「フェミニズムと戦争」シンポ

[学会] 6/11  日本女性学会・第11回大会 シンポジウム  横浜国大


私は学会員ではないが、興味深いテーマなので聴講。パネリストと報告は、(1)「兵士でありかつ女性である女性兵士をとりまく実情の批判的検討」佐藤文香(一橋大学)、(2)「<前線/銃後>のモザイク化と、新たな<再生産>論の必要について」海妻径子(桜美林大学)、(3)「<暴力>の主体から<非-暴力>のエイジェンシーへ」岡野八代(立命館大学)、司会は千田有紀(東京外大)、の各氏。


(1) 佐藤氏の報告は自衛隊内の女性をめぐる問題。戦闘体力が男性に劣るのだから、その埋め合わせとして「お茶汲みなどの雑事」を女性がするのは当然という「バーター関係」があるという。会社のOLと同じというより、体力の極限的差異が根拠になっているだけに、根は深い。女性兵士がセクハラを受けても、「国民を守るはずなのに"自分の身も守れない"」という屈辱感に苛まされるので、訴えられずに闇に葬られる。アメリカのテイルフック事件では、海兵隊パイロットの大会で、女性パイロットが男性同僚から「集団で襲いかかられ、服を剥ぎ取られたり、体を触られる」が、これは「名誉ある伝統」として毎年行われてきたので、告発できなかったという。軍隊は「暴力」の発動装置だから、男女問題が先鋭化されて現れる。アブグレイブ刑務所の例の写真に、ブッシュやラムズフェルドが"深い嫌悪"を感じたのは、女性が男性を組み敷くという"あってはならない"光景が現出したからだ。


(2) 岡野報告は、9.11後のアメリカのフェミニストの動向で、非常に価値が高い。実質は、ジュディス・バトラー論。アフガンへの報復戦争に、いち早く「暴力の連鎖を生む」と反対したのがバトラーだった。「国賊」扱いに耐えて、アメリカに良心の灯を点す彼女の知的誠実性には本当に心を打たれる。

バトラーは、これまでフェミニストを導いてきた「主体性への憧憬」は、アメリカが世界を支配しようとする欲望とも深い関係にあることに注意を促す。人間は誰しもvulnerabilityを抱えているのに、自己の中にそれを認めることを拒み、過剰な報復に走ろうとするのが、「近代の主体性の病」である。主体の「責任responsibility」も、本来は「他者からの呼びかけ」に対する「応答可能性responsibility」であるという、レヴィナスを引用して、バトラーは「エイジェンシー」という概念を提案する。他者との媒介関係の中に生き、応答可能性として他者に関わろうとするのが、望ましい「主体」の在り方としての「エイジェンシー」である。


(3) 私は、バトラーや岡野氏の倫理的な真摯さに大きな感銘を受けた。その上での話だが、バトラーはあまりにも"倫理的に"過ぎるのではないか。アメリカ人の自己批判としてはよく分るのだが、「近代の主体概念」批判にまで話を広げる必要があるのだろうか。ホッブズ、ルソー以来、ロールズに至るまで、国家権力や憲法などを「規範的に基礎付ける」ために、社会契約の「主体」が要請されてきた。岡野氏は、9.11以降のアメリカに一年半滞在し、大半のフェミニストアメリカの報復戦争に雪崩を打って賛同する現場に立会ったために、社会契約の「主体」という「お伽話に深い疑問を感じた」と発言した。気持ちはよく分るが、しかし議論に少し飛躍がないだろうか。


アメリカのパワーを押さえ込むには、他国の合従連衡とか国連を辛抱強く強化することなど、国際政治のパワーポリティックスの戦略的議論が必要だと思う。vulnerabilityや「応答可能性」という倫理の次元の問題と、政治権力の次元の問題を混同しないことが大切ではないか。たしかに、パワーポリティックスのような発想それ自身が「男性原理」であり、それには固有の問題性があるのかもしれない。だが、今回、三人の報告者と会場の方々の議論を聞いて思ったのは、社会学的・倫理学的な視点からの議論の充実に比べて、国家論、権力論の視点からの発想が少ないことである。これは女性学会のよい面であると同時に、「フェミニズムと戦争」という大主題に到達した以上、天下国家を論じる雄大な発想がもっとほしい。