、白く輝く硬質な美しさと、可愛い腋毛に驚かされた、神話を装うが、モデルはシャセリオーの愛人の女優アリス・オジー、彼とユゴー父、ユゴー子の三人が彼女を争った有名な美女、当時の観客はそれと知ってこの絵を見たはずだ

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11 Renoir : Reclining nude, 1890

ルノワール1841~1919は生涯にたくさん裸婦を描いたが、この絵は、背景からして室内ではないので、実景というよりは神話的な表象になっている、右上の青は海のようだが、海辺の草叢で昼寝するヴィーナスなのか

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12 Degas : 就寝 1883

ドガの描く人物はいつも何かしているので、鑑賞の対象として澄ましている姿はない、だからどれも生活の匂いがする、裸婦にも神話的意匠はない、この絵も彼女はランプを消そうとしている、しかし寝る時に何も身に付けていないのは、女優や踊り子だからか

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13 Modigliani : 背中を見せて横たわる裸婦 1917

背中から、お尻、脚へのカーブの美しさなど、ヴェラスケスの『鏡を見るヴィーナス』などを参考にしたともいわれる、しかし眼だけは、モディリアーニしか描かない「切れ長の線」の眼、この眼が肢体の全体と奇妙に調和している

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14 ピカソ : 大きな浴女 1921

縦182センチの大きなカンバス、この女性は大きく、逞しく、豊穣で、「青の時代」の痩せた肉体とは大きく違う、これほど重量感のある裸婦像は珍しい、脚や足指などまるで力士のようで、feminineという感じでもないが、健康な肉体の途方もない美しさを感じさせる

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15 Boldini : Reclining Nude, 1931

ボルディーニ1842~1931は「横たわるヌード」を何枚も描いているが、片膝が大きく曲がっていて、動性をもつ身体が多い、この絵は膝の曲がりは少ないが、腰と背のくびれなど動性を感じさせる、昨日のピカソの絵より約10年後、最晩年だがBoldiniの画風は変らない

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16 Matisse : 横たわる大きな裸婦 1935

マティス1869~1954も晩年には寡作になってきたが、この絵はいかにもマティス的で、「建築的均衡」が非常に美しい、特にポーズがいい、モデルを使って写実的デッサンを繰り返した末に、このポーズに決まったといわれる

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[オペラ] ロッシーニ《チェネレントラ》

[オペラ] ロッシーニチェネレントラ》 新国立劇場 10月13日

(写真は舞台、上は舞踏会で偽王子(中央の白ガウン)に媚びる二人の姉(左側の緑と赤の服)、下は中央がチェネレントラ、エプロン姿の女中として姉二人の衣装を持たされている、そして継父と戦う彼女)

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粟國淳演出、美術・衣装A.チャンマルーギ、チェネレントラ:脇園彩、王子ラミーノ:R.ベルベラなど。私は初見だが、こんなに素晴らしい作品とは知らず、今まで知らなかったことを後悔した。「シンデレラ物語」ではあるが、ディズニーの「シンデレラ」などとは全然違う。チェネレントラ(=シンデレラ)は、白馬に乗った王子様を待つ受動的な女性ではなく、自ら愛を勝ち取りに行く戦う女、「愛の主体」である女として描かれている。チェネレントラは、究極の女性性としてのヒロインであり、アンティゴネ、コーディリア、コンスタンス修道女、『フィガロ』のスザンナなどと同系列のヒロインである。しかも、「愛の贈与」によって自らは死ぬ最初の三人とは違い、「愛の贈与」によって理想の結婚を達成するスザンナのように、より望ましいヒロインと言える。「シンデレラ譚」は2500年前の古代エジプトが端緒であり、その後全世界に伝わり700~800個の民話として伝承されてきた。日本にも10世紀以前に伝わり、「糠福と米福」「落窪物語」として残されている。ペロー童話集やグリム童話集の「シンデレラ」はあくまでその一つにすぎない。「シンデレラ譚」が2500年かけて全世界に広まったのは、主題の普遍性ゆえであり、男女の偶然の出会いである愛の可能態が、さまざまな障害を克服して、結婚という現実態に転化すること、すなわち偶然を必然に引き寄せようともがく人間の生の根源を描いているからである。私はこれから調べてみるつもりだが、もしほぼすべての「シンデレラ譚」のシンデレラが受動的な女性なのであれば、このロッシーニ版『チェネレントラ』は、シンデレラを「愛の主体」として描き直す画期的な芸術作品ということになる。本作の肝は、多くの「シンデレラ譚」と違って、「魔法」が一切登場しないことである。魔法使いもカボチャの馬車もガラスの靴も登場しない。王子の他に偽王子が存在し、姉二人は偽王子に媚びるだけだが、チェネレントラは侍従に変装している王子に自分から愛を告白し、自分の腕輪を渡してこう言う、「私が誰だか知りたかったら、この腕輪の片方を持つ私を探してほしい、そしてもし貴方が現実の私を見て幻滅しなければ(=現実の彼女は女中のような生活をしているから)、私と結婚してほしい」。こう言ってチェネレントラは宮殿の舞踏会からさっそうと出ていく。(写真↓は偽王子、一番右端の黒服が、侍従に変装している本物の王子)

