三笠宮発言に思う

charis2005-11-06

[時事問題]  三笠宮発言における「男系継承」と「側室の復活」


(写真は大正天皇(右)。子煩悩で家庭を大切にしたと伝えられ、昭和天皇による皇室の側室廃止に先立って、皇室の「近代ファミリー」化に貢献した。)


昨日の日誌のコメントに、knoriさんより、三笠宮寛仁(ともひと)親王の福祉団体会報発言の具体的な文面と思われる紹介をいただいた。お礼申し上げます。再度引用すると、


「私の意見を<ともさんのひとり言>として聞いていただきます。・・・(中略、対策を①〜③と挙げた次に)・・・、④として、昔のように「側室」を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思います。」


<ともさん>本人が、番号を付して挙げているならば、「少々難しいかと」というコメント付きとはいえ、大新聞は④をカットしないで報道すべきであった。11月7日付「電子版・産経」でも、依然として④を伏せてある。↓
http://www.sankei.co.jp/news/morning/07pol001.htm


我々は「側室制度の復活」などと聞くと、笑い話のように思ってしまうが、実はそうではない。「男系継承」と「側室」は深い関連があるので、④は必ずしも「ともさんの失言」とは言えないのである。この問題の第一人者の一人である笠原英彦氏(慶応大学法学部教授)は、「<男系の男子>にのみ皇位継承権を限定する原則は、本来側室制度を認め庶子皇位継承権を容認してはじめて維持可能なものであった」と述べている(『女帝誕生』、新潮社)。


明治天皇大正天皇も側室の子であり、庶子であった。大正天皇は、幼少の頃、正妻の子と聞かされたので、それを知ったときは苦しんだと言われている。彼は皇族として初めて自分の結婚式を神前結婚式として行った。「神の前で誓いの言葉を述べて夫婦が誕生する」というのは、キリスト教に影響されたもので、江戸時代以前にはこのような「結婚式」は日本になかったとも言われる。また大正天皇は、家庭を大切にし、事実上の一夫一妻制を好んだと言われ、昭和天皇による側室制度廃止に先立って、近代市民社会の「ファミリー」像を先取りしてもいた。皇室もまた、日本社会における市民社会の形成と平行して、自らの近代化を行ったが、そうでなければ「国民が自己投影できる」皇室になれなかったのである。戦後の「天皇人間宣言」や、ヴァイニング夫人による皇太子教育などを含め、現在の皇太子一家に見られる「ファミリー」人気は、こうした一世紀にわたる皇室近代化の産物である。


そうであるならば、しかし、三笠宮発言における「男系継承」の主張は、近代市民社会にふさわしい皇室像に正面から衝突する「無理筋」であることが分る。「男系継承」は側室制度がなければ維持できないことは、たとえば、日本の武士階級が示している。武士はその本質が「戦士」であるから、必ず「家」を男子が継がなければならなかった。それゆえ武士は「妾(しょう)」を持つことが許され、「側室」という語は本来、大名などの高級武士の「妾」の呼称といわれる。


今日我々は、皇位は皇太子一家あるいは少なくとも皇太子の兄弟の子供に継承されるのが自然であると考えるが、それは、近代市民社会における「核家族」こそが、生命の継承を営む「実体」であるという感覚に裏付けられている。皇太子の子供から非常に遠いところへ皇位が「横飛び」することは、近代市民社会の家族観と矛盾する。三笠宮発言の「側室の復活」が不可能であるとすれば、「男系継承」にこだわることをやめて「女系継承」も同様に認めることが、唯一可能な正しい選択なのである。