コンヴィチュニー『皇帝ティト』

charis2006-04-23

[オペラ]  モーツァルト皇帝ティトの慈悲』 
コンヴィチュニー演出 二期会 新国立劇場


(写真右は、実在のローマ皇帝ティトス像。ルーヴル美術館。写真下は、舞台より。)



モーツァルトの死(1791年12月)の直前、9月の初演だが、『魔笛』『レクイエム』と平行して作曲され、その後に『クラリネット協奏曲』が続くという、テンションの高い最後の数ヶ月の作。音楽は美しいが筋は「退屈」と言われる作品だが、コンヴィチュニーの斬新な演出のおかげで、面白い舞台になった。たしかに筋は凡庸だ。ローマ皇帝ティトに悪意を抱いているヴィッテリア(先々帝の娘)が、ティト暗殺を企て、恋人のセストに頼む。セストはティトの親友でもあり、悩むが、結局ヴィッテリアの愛を失いたくないので、宮殿に放火する。ティトは難を逃れて、親友の裏切りに驚愕するが、犯人のヴィッテリアとセストを「慈悲深く許す」という白けたお話。それに、セストの妹のセルヴィーリアと、その恋人アンニオに、さらにティトも加わった結婚話が絡むだけ。単調な物語だ。


だが、この作品には不思議な魅力がある。ゲーテが1799年にドイツ語版を演出しているし、19世紀前半まで、ヨーロッパ各国で大人気だったという。5人の主要人物がすべて未婚の若者だから、全体が瑞々しいだけではない。ティトは男性歌手が歌うが、セストとアンニオはメゾ・ソプラノが歌う(カストラートを用いるオペラセリエの様式に由来する)。つまり宝塚風のズボン役なのだ。ティト(テノール)は「優しい王様」だし、男たちはみな優しく、マッチョな「男性性」をまったく感じさせない。三人とも、つねに悩み、迷い、優柔不断で軟弱なところが共通項だ。ところが女性は、ヴィッテリアは、とんでもなく傲慢な悪女ふう、そして、セルヴィーリアはおきゃんな可愛い娘で、ともに切れ味が良い。ヴィッテリアはつねに刃物を振り回すし、セルヴィーリアは短いスカートでよく転び、お尻を見せたりする。何だか、元気のない男の子たちと、元気印の女の子たちが目立つ、現代日本に似ているではないか。


というより、成熟した文明が引き起こす「爛熟」のようなものが、古代ローマ現代日本に共通しているのだろう。要するに、「今の日本も、古代ローマと同じじゃないか!」というのが、この舞台のコンセプトだと思う。コンヴィチュニーのいう「オペラの政治的性格の復権」は、皇帝と民衆とのアイロニカルな交歓シーンなどにも読み取れた。小泉の「劇場政治」を思わせる。舞台の幕に大きくドイツ語で「これでは古代ローマと変わらない」というドイツの古い諺が掲げてある。プログラムノートによれば、ティトが臣下を罰しないのは、ただ優しいだけではなく、「先送りの政治」による責任回避でもあるという。なるほど、現代の先進国の「病い」でもある。


コンヴィチュニーは来日して、日本人歌手に長時間の練習を行ったという。第二幕は、ティトが「処罰か許しかに悩む」という内容しかなく、退屈なのだが、面白く盛り上げるために、演劇的な仕掛けをたくさん試みている。ティトの黄金像がしゃべったり、失神したティトに対して客席から「医者」が募集されて舞台に上がり、ティトの心臓を交換して蘇らせるなど、ナンセンス仕掛けが楽しい。オペラセリエというけれど、ほとんど喜劇仕立てだ。


音楽と舞台との関連もよく考えられている。モーツアルトの最晩年の作品は、クラリネットが重要な位置を占めており、『ティト』でもそうだ。コンヴィチュニークラリネットが伴奏するアリアのシーンのために、クラリネットを吹く黒ずくめの人物を「死」のアレゴリーとして人格化して、舞台に上がらせる。これがとても効果的だ。原作にないたくさんの付加をしているのに、音楽と筋の展開にとって違和感がないというのは凄い。オペラの新しい可能性を引き出した名舞台だと思う。


歌手では、生き生きと躍動感があり、愛嬌たっぷりの、高橋淳(ティト)と菊地美奈(セルヴィーリア)が特に良かった。

コンヴィチュニーの記者会見と、舞台写真は↓
www.nikikai-opera.or.jp/information.html