折々の言葉(3)  5,6月ぶん

折々の言葉 5

他のどんな人が取り組んでも、それを始めた当人ほどにはうまく完成されないような仕事がこの世にある。(デカルト方法序説』)  2

 

歩いて旅をすること、それはタレスプラトンピタゴラスのように旅をすること。哲学者たる者がどうして他の方法で旅をする気になれるのか。(ルソー『エミール』) 6

 

学ぶことをやめれば、憂いがなくなる。ハイと、コラと、どれほどの違いがあろうか。(『老子』)  9

 

この救いようのない寂しさこそ、幸せの始まりなのだ。(シェイクスピアアントニークレオパトラ』)  13

 

私は、あなたが私をこのままにしておいてくれると思っていました・・・。それなのに、どうしてあなたは私を、憑かれたように、さらに愛そうとするのですか。なぜあなたには、愛することがそんなに必要なのですか。 (ドストエフスキー『やさしい女』) 16

 

愛というのは単純に肯定し合うことではなく、互いの否定性を飲み込み合うことだ。(千葉雅也) 20

 

あれだけ悩みに悩まされた苦しさも忘れて、またまた恋の鎖に身を躍らせるとは、何という魔力。(ラシーヌ『アンドロマック』) 23

 

あらゆる行為の中で、このうえなく自由な、そしてこのうえなく快い[性愛という]行為は、本当の暴力というものを許さない。(ルソー『エミール』) 27

 

セックスの自由化とは、[男と女が互いを取り合う]闘争領域が拡大することである。経済と同様、競争によって勝者と敗者がでる。・・・企業は何割かの大卒を取り合う。女性は何割かの若い男性を取り合う。男性は何割かの若い女性を取り合う。混乱、動乱、著しい。(ウエルベック『闘争領域の拡大』) 30

 

6月

時計は前へ進むばかりであと戻りはしてくれない。目ざまし時計の針にブラ下がって、ゆけるところまでゆくより他、道はないのである。(高峰秀子、朝、目覚まし時計に起こされたが、もっと寝ていたい、時計の針を恨みたくなる) 3

 

女は、あらゆる色を思いつくが、色の不在だけは考えない。私は、黒はすべてを備えていると前から言ってきた。白もそう。どちらの色にも絶対的な美しさがある。(ココ・シャネル) 6

 

自然的愛はけっして誤ることがない。だが意識的愛は、目的が不純であるとか、力に過不足があるとかで、誤ることがある。(ダンテ『神曲』煉獄篇) 10

 

愛は拘束を嫌う。そして、その最大の魅力は、「愛さなくてもいい、でも愛する」というときに、初めて味わえるのだよ。(コルネイユ『舞台は夢』) 13

 

アリストテレスのお堅い教えにばかり夢中になって、オヴィディウスのやわらかい物語を忘れちゃいけません。・・私の専門の本は、オヴィディウスの『愛の技法』です。(シェイクスピアじゃじゃ馬ならし』) 17

 

夢の中で夢をみたい、と望む人のように、ある事をまるでありもせぬかのように思い願う。(ダンテ『神曲』地獄篇) 19

 

花で飾った一本の杭を立てよう。そこに民衆を集めよう。そしたら、それが祭りになる。・・・幸福で自由な民衆には、劇の必要はない。必要なのは祭りだ。・・・そのための劇。そのための仕事」(大杉栄の言葉、宮本研『美しきものの伝説』より) 24

 

私は学者という職業柄、ロマンスにはからっきし興味が湧かない。(野田秀樹パンドラの鐘』) 27

[演劇] 野田秀樹『パンドラの鐘』 杉原邦生演出

[演劇] 野田秀樹パンドラの鐘』 杉原邦生演出 コクーン 6月24日

(写真は↓終幕近く、パンドラの鐘の下に立つミズオ(成田凌)とヒメ女(葵わかな)、この直後、ヒメ女は自らの意志で鐘の中に閉じ込められ、死ぬ)

