上野千鶴子『生き延びるための思想』(1)

charis2006-03-02

[読書] 上野千鶴子:『生き延びるための思想』
(2006年2月、岩波書店)


(写真はアリストファネス像。本書は、2500年前の『女の平和』を髣髴とさせる。)


上野千鶴子の最新論集。第3章「対抗暴力とジェンダー」(初出2004)が本書の白眉。上野は「これは本当に辛い思いで覚悟を決めて書いた論文なのに、はかばかしい反応がいただけなかった。・・受けて立ってくれる人がどうしていないのかと、何となく淋しい・・」(p230)と書いている。上野はこの論文で、「女性兵士」というフェミニズムの究極の問いに立ち向かう。その考察を彼女は、連合赤軍事件の集団リンチ殺人の考察から始める。連合赤軍リンチ殺人事件に「立ちすくみ、長く沈黙するに至った」(82)上野にとって、リンチ殺人を行った永田洋子は、「深いトラウマとなった。私がもしそこにいたら? 殺す側にいたかもしれないし、殺される側にいたかもしれない。」(81f)。なぜ永田洋子がそれほど問題なのか? それは、永田洋子という「女性兵士」の内に、殺人という暴力の遂行者=兵士と、女性性という二つの要素がパラドキシカルに含まれているからである。


田中美津は、「永田はイヤリングをした女を殺した。なぜなら、それは彼女自身だったから。永田は、妊娠した女を殺した。なぜなら、それは彼女自身だったから」と語った(95)。この「自分自身を殺さずにおかない女自身のミソジニー」(95)から出発して、上野は、ジェンダーと戦争のパラドックスを解こうとする。なぜそんなことをするのか? その目的は二つある。まず、(1)男性兵士が常識である戦争という場面に、「女が女を殺す」という稀なケースを置くことによって、加害者が同時に被害者でもあるという「兵士」の根源的両義性を明らかにする。次に、(2)9・11以降、テロと戦争の融合の時代には、テロによって「無垢な者が殺される」という倫理的な問題が生じるが、この問いを逆手に取って、「愛する妻や子」(=無垢な者)を守るために、戦場で戦う男性兵士(=正当化された国家暴力)という従来の対置図式では見えてこない、戦争におけるジェンダーの含意を明らかにする。


「あらためて確認しよう。戦争は男だけではできないのである」(207)。これが本書の中心テーゼである。これまでの常識では、戦争は男がするものであった。トロイアの英雄ヘクトルは、出陣に際して、「銃後の妻」アンドロマケに言った。「男の仕事だ、戦争は!」(『イリアス』第6歌)。だが古代ギリシアには、戦争と女の深い関わりを見たアリストファネスもいる。「セックスストライキ」によって男を困らせ、戦争をやめさせるために、アテナイの美女リュシストラテは言った。「女と協力しなければ、男は決して愉快になれません」(『女の平和』)。この科白はとても面白い。夫が暴力的にセックスを強要したらどうしようという、ある女性の心配に、リュシストラテはこう答える。「大丈夫、暴力で得たものには、(女の協力がないから)楽しみはなし、なあに、すぐにやめるわよ」「いきりたち、からみつきたい男たちに、私たちが応じなければ、(男たちは困って)大急ぎで休戦条約よ、きっと間違いなし」。ここには、「女を武器に」戦争をやめさせるという、愉快で壮大な構想が語られている。


2500年の後に、上野千鶴子もまた戦争と女の深い関係を見つめる。「貞淑な銃後の妻」も「従軍慰安婦」も、ともに戦争の不可欠の一部だから、そうした「全体の構図」が揺らげば、戦争もまた打撃を受けるだろう。「女性テロリスト」もまた、従来の戦争の構図に揺さぶりをかける。戦争の最深部に女が全面的に巻き込まれることは、同時に、それが戦争そのものを変容させる可能性をも開示する。上野の構想はまだ萌芽的だが、その幾つかの可能性を考えてみたい。(続く)