『異人の唄 アンティゴネ』

charis2007-12-01

[演劇] 土田世紀作『異人の唄・アンティゴネ』 新国立劇場

(写真右は、アン[手前、土居裕子]とメイ[純名りさ]。写真下は、年老いた叔父[実は父だった]を車椅子で介護するアン。周囲はコロス。)

ギリシア悲劇の翻案」シリーズ第三作。人気漫画家の土田世紀が構成し、劇作家の鐘下辰男が脚色と演出。ソフォクレスの『オイディプス王』『アンティゴネ』『コロノスのオイディプス』から、それぞれ内容の一部を借りている。うら寂しい日本の漁村の浜辺が舞台。元旅芸人である老いた盲目の叔父を、姪のアン(アンティゴネ)とメイ(イスメネ)が介護しながら、その村に身を寄せているが、彼らは村人からは「よそ者」として扱われている。アンやメイの亡き母サトは、伝説の歌い手で、唄で魚を呼び寄せる奇跡を行ったが、叔父はなぜか唄を厳しく禁じている。しかし唄を歌いたいメイは、村に現れた「クレオン・レコード」社長とという怪しげな男と出会い、それをきっかけに、姉アンの恐ろしい出生の秘密が暴露される。メイは母サトと、この「クレオン・レコード」社長との間に生まれた娘だったが、アンは違う。何とアンは、母サトの兄である叔父との間に生まれた子であった。つまり兄妹の近親相姦による子。絶望のあまりアンは自分の眼をつぶそうとする。


前の二作が喜劇になったのと違って、ギリシア悲劇から日本の悲劇を構成しようとした意図は分かる。だがこれでは、ソフォクレスの原作から筋書きの一部を取り出し、組み合わせ、もじっただけの、「頭の中で作り上げた物語」ではないか。原作では、オイディプスは、自分では知らずに母イオカステと結婚し、アンティゴネとイスメネの父となる。自分の母との近親相姦によって、オイディプスは、アンティゴネの兄であり父であることになった。出生の秘密を知ったオイディプスは自分の眼をつぶす。ここには近親相姦の「けがれ」に打ちのめされる強い悲劇性がある。しかし、この物語をもじって、アンが母とその兄(つまり叔父、ソフォクレス原作ではクレオン)との近親婚の子であったという二番煎じの物語を作ることにどれほどの意味があるというのだろう。


盲目の老人をアンとメイが車椅子で介護している最初の場面は、『コロノスのオイディプス』の光景であり、当然この老人がオイディプスなのだろうと観客はまず思う。異郷の地アテナイで「よそ者」として扱われた父娘と、漁村で「異人」として扱われているアンたちも呼応する。だが、この盲目の老人は叔父だと言われ、観客は「?」と感じる。そこに、アンやメイを連れに来た男が「クレオン・レコード」社長と名乗るので、こちらが叔父のクレオンなのかなと思い、観客は混乱する。ところが、その後の種明かしによって、盲目の老人はたしかにアンの叔父(=母の兄)だが、母との近親相姦によって父でもあったことが分かる。このような「驚かせ」は、実に底が浅い。「なーんだ、そういう話か」と白けてしまう。ギリシア悲劇の「翻案」とは、こういう観念の遊びではないだろう。近親婚の秘密をもつ旅芸人を主人公にするならば、「けがれ」を恐れ忌避する民衆の心理と「よそ者」を差別する共同体の暗さとをもっと深めれば、「異人の唄」の本当の悲劇になったかもしれないのにと思う。


コロスの男たちの体をくねらせるダンスも、何かそぐわない。土居裕子純名りさは、ともに優れた歌手でもあるのだから、最後に唄わせるだけでなく、「唄」をもっと全篇に活用できなかったのだろうか。