1999年に世田谷パブリックシアターで、野田秀樹演出、ミズオ(堤真一)、ヒメ女(天海祐希)、ヒイババ(野田秀樹)の初演を見たので、これが23年ぶりに二度目。さすがに名作だが、杉原版は、舞台上での人の激しい動きを歌舞伎風に様式化したので、全体が「重い」感じになった↓。ヒイバアも今回は白石加代子なので、野田自身が演じたときのような「軽み」に欠ける(写真↓奥の右端)。野田演劇は、若者が舞台を風のように駆ける爽快な疾走感が持ち味なので、私としては、初演の方が良かったと思った。

しかし、本作は時空の爽快なワープが素晴らしい。原爆投下直前の長崎の考古学発掘現場を、古代の王朝(卑弥呼?)と重ね合せ、時空をワープして繰返し往来する。演劇は本来、映画と違って時空の切り替えは苦手なのだが、そこを非常に上手くやって、大胆な舞台が実現した。原爆投下と天皇の戦争責任という重い主題を、ミズオとヒメ女という若者の純愛に昇華したので、きわだって美しい作品になった。原爆による国民の死が、王女の死と愛の永遠性によって救われる。王女は愛を贈与して自ら死んだのだ。何よりも、純愛の若者「ミズオ」という主人公の思索的で重厚なキャラクターと、キャピキャピした元気娘の王女「ヒメ女」の軽みという、対照的な人物造形が美しい。そして、王女が王国の存続のために自ら犠牲になるのは、エウリピデス『アウリスのイフィゲネイア』のような美的緊張があり、また能『道場寺』の鐘を投下される原爆それ自体に擬しているので、鐘のスリリングな怖い感じが凄い。平和で癒すような音を出す鐘が、そこにある物質的存在として、とても怖く見える。また、野田の演劇はどれも言葉遊びに溢れているが、それは連想ゲーム的な遊びで、むしろ精神分析的な対話、すなわち隠された主題に近づきつつ、また遠ざかり、仄めかしてもいるように、感じられた。(写真↓は長崎の発掘現場におけるパンドラの鐘)

それにしても、鐘が落ちてヒメ女が死ぬシーン、そしてそれを悲しむミズオの歎きはこのうえなく美しい。こんなに美しい終幕の演劇はまずほとんど存在しないだろう。死んだ姫女を声を聴き取ろうとするミズオの姿↓と、最後のミズオの言葉は、あまりにも美しくて悲しい。まさに「永遠の今」が、愛の永遠性が、純粋に現前している。「[ヒメ女よ、俺と]賭けをしましょう。あなたの服に触れず、その乳房に触れた日のように、いつか未来が、この鐘に触れずに、あなたの魂に触れることができるかどうか。滅びる前の日に、この地を救った古代の心が、ふわふわと立ちのぼる煙のように、いつの日か遠い日にむけて、届いていくのか。ヒメ女、古代の心は、どちらに賭けます? 俺は、届く方に賭けますよ

3分の動画が

https://www.youtube.com/watch?v=RUQ4U1dEkfU

[演劇] 宮本研『美しきものの伝説』

[演劇] 宮本研『美しきものの伝説』 俳優座劇場 6月17日

(写真↑は、左から堺利彦伊藤野枝荒畑寒村)

