小林よしのり『靖国論』(15)

charis2005-11-28

[読書] 小林よしのり靖国論』『戦争論』(幻冬舎)


(写真は、靖国神社にて、天皇から下賜された記念品を手にした遺児。『戦争と子供たち』日本図書センター刊より)


小林よしのり氏は『戦争論』第1巻第1章にて、「戦争」と「平和」は対立概念ではないと主張している(p12)。「戦争」とは「外交の延長であり、話し合いで折り合いがつかぬ場合にやむなく用いる手段である」から、「戦争」の反対は「話し合い」である。それに対して、「平和」(という状態)の対立概念は「混乱」(という状態)である。だから、「戦争か、平和か!」という対置図式は誤っている、というのである。これは小林・戦争論の根本テーゼであり、ここから、「承認された暴力、されない暴力」(第9章のタイトル)という重要な区別が帰結する。そして、これをもとに東京裁判批判が展開されるので、この「戦争観」をまず吟味しなければならない。


一見すると、小林氏の戦争の定義は、「戦争は政治の延長である」というクラウゼヴィッツの有名な定義とも似ている。しかし小林氏の定義は、多様な形態をもつ戦争のある一面だけを強調したものにすぎず、何よりも、戦争が国家という「単一な主体」によって遂行されるかのように錯覚するところに、その根本欠陥がある。つまり、単純な図式で戦争を考えるので、帝国主義間の戦争に反植民地戦争が結合するというアジア・太平洋戦争の多面性を捉えることに失敗している。その欠陥が露呈するのは、たとえば第9章において、中国の「便衣兵」(ゲリラ)を「卑怯なのだ!」と非難する箇所である(p119)。


小林氏によれば、近代国家による戦争は、国家同士が話し合いで決着がつかない場合に、「実力を使って決着をはかる」ものだから、それは「承認された暴力」で、正当なものだという。両軍がちゃんと軍服を着て正々堂々と戦うのが「正しい戦争」なのだ。ところが、日本と中国との戦争では、中国の民衆はゲリラ戦を行った。つまり軍服も着ないで突然に日本兵を射撃するという「卑怯な」戦法を取った。これは汚いやり方である。だからこのような民衆を日本軍が殺すのは当然であり、戦後、東京裁判で、日本が非難されるいわれはない。小林氏は言う。「もともと承認された暴力である戦争の中に、承認されない暴力を混ぜようというところに無理がある。・・・礼儀正しい戦争にも限界がある。」(p121)


ここに小林・戦争論の根本的な欠陥がある。中国において日本軍が軍服を着ており、中国ゲリラ兵が軍服を着ていないのは、そこが中国であるからという、あまりにも当たり前の事実にすぎない。それは、日本が中国を侵略しているという事実を示しているだけである。これは、中国軍が日本に侵略してくれば、軍服を着た中国軍が平服の日本人の只中に置かれて、反撃を受けるのと同じことである。便衣兵は「卑怯」でも何でもない。中国に侵略した日本軍が受けるべくして受けた当然の反撃である。


小林氏は、太平洋戦争の緒戦の真珠湾攻撃や、マレー半島などでイギリス軍やオランダ軍を駆逐したことを嬉々として繰り返し語っている。しかし、このような「目に見える主体と主体」がちゃんばらよろしく、ヤアヤアと斬り合うというのは戦争の表層でしかない。アジア・太平洋戦争の本当の実体は中国戦線にあったことは、すべての史家が一致して認めている。中国との戦争は、国民党、共産党軍閥、民衆など、戦争の相手である「主体」も決して判明ではなかった。これこそが戦争の実体なのであり、小林氏が独り決めた「承認された暴力」=正しい戦争(騎士の決闘?)のような表層モデルでは、戦争の本当の実体には届かない。国家そのものが矛盾に満ちた複合体であり、単一な主体ではないからこそ、20世紀の戦争はこれまでにない様相を帯びるものになった。小林氏の『戦争論』は、その出発点の戦争の定義からして、20世紀の戦争を捉えるのに失敗している。