宇都宮大学学生・共同研究『戦後元年』(1)

charis2006-05-13

[読書] 宇大Dialogers『戦後元年 2005 ―ぼくらが未来を創造するために考えはじめたこと』(金子印刷所、2006.3.26)


宇都宮大学教育学部の学生有志7人(女子5人、男子2人)が、「靖国問題」について自主的な勉強会を始めた。1年半にわたる読書会と討論は中身の濃いもので、文部科学省「平成17年度 大学・大学院における教員養成推進プログラム」に選ばれ、その助成金によってB4版185頁の冊子が印刷・刊行された。全体を通読した印象は、20〜22歳の普通の学生たちが、よくぞここまで頑張ったという驚きである。それで、紹介とコメントを。


[全体の構成]
第1章 ベースキャンプ 〜ナチスドイツ、東南アジアにおける戦時の流れ〜
第2章 日本の戦後賠償・戦後補償
第3章 日本の歴史教育における歴史認識のありかた
    〜日中韓およびドイツの歴史教育を手がかりに〜
第4章 国際軍事裁判について 〜責任認識を考える手がかりとして〜
第5章 「靖国問題」を考える
第6章 私が「私」になるために 〜国家論・責任論を手がかりとして〜
第7章 子どもの歴史認識を育てる立場から考えること
第8章 宇大Dialogersによる実録Dialog 
    〜『Action1』を振り返り、Action2に向けて〜


どの章も、読書会の議論を踏まえて、一人または二人で執筆しているが、第5章「靖国問題」だけはグループ名で書いている。この問題の難しさからすれば、政治と無縁だった若者たちの意見が一致しないのはむしろ健全なことだ。たくさんの文献を調べて紹介する部分は明晰だが、それを踏まえて自分たちの考えを述べようとすると歯切れが悪くなる。しかし私は、これを否定的に評価はしない。知識ゼロだった若者が、新たに歴史を学んだときに、問題がどう見えて、「自分の立ち位置」をどのように考えるのか。「歴史意識」とは、大人たちの既成の言説をバトンを手渡されるように受け取ることではなく、自分たちが新しく学ぶ中で「ゼロから立ち上げて、自分で作る他はない」。このことを彼らが骨身に沁みて知ったことが、本書から伝わっている。
「ヤスクニ」が世間の話題になっているが、自分たちは何も知らないから調べてみようという、純粋に知的な動機から始まったのだが、調べれば調べるほど、横たわる問題の巨大さに驚愕し、その前で立ちすくむ自分たちを発見する。彼らが自分の考えを述べようとする部分は、論理の展開としては要領を得ない点があるのは当然のことだ。むしろ私は、若者が歴史と真剣に向き合おうとする姿に大きな希望を感じた。論点の批評は後にして、まず3時間にわたる座談会の記録(第8章)から引用しよう。[ローマ字は人名]


「To:最初からこうなった訳じゃないよね。/Ko:そうだね。/To:最初は興味があったから調べる感じだったよね?/A:わかんないから調べる感じで。/F:・・まとめるということになって、そのまとめるにもコンセプトが必要ということになって、コンセプトができたわけだけど・・。」(p168)
「Ko:個人的な問題として、一つの筋道を立てて書いていくということが[私も皆も]苦手なのね。だからいま歴史でもえらいことになっているのだけど・・。/A:与えられた事をこなすということが今までしてきたことで、今回は与えられはしたが漠然としていて、ゴールをみんなに「教えて教えて」と相談していたような気がするのですが・・。裁判のところなら、「何書いたらいいの?」とか。そういうのをどうにか出して、書き始めたはいいけど、今度は自分が考えた筋からS字でどんどん曲がっていくということがあって、いいか悪いかは別として、いま筋道を立てることができないという感じ。・・今回、ものすごく本を読んだのね。読んだのだけれども、使えなかった本もあったのね。だから数をこなす必要もあるのだと思った。」(169)


コメント:「ゴールをみんなに<教えて教えて>と相談していたような気がする」のは、Aさんだけではない。大人たちも同じ。靖国問題には、これと決まった「ゴール」はない。近代国民国家の戦死者たちへの追悼という難問に、敵と味方、戦争責任、天皇制という問題が全部絡まり合っているのだから。


「F:自分の親とかを考えると、家庭によって違うと思うんだけど、歴史の話とか、歴史認識がどうのとか、そういう話は家(うち)ではないの?/みんな:うん。家もないかも。うんうん。/F:政治の話とかそういう話はあるとしても、戦争がどうとか、戦後責任がどうとか、靖国問題がどうとかさ、そういうなんか核心に迫った話はないわけ。かといって、親たちが、自分が伝えている歴史意識があるかってなると、どうかなっていう・・。/Kou:そういう意味のはないと思う。/TaH:[親の関心は]子どもになっているんじゃないの? 国を支えるイコール自分たちの子どもを立派に育てるみたいなことなのかなって思うんだけど。/みんな:あー!」(173)


コメント:彼らの親といえば、私とほぼ同世代だろうが、きちんとした「歴史意識」などないのが普通だ。家庭内の会話を通じて歴史意識が継承されることはまず望めない。次世代への責任といえば、自分の子どもを育てること以上のことは考えていない。親自身が歴史意識を持っていないことを、子どもの世代は鋭く感じ取っている。


「F:責任の取り方っていうのが、高橋哲哉さんと加藤典洋さんでは、日本人が先か、それとも・・。/TaH:まず「我」が来るか「他者」が来るかっていう話なのかなあって思った。/みんな:うーん・・。/To:これはさ、どっちが先かっていう話? それとも、この二つは分けているの? 今後も分けてどっちかを大切にするっていう意味なの? それとも、どっちかを先にやって次に残った方をやるっていう意味なんかね? この両者を分けられないんじゃないかって思ってきちゃった。話しているうちに、「どっちも大切で、どっちが先か」ということなのか、それとも、「どっちかが大切」ということなのか分からなくなってきちゃって・・。両方とも大事だと思うけど。日本人を確立するためには、両方がないと確立できなくない?」(175)


コメント:高橋=加藤論争について、専門家を含めた大人たちの多くも、このToさん(大学3年の女子学生?)の認識より先を行っているとは思えない。(続く)