[演劇] 宮本研『美しきものの伝説』

[演劇] 宮本研『美しきものの伝説』 俳優座劇場 6月17日

(写真↑は、左から堺利彦伊藤野枝荒畑寒村)

実演を観るのは、この鵜山仁演出が二度目。。今回は科白をじっくり味わうことができた。終幕直前の大杉栄の言葉が素晴らしい。「花で飾った一本の杭を立てよう。そこに民衆を集めよう。そしたら、それが祭りになる。・・・幸福で自由な民衆には、劇の必要はない。必要なのは祭りだ。・・・そのための劇。そのための仕事」。大杉の思想の全体を一言で言い尽くしている。本作は大杉栄伊藤野枝を中心とする群像劇だが、登場人物に共通するのは、誰もが新しい価値を創造し、人間の新しい在り方を模索しようと苦闘していることだ。(1)フェミニズムの先駆者である平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝など『青鞜』の女性たち、(2)アナーキズム社会主義の革命家である大杉栄堺利彦荒畑寒村、そして徹底した個人主義者の辻潤、(3)日本に西洋の新劇を導入しようと苦闘する島村抱月小山内薫松井須磨子など演劇人、そして(4)抱月の書生である藝大学生の中山晋平は須磨子の歌う「カチューシャの歌」を作曲し、ラジオもない時代にレコードにより大流行させたから、日本における流行歌の創始者といえる。これだけ分野の異なる人物がまるで一堂に会するように親しく交友したのは、まさに奇跡のような時間と言える。「美しきものの伝説」とは、彼らは、社会体制だけでなく、結婚制度などを含めて、人間の新しい関係性、人間の新しい生き方を創造しようと苦闘したからこそ「美しきもの」たちなのだ。フーコーの言う「生存の美学」、チャールズ・テイラーの言う「美的生き方」を彼らは身をもって生きた。幸徳秋水大逆事件1911から大杉・野枝の虐殺1923までの「大正」という短い時を、彼らは「時を駆ける」ように生きた。『ロミオとジュリエット』ではないが、時間の中を疾走する人間の姿ほど美しいものはない! (↓劇中劇のトルストイ『復活』、カチューシャ役の松井須磨子を演じた渡辺美佐子89歳、彼女は本上演を機に引退)

それにしても、大杉栄伊藤野枝がこれほど魅力的な人間であることに感嘆した。男性として、女性として、際立って魅力的であるだけでなく、彼らは素晴らしい知性をもった思想家でもある。大杉はロシア革命の時点ですでに、革命のスターリン的変質をすでに予見しているし、野枝が自分の一存で勝手に『青鞜』を廃刊にしたときの科白、「5年間で53号まで出たけれど、[新しい価値を提唱する]雑誌が5年以上も続くのはおかしい」という科白は、ロシア革命の退廃化を憂える大杉と共通する鋭さがある。上野千鶴子が「[1980年代には]時代が私を追いかけた」と言ったように、新しい思想は時代にインパクトを与えたならば、いつまでも同じ思想や言葉を語り続けるべきではないのだ。価値はたえず新しく創造しなければ保守化して退廃してしまう。大杉や野枝が主張したのは、今日の言葉に直せば、結婚制度は一夫一妻制をやめて、友愛にもとづくポリアモリーに転換すべきだということだ。二人の子どもは、長男を辻潤が育て、二男を野枝が育て、それも忙しくて出来なくなると神近市子に預ける。これは結婚における、パートナーとの関係性と、出産・育児とを分離することであり、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』を知った我々には、それがよく分る。本作では、大杉だけでなく辻潤の思想もじっくり語らせたとことがよい。辻は、大杉のアナーキズムをさらに徹底させた超個人主義で、価値を生み出せるのは自己だけだから、他人には一切従うことはできないという、一種のニーチェ主義者だろう。彼が野枝の最初の夫であっただけのことはある。そして、辻と野枝の最初の子である「一(まこと)」が山岳画家となったのも、その個人主義を引き継いでいるのかもしれない。辻もまた正真正銘の「美しきもの」の一人なのだ。(写真↓は、全員で鎮魂歌を歌う終幕の後の撮影だろう)