実演を観るのは、この鵜山仁演出が二度目。。今回は科白をじっくり味わうことができた。終幕直前の大杉栄の言葉が素晴らしい。「花で飾った一本の杭を立てよう。そこに民衆を集めよう。そしたら、それが祭りになる。・・・幸福で自由な民衆には、劇の必要はない。必要なのは祭りだ。・・・そのための劇。そのための仕事」。大杉の思想の全体を一言で言い尽くしている。本作は大杉栄伊藤野枝を中心とする群像劇だが、登場人物に共通するのは、誰もが新しい価値を創造し、人間の新しい在り方を模索しようと苦闘していることだ。(1)フェミニズムの先駆者である平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝など『青鞜』の女性たち、(2)アナーキズム社会主義の革命家である大杉栄堺利彦荒畑寒村、そして徹底した個人主義者の辻潤、(3)日本に西洋の新劇を導入しようと苦闘する島村抱月小山内薫松井須磨子など演劇人、そして(4)抱月の書生である藝大学生の中山晋平は須磨子の歌う「カチューシャの歌」を作曲し、ラジオもない時代にレコードにより大流行させたから、日本における流行歌の創始者といえる。これだけ分野の異なる人物がまるで一堂に会するように親しく交友したのは、まさに奇跡のような時間と言える。「美しきものの伝説」とは、彼らは、社会体制だけでなく、結婚制度などを含めて、人間の新しい関係性、人間の新しい生き方を創造しようと苦闘したからこそ「美しきもの」たちなのだ。フーコーの言う「生存の美学」、チャールズ・テイラーの言う「美的生き方」を彼らは身をもって生きた。幸徳秋水大逆事件1911から大杉・野枝の虐殺1923までの「大正」という短い時を、彼らは「時を駆ける」ように生きた。『ロミオとジュリエット』ではないが、時間の中を疾走する人間の姿ほど美しいものはない! (↓劇中劇のトルストイ『復活』、カチューシャ役の松井須磨子を演じた渡辺美佐子89歳、彼女は本上演を機に引退)

それにしても、大杉栄伊藤野枝がこれほど魅力的な人間であることに感嘆した。男性として、女性として、際立って魅力的であるだけでなく、彼らは素晴らしい知性をもった思想家でもある。大杉はロシア革命の時点ですでに、革命のスターリン的変質をすでに予見しているし、野枝が自分の一存で勝手に『青鞜』を廃刊にしたときの科白、「5年間で53号まで出たけれど、[新しい価値を提唱する]雑誌が5年以上も続くのはおかしい」という科白は、ロシア革命の退廃化を憂える大杉と共通する鋭さがある。上野千鶴子が「[1980年代には]時代が私を追いかけた」と言ったように、新しい思想は時代にインパクトを与えたならば、いつまでも同じ思想や言葉を語り続けるべきではないのだ。価値はたえず新しく創造しなければ保守化して退廃してしまう。大杉や野枝が主張したのは、今日の言葉に直せば、結婚制度は一夫一妻制をやめて、友愛にもとづくポリアモリーに転換すべきだということだ。二人の子どもは、長男を辻潤が育て、二男を野枝が育て、それも忙しくて出来なくなると神近市子に預ける。これは結婚における、パートナーとの関係性と、出産・育児とを分離することであり、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』を知った我々には、それがよく分る。本作では、大杉だけでなく辻潤の思想もじっくり語らせたとことがよい。辻は、大杉のアナーキズムをさらに徹底させた超個人主義で、価値を生み出せるのは自己だけだから、他人には一切従うことはできないという、一種のニーチェ主義者だろう。彼が野枝の最初の夫であっただけのことはある。そして、辻と野枝の最初の子である「一(まこと)」が山岳画家となったのも、その個人主義を引き継いでいるのかもしれない。辻もまた正真正銘の「美しきもの」の一人なのだ。(写真↓は、全員で鎮魂歌を歌う終幕の後の撮影だろう)

 

[今日の絵] 6月前半

[今日の絵] 6月前半

1 Anthony van Dyck : Self-Portrait, ca.1620

ヴァン・ダイク1599~1641はバロック期のフランドルの画家、1620年にイギリスに滞在しジェームズⅠ世を描くなど宮廷画家として卓越していた、この瑞々しい自画像もその頃だが、彼はまだ20~21歳、自分を上品な貴族のように描いている

 

2 William Turner : Self-Portrait, 1799

ターナー1775~1851は英国の画家、風景画が多いが、これは23~4歳の時の自画像で、若々しく精悍、こちらを正面から見据える眼が印象的だが、この絵は実際より美男子に描かれたと悪口を言われた、光と影の対比的強調は彼の風景画と共通するロマン主義的な手法か

 

