小林よしのり『靖国論』(16)

charis2005-12-02

[読書] 小林よしのり靖国論』『戦争論』(幻冬舎)


(写真は、軍需工場で機体生産に従事する女子挺身隊員(1944年)。『戦争と子供たち』日本図書センター刊より)


小林よしのり氏の戦争観は、戦争の勝ち負けのみに視点を当てて、戦争の遂行を支える社会の複雑な要素をまったく見落としている。その欠陥は、例えば、敗戦と同時に日本人はあたかも本の表紙だけ取り替えるように、世界観を外見のみ転換したという「表紙張替え・史観」に現れている。『戦争論』第1巻から引用しよう。「戦中は<日本は負けるはずない><鬼畜米英>の一色に空気を塗りつぶすのが正義だった。戦後は<日本が侵略者だった><反戦平和>の一色に塗りつぶすのが正義。<鬼畜米英>が<反戦平和>になっただけの何も変わらない日本。」(p21)


これは小林氏のみならず、保守派が「戦後」を批判する時に必ず使うレトリックだが、戦争を表層でしか捉えていない。戦争の結果、突然起きたように見えることも、実は、それ以前から社会の深部で進行していた事態が、戦争によって顕在化されただけであることが多い。人は歴史と戦争の真の関係を、戦争という前景に捉えられて見誤ってしまう。例えばルソーは、次のように述べている。


「一般史は欠陥だらけだ。それは名前、場所、日付によって記憶される目だった著しい事実だけを記録している。これらの事実が徐々に展開されていく原因は、同じような方法で示すことができないので、いつも不明になっているからだ。ある戦いに勝ったこと、あるいは敗れたことに、人はしばしば革命の理由を見ているが、この革命はその戦いに先立ってすでに避け難くなっていたこともある。戦争は、道徳的な原因によってすでに決定されている事象を明るみに出すだけであることが多いが、そういう原因を歴史家たちはめったに見抜くことができない。」(『エミール』(中)p66、岩波文庫)


『エミール』(1762)にはフランス革命を予見する鋭い記述が幾つもあるが、小林氏の「戦争=けんかモデル」や「GHQ陰謀史観」「洗脳史観」では、戦争も戦後もまったくの表層しか理解できない。小林氏とは対照的に、小熊英二氏の労作『民主と愛国』(2002)は、戦後の日本人の意識を、戦中との連続性において、詳細に正確に掘り起こしている。それによれば、戦後の日本人が敗戦や占領軍の対日政策を受容したのは、戦中を含めた「国民総力戦」の実態の認識と懐疑が日本人の中にあったからであり、決して、「アメリカに騙され」「GHQに洗脳された」からではない。小林よしのり氏は、特攻隊員や女子挺身隊員の「美しい物語」によって、戦争の「純粋性」をきわめて一面的に描き出す。だが実際の特攻隊員や女子挺身隊員は、『戦争論』の描写とは違って、きわめて複雑な意識を生きていたのである。軍需工場に勤労動員された女子学生の一人、武田清子は、生産現場での「虚偽」を次のように回想していた。


「毎日の新聞に日本の戦勝を印象づけようとする報道が出続けていても、工場の現場に働く人たちは、「こんなことで勝てたらえらいもんだ」と仲間同士ではつねに話し合っていた。日本の飛行機の骨を作っている自分たちの鋳型工場から生産高がどのように正式に報告されていようとも、それらの製品の中にどんなに不良品が多いかということを最もよく知っているのは、現場で働くこれらの人たちである。そしてそうした不良品の原因が、当時の日本の窮迫によるだけではなくて、上役による材料の横流しや、色々の嘘によっていることを知っているのも彼らであった。自分たちもまた、職階が可能にさせる程度に応じての横流しをすることが当然とされる世界だった。しかも毎朝朝礼を持ち、必勝の決意に燃えた顔で上司から訓示が行われ、それを真面目な顔をして聞き、現場に向かう生活が繰返されていた。」(『民主と愛国』p36)