池本美香『失われる子育ての時間』

[読書] 池本美香『失われる子育ての時間――少子化社会脱出への道』(勁草書房 2003年7月)

(写真は、イタリアの時間銀行のイラストの一つ。)

新刊ではないが、評判になった本なので。著者は1966年生れ、銀行勤務を経て、現在、日本総研研究員。先進国で起きている少子化の原因は、「人生のあらゆる側面が市場経済に取り込まれたから」(p177)だというのが、本書の主張。なかなかユニークな視点だと思う。おおよそ、以下のような議論が行われる。


女性が働くようになったのは、別に最近のことではない。有史以来、女性は働いてきたのだが、20世紀後半に大きく進展した事態は、女性が高学歴化し、男性と対等に仕事をして、個人で収入を得るようになったことである。以前は、農業や小売商、町工場などのように、家族という形態の一員として、女性は生活の場で同時に生産的労働に従事した。その場合、女性が個人単位で収入を得ることはなかった。明治時代の女工でさえ、収入は父親に送られた。女性は父や夫のものだったからである。ところが現代の女性は、個人として、自分の労働力を商品として売る。このことは、財やサービスを売買する主体として、つまり「個」として女性が自立することを意味する。


>以前は市場で取引されることのなかった財やサービスが商品化されて市場で売買されるようになり、・・・人々を商品の売り手と買い手という「個」に還元し、人間のあらゆる行為は、商品として提示された製品やサービスの選択へと還元される。ここには、貨幣換算されない純粋な自由時間は存在しないし、非市場的空間で純粋に楽しめるような人間の行為は残されていない。(p126)


女性にとっては、自分の労働力を売ることによって、自分の時間が一定の経済価値を生み出すものになる。その結果、そのように変質した自分の時間が、出産や子育てに使われる時間と、より合理的な使い方という点で競合する関係に置かれるようになる。これは、女性の労働が家庭労働と一体のもので個人収入を得ることがなかった時代には、ありえなかった競合と選択の関係である(昔は、イリイチのいう「ヴァナキュラー」な生活空間あるいは「シャドウ・ワーク」)。現代の女性は、結婚や出産を漠然と望んではいても、実際の生活において、自分の時間が経済的価値を生むならば、「その時間」を出産と子育てに費やすことは、経済的価値を失うことを意味する。出産によって、自分の時間の有効な使い方が不可能になるのだから、出産は「産み損」ということになる。自分の老後についても、年金や介護保険を自分で積み立てることによって対応するわけだから、子供の世話になるわけではない。子供を持つことは、長期的にみても利益にならない。女性が子供を産まなくなったのは、行き過ぎた個人主義フェミニズムのせいだというバックラッシュ派の批判に対しては、著者は、労働力が商品化され、時間を効率的に使うことを強いられる市場経済のもとでは、誰もが「個」になり個人主義が徹底するのは必然であると反論する(p157)。


こうして、「人生のあらゆる側面が市場経済に取り込まれた」結果、人間は自分の時間の使い方を、効率性、予測可能性、計算可能性などを重視して決定するようになる(p58f)。そのような観点からすると、出産と子育ては非効率で、予測が難しく、計算もしにくい。どんな子供が生まれてくるのか、男か女か、優秀かそうでないか、いじめられたりぐれたりしないで、ちゃんと育ってくれるかどうか等々、不安な要素が大きい。ますます女性は、出産に慎重になってゆく。そもそも市場経済において貯蓄が利子を生むのは、貨幣は消費ではなく投資というさらに有効な使われ方をすることによって増殖するという前提、つまり、より効率的な時間の使い方が価値を生むという前提があるからだ。


このように、時間も空間も完全に市場経済化されたことが、出生率の低下をもたらした。だから人々が子供をもっと産むようになるためには、市場経済化の外部にある時間と空間を回復しなければならないというのが、著者の結論である。たとえば、イタリアの時間銀行(la banca del tempo)は、人々の活動を経済価値ではなく時間単位で交換する、ボランティアのあっせん機関である。「私は英会話を教えます」「私は料理を作って冷凍しておきます」「私は子守をします」「私は洋服を直します」といった、自分ができることをチケットで提示し、相互に交換する。重要なことは、経済価値ではなく、つまり、たとえば5人に英会話を教えるから、教わる方は一人あたり5分の1のチケットを出すのではなく、教える1人も教わる5人も、1時間チケットを交換する。つまり、「より効率的な時間の使い方」という、時間当たりの労働価値・経済価値の差をつけず、「その時間をともに生きる」という点で、すべての人は時間の前に平等なのである。


さらに、時間銀行のチケットは「マイナスの利子」と呼ばれる、きわめて短い有効期限を有している。自分が何かの活動を人に与えれば、そのお返しに、同じ時間のチケットをもらうわけだが、もらった時間チケットを貯蓄のようにため込んでおくことはできない。2ヶ月以内に使わなければ無効になる。つまり、活動を与えるが受け取らない人や、その逆の人を作らずに、人と人との活動をすべて相互的に行うというのが、マイナスの利子の趣旨である。2ヶ月しか有効期限がないので、それを使おうと努力することは、今度は他人の活動を受け取ることである。このようにして、人と人との出会いと繋がりが促進されるのである。


市場経済化されない空間・時間の一例を、こうしたイタリアの時間銀行に見出した著者は、出産や子育てもそのようなモデルで考えるべきだと主張する。出産や子育ては本来、市場経済になじまないものだからだ。著者の考えは、かなりユートピア的なところがあるが、なかなかユニークな考察に満ちた楽しい本である。私が一つ疑問をあげるとすれば、前回までに述べたように、合計特殊出生率の低下は晩婚化・非婚化によるもので、結婚した夫婦が産む子供の数(完結出生児数)はほとんど変わっていないことを著者はどう考えるのかという点である。8月1日の日誌に書いたように、完結出生児数は、1972年が2.20になったあとはほぼ一定で、2002年は2.23だから上昇した年さえもある。著者の仮説のように、子供を産むことが時間の使い方として合理的でないというならば、結婚した夫婦の産む子供の数が減ってもよさそうなのに、そうなっていない。あるいは、結婚しない若者が増えたのも、ある意味では、時間を合理的に使うという市場経済の帰結かもしれない。結婚の主目的が出産と子育てだとすれば、子供を産まないという選択は、結婚しないという選択になるのかもしれない。このあたりの議論がもう少し加われば、著者の主張はさらに説得的なものになるだろう。