3 Konstantin Makovsky : Self-Portrait, 1856

マコフスキー1839~1915はロシアの画家、12歳でモスクワ絵画彫刻建築学校に入学し、あらゆる賞を受賞する最優秀学生だった、これは17歳だが、いかにも自信たっぷりの自画像、眼が鋭いが澄んでいる

 

4 Gauguin : Self Portrait, 1896

ゴーギャン1848~1903は、1895年9月から二度目のタヒチ滞在期に入り、その後フランスには帰らなかった、1896年はほとんど絵を描かなかった年といわれる、この自画像は横顔で、彼はまだ48歳だが、どこか疲れがみえる

 

5 Schiele : self-portrait aged 16, 1906

エゴン・シーレ1890~1918の描く人間の肉体には、他の画家にない美しさがある、それはおそらく、人間の肉体のもつ繊細な弱さ、傷つきやすさvulnerability、壊れやすさfragilityのようなものが描かれているからではないか、この16歳の自画像にも私はそれを感じる

 

6 Chagall : 横顔の自画像 1914

マルク・シャガール1887~1985には自画像が何枚もあるが、これは珍しい、自分をメルヒェンの登場人物のように描いている、ただ、他のリアルな自画像と比べてみても、目がやや奇妙であるという点は変っていない、この絵も、目が閉じているようにも少し薄目のようにも見える

 

7 Cornelis de Vos : Portrait of a Young Woman

コルネリス・ド・フォス1584~1651はベルギーの画家、画商でもあり、ルーベンスの盟友だった、家族や子どもの肖像画で名高く、この絵は1630年代半ばで、代表作の一つ、全体に柔らかく、温かみがあり、この女性のおっとりした性格がよく描けている

 

8 Adam de Coster : 灯した蝋燭の手前に糸巻き車をもつ若い女

アダム・デ・コスター1586–1643はベルギーの画家でアントワープで活躍、若い時イタリアに行き、カラヴァッジオの影響を受けたといわれる、半身像に劇的な光の効果を描いている、この女性は服装からして召使と思われるが、独特の美しさがある

 

9 Marstrand : a woman on her way to carnival

ヴィルヘルム・マーストラン1810~73はデンマークの画家、庶民の日常を描いた、この絵はカーニバルに出かけるお嬢さん、左で待つのは彼氏か、カーニバルは、上流階級の舞踏会と同様、庶民の重要な社交の場だったのだろう、母や妹?も「さあ頑張ってね」と応援している

 

10 Manet : 休息するベルト・モリゾ 1870

ベルト・モリゾはマネの義妹、彼女も画家で、この絵では29歳、姿勢を少し崩して身体全体がゆったり広がる感じが美しい、白いスカートが左側だけに大きく延び、上半身の微妙な傾きとソファーへのわずかな沈み、見えている片足、極細のベルトと首回りと髪の少量の黒など、白の見事な調和

 

11 Degas : 病気の回復期 1868~73

いつもすぐ発表されるドガの他の肖像画と違って、この絵は15年間アトリエで眠っていた、ドガの人物画はどれも身体のその時点の特徴が鋭く表現されている、本作も、ベッドから起きられるようになったばかりで、まだ治り切っていない女性の特徴が、正確に描かれている

 

12 Renoir : By the Seashore, 1883

この絵は実景ではなく、アトリエでモデルを藤椅子に座らせ、別に描いた背景は1881~2年のルノワールのイタリア旅行の反映といわれる、もし室外の実景ならモデルがこのように端正な姿勢ではいられないだろう、背景との遠近感も奇妙で、だからこそモデルが前景に浮かび出る

 

13 Ramon Casas : 舞踏会のあとで1895

ラモン・カザス1866〜1932はスペイン、カタルーニャの画家、上流階級の肖像画、風刺画などを描いた、この絵も上流階級のお嬢さんか、舞踏会から帰って「疲れちゃったわ」とソファーで横に、人目のないところでリラックスすると、ちょっとお行儀が悪くなってしまう

 

