小林よしのり『靖国論』(17)

charis2005-12-09

[読書] 小林よしのり靖国論』『戦争論』(幻冬舎)


(挿絵は、速水御舟『炎舞』、1925)


小林よしのり氏の『戦争論』では、「特攻隊員の死」が大きな役割を果たしている。『戦争論』第3巻・第15章の「特攻隊」論で小林氏は、特攻隊という「戦法は外道」つまり誤った戦略だが、特攻隊員の「精神」は決して誤っていないという。例えば高木俊朗『特攻基地知覧』(角川文庫)を、氏は次のように批判する。高木氏は「特攻を<戦法>からだけでなく、<精神>からも犠牲者として描ききることによって、特攻隊員たちの主体性をいっさい認めないのだ」(p276)。「特攻という戦法自体が、外道だった。しかし、だからと言って、特攻隊員たちが<だまされていた>わけではない。・・・あの壮大な負け戦の中で、どうしても強烈に輝くものこそが、陸に海に散った兵たちの闘争心である」(p281)。


特攻隊員たちがどのような意味で戦争の「犠牲者」であるのかは、重要な問題である。小林氏は、特攻という「戦法」と特攻隊員の「精神」とを分離・切断して、後者を「主体性」「闘争心」といった概念によって救済する。だが、彼らが置かれた「戦法」=死の条件から、彼らの「精神」のみを切り離すことは、実は、彼らの「精神」を矮小化することである。「生から死へ」という極限状況に置かれた彼らの精神を、抽象的な「主体性」「闘争心」へ還元することは、彼らの精神のある一断面をもってその精神の全体に置き換えることである。


小林氏は、高木俊朗氏は、特攻隊員の「実は弱かった、おびえていた、逃げ戻っていた」というような「負の部分」に焦点を当てて、「欣然として死に赴いた」という本質を見ていないと非難する(p282)。「欣然として死に赴いた」のではなく、「おびえていた」ものとして隊員の精神を捉えることは、隊員の精神を冒涜するものだと小林氏は考える。だが、ここに氏の根本的な倒錯と転倒がある。問題は、「おびえていた」か「欣然と死に赴いた」かという、二項対立にあるのではない。たとえ彼らが「欣然として死に赴いた」としても、いや赴いたからこそ、そのような「極限の心理状態」を称えることは、彼らの精神の真実を、彼らの「生の側から捉える」ことにならないのである。


大切なことは、彼らの死を、彼らの「現実的および可能的な生の側から捉える」ことである。これができてこそ、特攻で死んでいった若者たちを、我々が真に追悼し慰霊することができる。彼らの精神を「主体性」「闘争心」に昇華してみせることは、かれらを称えるように見えて、実は冒涜することでもある。小林氏は特攻隊員の出撃直前の、美しい遺書をよく引用する。だが、特攻隊員の遺書は、もっと慎重に、多面的に読まれなければならない。これは後の課題にすることにして、今日はまず、特攻隊員たちの「現実的な生」としての、特攻の「戦法」を押さえておこう。


再び、小熊英二氏の『民主と愛国』を援用すれば(p31-3)、1944年7月のサイパン島陥落と日本の空母艦隊壊滅の後は、勝利の見込みがまったくないことが軍部の上層の共通認識であり、「戦略の仮面をかぶった面子」(大岡昇平『レイテ戦記』)のもとで戦闘が継続されていた。こうした「面子の戦い」の最終段階が、特攻戦法である。特攻戦法は、(1)形式上は、現地航空部隊の発案と「パイロットの志願」によったという体裁を取るために、海軍中央からは何の命令も下さないという、事前の調整と責任逃れの体制ができていた。(2)爆弾を抱いた航空機は、爆弾の投下に比べて速度も貫通力も劣る。航空機は空気抵抗で揚力を付けるのだから、艦船に命中する速度は遅い。だから、「一機で一艦を葬る」というスローガンは虚偽で、空母や戦艦を撃沈できないことは分かっていた。(3)航空隊の幹部や兵学校出の士官や古参パイロットは、特攻に出ることは少なく、特攻に出た多くの隊員は、戦争の後半に動員された学徒兵や、予科練出身の少年航空兵であった。「志願」の体裁を取りつつ、実は弱い立場の者に特攻は押し付けられた。


フィリピン戦線のある古参パイロットの回想によれば、「当時の高級参謀たちは、上からの命令に何とか帳尻を合わせることに必死であった。つまり、特攻を出すことによって、架空の戦果を作り出すわけである。」また、古参パイロットである坂井三郎元中尉は、「特攻隊に選ばれた人たちは、はっきり言って、パイロットとしてはCクラスです」と述べている。


出撃した特攻隊員たちは、上記の(1)はともかく、(2)(3)については、ある程度理解していたと思われる。このような状況で「おびえた」隊員がいるのは当然であり、我々は誰一人としてそれを批判などしないが、ではその反対に、「欣然として死に赴いた」隊員を賞賛してみせることが、彼らの死に報いる我々のあるべき態度なのか? そうではないだろう。それは、彼らの「現実的かつ可能的な生の側から」彼らの死を捉えていないからである。