高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』

charis2006-05-03

[読書] 高原基彰:『不安型ナショナリズムの時代』 (洋泉社新書、4月21日刊)


(写真は、著者近影。朝日新聞4月27日夕刊より。)


著者は、1976年生れの東大大学院生だという。いかにも若者らしい新鮮な視点が光る好著だ。「嫌韓・嫌中」や「反日」といった、現在起きている日中韓三国のナショナリズム問題に対して、著者は、国内における「社会的流動化」という視点から、それは「擬似ナショナリズム問題」だと述べる。日本では、フリーターやニートなど、確固とした雇用が保証されない不安定な若者が増えたことは、よく知られているが、それを中間層の分解による「社会的流動化」という構図で押さえると、ここ十数年の間に、日本、中国、韓国に共通して生じたことが分かる。たとえば中国では、政府が「上からの政策」として、安定した雇用の中間層(国営部門)を解体し、積極的に「社会的流動化」を進めているのに対して、日本では過去の高度成長の成功が大きいので、「社会的流動化」は主として若者に押し付けられ、フリーターやニートとして否定的に受け止められている。


日本におけるフリーター・ニート現象だけを見ていたのでは、ナショナリズム問題と結びつかないが、社会的流動を不可避なものにする高度消費社会は、それにうまく適応できた者にも失敗した者にも、ともに「自らの立ち位置についての不安」を引き起こす。その不安を鎮めて自分を納得させるために、仮想敵や悪者探しが求められ、それが三国同時に「若者のナショナリズム」を立ち上げた背景なのだ。経済の構造転換から、時代の社会心理を解明する著者の雄大な構想はとても興味深いが、ここでは、日本の若者における「立ち位置の不安」について、論点を一つ取り出してみたい(第一章)。


著者によれば、ポストモダン思想やカルチュラル・スタディズは、本来、階級や民族などの社会的な差異を文化の中に読み取ろうとする「差異の政治学」であったのに、日本に受容される過程で変容し、「文化性善説」あるいは「趣味論」になってしまった。浅田彰の『構造と力』には、象徴秩序を支える経済的・社会的文脈がまったく顧慮されておらず、宮台真司でさえも、「コンビニにたまる」若者に、社会の構造変動に適応しようとする前向きの姿を見て取った。このような、「コミュニケーション領域を語れば世界を語ったことになる」という「文化性善説」が、広く日本を覆っていたために、「都市化とサービス産業化の進展の副作用として、かつてなく豊かな資本主義の国々の内部でこそ生じる新しい貧困」(p129)に注意が向かなくなってしまった。


「文化性善説」は、「コンテンツ振興」などという美辞によって、文化産業やIT産業は「創造的で、文化的な仕事」だという幻想を若者に与えて魅惑する。しかし、たとえば過酷な労働を強いられるアニメーターは、膨大な底辺労働を生み出すし、IT産業では、「ウェブデザイナー」「システムエンジニア」等のカッコイイ名前の実態は、正社員でも一日12時間以上の労働で月給17万という例はざらだ。フリーター/正社員という区別はあまり意味がなく、新しい下層労働がたくさん生まれたというのが、本当の姿である。都市における華やかな消費文化は、ウェイトレス、コンビニ店員などの下級サービス労働を大量に必要とするが、一見時代の花形と思われがちな職業も例外ではなく、「専門職」そのものが大量の下層労働を含むのが、新しい労働形態なのである。


現代の日本に限らず、フランスなど多くの先進国では、こうした労働の変容が生み出す階層分化と社会的流動化のリスクを、主として若者に押し付けている。新しい労働形態の本性がまだよく理解されていないので、日本の若者は、「フリーターではなく、正社員になりさえすれば」と考えがちだが、「派遣社員」という低賃金労働からも分かるように、その区別は本質的ではない。社会的流動化のリスクを全階層が分かち合う構造になっていないことが、新しい不平等を生み出している。フランスの若者暴動やストライキの力という最近の現象も、日本のフリーター、ニート、オタク、そして「嫌韓・嫌中のネット・ナショナリズム」、さらには中国や韓国の青年の「反日ナショナリズム」も、すべては同じ根から出ているというのが著者の診断。