上野千鶴子『生き延びるための思想』(4)

charis2006-03-07

[読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店)


(写真は『女の平和』。2002年3月、アメリカのコロラド大学における上演。悩むリュシストラテ。)


上野は、通常の国家暴力(男性兵士)ではなく、テロリズムという「対抗暴力」に着目し、女性の自爆テロリストをモデルに考察した。自爆テロリストという視点から見ると、特攻隊員から普通の兵士に至るまで、兵士の本質は「広義の自殺の同意」にあることが分る。そもそも「兵士として戦場に赴く」ことは、「自己の死を承認する」ことである。「生命を保障すべき国家が、国民の生命を召喚するのは契約違反では?」(37)と上野が問う時、この「召喚」の実質に目を凝らさなければならない。この「召喚」には、「契約」すなわち「同意」が含まれる。「自分は戦場で死ぬことがある」という「自己の死を承認」することが、兵士という「社会契約」の一方の項である。


「国家が生命を召喚するのは契約違反では?」と上野が問い、「そこまで契約した覚えはない」と反論するとき(37)、なぜそのように言えるのか、私なりに考えてみたい。正当な契約とは、一方が与えるものに見合う対価を相手も与えるという、双務的なものである。では、国民が「自己の死を承認」するのに見合う対価とは何であろうか?


死の危険が伴うのは、兵士だけではない。警察官も犯人に撃たれて殉職する。だが、その確率は非常に小さいからこそ、警察官という職業が成り立つ。警察官の8割が死ぬような治安の悪い国では、警察官の志願者はいないだろう。実は兵士の場合も、それが「契約」と考えられている限りは、それと似た事態にある。「自己の死を承認する」ことが兵士の契約に含まれているが、しかし、それは全体としての話であり、実際に自分が死ぬ確率は必ずしも高くないことが、暗黙の前提になっている。必ず死ぬ兵士、すなわち、自爆テロリストや特攻隊員は、契約の観念を超えた特殊な信念によってしか成り立たない。非常に高い確率で死ぬことは、兵士という契約を危うくする。戦争でも20世紀の世界大戦においては、広島のような一般国民の大量死があり、冷戦時に言われた全面核戦争では、全人類の死が想定された。「全国民の死」が予想される戦争については、兵士という契約に見合う対価がないから、もはや兵士という契約自体が成り立たない。


このように見ると、「兵士という契約」は一種の矛盾を内に孕む「偽装契約」であり、個々人が「自己の死を承認」はするが、実際に自分が死ぬ確率は高くないという前提を伴っていることが分る。アメリカのような強国といえども、ベトナム戦争での米兵5万人の死には耐えられなかった。アフガンにしてもイラクにしても、圧倒的な軍事力によって、米兵の死者は非常に少ないという想定があるから、アメリカは戦争ができる。また、侵略される小国の防衛戦争であっても、国民の犠牲が大きすぎれば降伏を選ぶだろう。


橋爪大三郎が「それが民主的に決定されたものなら、応召に応えて戦地に赴くのが正しい」と述べたのに対し、上野は異議を唱えた(173)。橋爪の「民主的な決定」という手続き論だけでは、「兵士という契約」の正当化はできない。「兵士という契約」に含まれる「自己の死の承認」には、死の確率に関する一種の「閾値」(あるいは計算値)が含まれており、この「閾値」を超えれば「兵士の契約」が困難になる。この「閾値」は一定に決まっているわけではなく、我々がそれを低い方へ変えてゆく余地がある。死を功利主義的な計算に絡めるというパスカル的な発想は、戦争を減らすことにも使えるのではないか。「そこまで契約した覚えはない」という上野の“つぶやき”は、このような展望を垣間見させてくれる。