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チェネレントラは自ら「愛の主体」として侍従に愛を告白するのだが、彼が本物の王子であったことを知るのはしばらく後である。彼女は、姉たちのように地位や権力や金ゆえに一人の男を愛するのではなく、彼を好きになったがゆえに彼を愛する。しかも、「愛の客体」として彼に愛されることを懇願するのではなく、「愛の主体」として彼を愛する。男女の愛が、どちらかの上から目線ではなく(どちらか一方が相手を獲物として掴まえるのではなく)、二人の間に権力関係がない愛であること、これが真実の愛、真実の結婚である。粟國演出のこの上演では、魔法がない代わりに、映画の女優採用のオーディションとして『シンデレラ』の映画撮影というメタ設定になっており、フェリーニの『81/2』のような祝祭性を表現している。そして、映画撮影あるいはCGの使用ゆえだろうか、私には、二人の愛が成就する瞬間がコスモロジーとして表現されているように感じられた。全宇宙が二人の愛を祝福する「永遠の今」が現出している。(写真↓)

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動画もありました。

https://www.nntt.jac.go.jp/opera/lacenerentola/

[演劇] シェイクスピア『十二夜』

[演劇] NTライブ『十二夜』 TOHOシネマズ日本橋  10月11日

(写真↓は舞台、現代的でスタイリッシュ、全体が回り舞台でスピーディに回る、下の右端は執事が女性に変えられたマルヴォーリア)

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2017年4月6日の、ナショナルシアター公演、サイモン・ゴドウィン演出。原作の執事マルヴォーリオをレズビアンの女性マルヴォーリアに変えたのが斬新。オリヴィア邸の召使いフェビアンも女のフェビアに変え、道化フェステも女性がやる。もともとトランスジェンダーの混乱を楽しむ喜劇なのだが、それをさらに進展させて、ジェンダーそのものを迷路のように混線させてみたのが、この上演。オーシーノ侯爵と男装したヴァイオラとの間も同性愛っぽくした。女性執事マルヴォーリを演じるタムシン・グレイグがすばらしく、かつてマルヴォーリを演じたナイジェル・ホーソン以来の名演かもしれない。(写真↓は、オリヴィアから指輪を押し付けられて困惑するマルヴォーリア)

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しかし、原作の似非ピューリタンで権力主義者の執事マルヴォーリオを、レズビアンの女性執事マルヴォーリアに変えたことによって、笑劇的な要素がだいぶ変わってしまった。オリヴィア姫に恋されていると錯覚して舞い上がってしまうのが、権力主義者で高齢オヤジのマルヴォーリオだからこそ可笑しいので、それが、もともとレズヴィアンで、それを今まで必死に隠してきた真面目な中年女性マルヴォーリアだとすると、仕草はともかく、核にある同性愛を笑うことはできない。最後の地下室閉じ込めも、原作以上にマルヴォーリアは徹底的にいじめられるので、かわいそうになってしまう。また、エレファント亭がゲイ・バーになっていたのは、ジェンダー的にどういう含意があるのかは、よく分からなかった。オリヴィア邸では、マライアとフェビアだけでなく、たくさんの女の召使いたちが生き生きと働いているが、こちらは、兄を失ったオリヴィアその人が、男性一般を嫌いになったみたいで、面白い設定だ。 (写真下↓、左端のオリヴィア以外はみな女)

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十二夜』の魅力は、兄セバスチャンとオーシーノ侯爵に対するヴァイオラの純愛のとても切なく美しい主筋と、恋に舞い上がってしまうマルヴォーリオとオリヴィアとオーシーノたちの滑稽な笑劇という副筋とが、絡み合うように交錯しつつ、捩じれてはまた回復する、そのシーソーゲームの美しさにある。だから、マルヴォーリオがレズビアン女性のマルヴォーリアになってしまうことは、そこにも切なさと愛おしさが生まれてしまう。いや、それは間違いというわけではないし、そこまで考えてのゴドヴィン演出かもしれない。ヴァイオラ演じた黒人女優のタマラ・ローレンスは、笑顔がとても可愛く、ボーイッシュな少女の魅力に溢れていた。オリヴィア姫は主筋と副筋の交差点に立つ、切なくかつ滑稽というキャラなので、演じたフィービー・フォックスはとてもよかったと思う。(写真下は、ヴァイオラとオーシーノ、そしてヴァイオラとオリヴィア、オリヴィアに胸を触られたので女であることを必死に隠そうとしている)

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56秒の動画、とても楽しい場面

https://www.youtube.com/watch?v=SIOJBmpRtYo

1分半の動画、ヴァイオラの独白

https://www.youtube.com/watch?v=F2aMKzV6MGo

[美術展] ホキ美術館 永遠の人物画展

[美術展] ホキ美術館 永遠の人物画展 10月6日

 

ホキ美術館の所蔵画を中心に展示。見たことのある絵もあるが、新しい絵もあり、あらためて人物画の衝撃のようなものを感じた。少し挙げると、

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野田弘志 《聖なるもの》 THE-1 2009

>本来の僕の絵は、全部「存在論」です。だから存在するとはどういうことかを中心に考えて描いているわけで・・・、人が生まれて生きて死んでいく、それを美しいと思って見つめているわけです。(自註より)

 

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五味文彦 《帽子の女》 2019 新作

 

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島村信之 《エンジの衣裳》 2005

 

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塩谷亮 《如月》 2020 新作

 

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冨所龍人 《髪をさわる》 2018 新作

 

野田弘志の「人が生まれて生きて死んでいく、それを美しいと思って見つめている」という言葉は、他の画家についても、おそらく同じことが言えるだろう。