14 Boldini : Portrait of Gladys Deacon, 1908

グラディス・ディーコン1881~1977はフランス系アメリカ人の貴族で社交界の名士、この絵では27歳、ボルディーニの描く人物はすべて動性があり、崩した両足、ソファーに深く沈み込んで左に傾く上半身、もの憂げな表情など、まさにこの時の彼女が生き生きと描かれる

[演劇] デュレンマット『貴婦人の来訪』 

[演劇] デュレンマット『貴婦人の来訪』  新国立劇場 6月1日

(写真↓は、主人公の二人、クレールを演じた秋山菜津子と、イルを演じた相島一之、ともに素晴らしい名演)

デュレンマットの原作の重要場面を、音楽を加味するなどメリハリを付けて前景化し、全体としてすばらしい舞台になった。登場人物の誰もが生き生きしているのが、本作の最高の魅力だ。高校の校長を原作と違って女にした(津田真澄)のもいい。酒を浴びるように飲んで苦悩するシーンは重要で、女の方が効果的だし、最後に町長に続いて「正義」を捻じ曲げて解釈する演説をするのも、クレールの立場を代弁するのだから、女の方が効果的だ。ただし、最後のイルが死ぬところだけは、街の人が彼を殺す場面をはっきり作ってしまったが、これは原作戯曲通りに「[イルは]がっくりと膝を落す。・・心臓麻痺死」にすべきで、演出の間違いだと思う。また、戯曲の指示を上回る音楽や歌の使い方、クレール自らが歌うのはとてもいい。この劇は全体を音楽劇化してよいのだと思う。(写真下は、若い時のデートの光景を再現するクレールとイル、「美しい自然の中」というのがパロディーになっている)

本作は「正義」と「功利主義」の対立が主題だが、「正義」の解釈が途中からご都合主義的に捻じ曲げられてしまうところがミソで、そこをデュレンマットは見せたかったのだと思う。若い時イルがクレールを妊娠させたまま捨てたのは、たしかに正義にもとる行為であり、45年後に、それに復讐したいクレールの気持ちも分かる。しかし、イルに対しては謝罪あるいは賠償を求めるのが「正義」の限界であり、死をもって購えと、イルを殺すことを要求するのは、明らかにそれ自体が正義に反する。1幕の最後、町長は当然のことながらクレールの申し出を、「ヒューマニズム」の名において拒否するが、むしろそれを「正義」の名のもとに拒否するべきだった。この町長の拒否の後、クレールが一言ぼそっと「待ちます」とだけ言うのが凄い。これは、「いずれ皆さん気が変るから、私はそれを待ちましょう」という意味なのだが、ここは、舞台ではじっくり、観客がその一言を味わえるように何か工夫がほしいところだ。

 

しかしそれにしても、クレールの10兆円のプレゼントの話を受けた町民の対応は実にリアルだ。翌日からもう、ぜいたく品をツケでじゃんじゃん買いだす。要するにこれは、欲望をあおる資本主義の話なのだ。1955年の作だが、やはり時代のポイントがよく押さえられている。ドイツでは東独が潰れたあとの光景と重ねて『貴婦人の来訪』が上演されたらしい。そして民衆は、「正義」の問題を、イルがクレールを捨てたことだけに焦点化して、それへの「量刑」が「正義にもとる」ことを一切無視するという展開も、功利主義が正義論を一蹴する原光景だ。だから、最後にイルが町長に強要された自殺を拒否するのは当然だ。しかし、だからといって街の人がイルを自らの手にかけて殺してしまっては、全体が「分りやすい物語」になってしまう。戯曲では、「イルは立ち止まり、振り向くが、無慈悲にも通路が閉じられるのを見て、がっくり膝を落す。通路は人だかりに変り、それは音もたてずに塊になり、ゆっくりとしゃがみこむ」とト書きされている。つまり、逃げられないことが分ったイルは、「がっくり膝を落して[倒れる]」、聴診器を当てた医者が「心臓麻痺だ」と言う。つまり、民衆は直接に手を汚していない。彼らが間接的にイルを殺したとはいえるが、いわば完全犯罪であり、ずるい民衆は成果だけせしめる、という話なのだと思う。

 

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