上野千鶴子『生き延びるための思想』(3)

charis2006-03-06

[読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店)


(写真は『女の平和』。2003年7月、アメリカのスタンフォード大学における上演。ペニスに呆れるリュシストラテ。)


上野の議論のもう一つの柱は、国家が公認する殺人としての戦争の問題である。国家が国民を兵士として戦争に動員することは、たとえ民主的に選ばれた国家であっても、つねに正しいわけではなく、無条件に正当化されるわけでもない。上野は、小林よしのりの「戦争に行きますか? それとも日本人やめますか?」(『戦争論』)という「脅し」を批判するだけでなく(37)、橋爪大三郎の「それが民主的に決定されたものなら、応召に応えて戦地に赴くのが正しい」という発言も、全面的に正しいとは認めない(137)。上野は「市民権」という概念に依拠して、国家と個人の契約は全面的なものではなく、部分的なものであることを主張する。


「本来ならば市民と国家が双務契約に入ったときに、生命と財産の保障が[国家に期待する]ミニマムな条件であったはずなのに、それが[戦争においては]国家の名において国民の生命と財産を召喚するのは、契約違反にならないだろうか?・・・国家のために死ねないお前は日本人を降りろという小林よしのりの脅迫に対しては、<そこまで契約した覚えはない>と反論することができる。私と国家との双務契約は包括的なものではなく、限定的、部分的契約にすぎない。」(37)


「世の中には、私が同意した覚えのない<お約束>がいっぱいあります。・・・国はお前に死ねと言う、でもそこで、アンタとそんな契約を取り交した覚えはないよと何で言えないんだろう。」(247)


ホッブズ以来の「社会契約」や「原始契約」は、権力を理論的に正当化する論拠であり、契約の「事実」ではないと普通は考えられているが、しかし上野も言うように、「契約」は両義的な概念である。一方では、国家が契約によって人為的に成り立つからこそ、国家は運命ではなく変えてゆくことができる(38)。しかし他方では、契約は、それが契約だからこそ、契約主体を拘束するという一面がある。社会契約による国家という近代原理の大枠を認めつつ、しかも国家の戦争動員に留保を付けるにはどうしたらよいのか? その根拠になるのは、個人の「生命権」は国家も召喚できないという留保であると思われる。


実際にその留保を求めるかどうかは、当の戦争がどのような戦争であるかという具体的な状況に依存するので、原理のレベルで決めることはできない。たとえば、アメリカの空爆に晒された北ベトナムのような場合、「戦わない権利」を主張する国民は稀だろう。しかし、生起する戦争の特定の状況とは別に、原理のレベルでは、いかなる社会契約も「個人の生命権」を無条件に召喚できないという主張は、決して荒唐無稽なものではない。その根拠は結局、契約は自由意志に基づくが、私の存在は、私の自由意志に基づくものではないから、契約によって私の存在を消すことはできないという点に帰着するだろう。


これは、上野の考察が「自爆する女性テロリスト」というモデルで問題を追及したことと深く関係している。「自爆する女性テロリスト」は、ある意味で究極の人間兵器であり、最強の兵士である。だが、この兵士の強さは、自分が百パーセント確実な暴力の被害者であることによって、すなわち自己の死によって初めて可能な「強さ」でもある。つまり、戦争という暴力を極限に突き詰めるならば、それは他殺の仮象をとる自殺なのである。上野が、自爆テロに赴く女に向かって「逃げよ、生き延びよ!」と叫ぶとき(114)、その叫びは、男を含めた戦争の問題にもっとも根源的に触れている。「自殺するな!」というのが、その呼びかけの本質だからである。


流れ弾で死んだ同僚兵士に対して、生き残った兵士は、「私があなただったかもしれない」と感じる。この「私があなただったかもしれない」という感覚は、おそらくすべての倫理の基礎になるものだと思われる。『女の平和』は、暴力の加害者(=夫)が被害者になるというセックスの弁証法によって、戦争暴力に立ち向かった。上野の、自爆するテロリストは、生き残った兵士が「私があなただったかもしれない」とつぶやく可能性さえも消し去り、加害者と被害者の差異そのものを抹殺するという点で、戦争暴力は他殺の仮象をまとった自殺であることを示したのではないだろうか。


つまり、人間は誰にも自殺を強要されないという固有の権利があり、それは社会契約に優先することが、出征を拒否する最終的な根拠なのである。「人を殺すのを拒否する権利」(=「良心的兵役拒否」)は宗教的な背景をもつ概念といわれるが、「自殺を拒否する権利」は、宗教に依存しないさらに普遍的な権利として、社会契約に優先する論拠になると思われる。(続く)