ラドゥ・スタンカ劇場『オイディプス』

charis2015-10-22

[演劇] ラドゥ・スタンカ劇場『オイディプス』 東京芸術劇場  2015.10.22


(写真、右はオイディプス役のコンスタンティン・キリアック、金色の人物は取り憑いている亡霊のようなものか、下は松本公演のポスター、6つの小さな写真の上段右は予言者テイレシアス(女性が演じている)、中段左は、コロス=王の取り巻き、下段左の白い毛は羊飼い、総じてスタイリッシュ)

ルーマニアの国立ラドゥ・スタンカ劇場の公演、演出はシルヴィウ・プルカレーテ。2年前の『ルル』もそうだったが、「恐ろしい」雰囲気が支配し、心も凍るような舞台だった。人の叫び声を音にしたようなものが流れ、たまに挿入される短いシャンソン風の音楽も、どこかわざとらしい。そして、俳優の存在感が凄かった。4列目中央の席なので、苦しげで睨みつけるような顔ばかりずっと見ていた気がする。オイディプス役のキリアック、クレオン役のクリスチャン・スタンカはいずれもゴッド・ファーザー風の怖い顔、王妃イヨカステと王女アンティゴネ一人二役で演じる看板女優のオフェリア・ポピの視線は、いつも刺すように鋭い。そして、その他の俳優も、たとえばコートに身を固めた長身の男性は、そこにすっと立っているだけでセクシーで、ヨーロッパの舞台はたいがいそうだが、肉体そのものパワーを感じる。この劇団は特にそうなのだと思う。


衣装は現代で、オイディプスには独裁者=恐怖政治の匂いがあり、宮廷の政治性を感じさせる。チャウシェスク王朝だったルーマニアだからではないだろうが、コロス=王の取り巻きもどことなく秘密警察めいている。独裁者に都合の悪い情報が語られる場面では、眠ったように目を閉じ、見ざる・聞かざるを装う。権力者の動向に過剰に敏感なのだ。旧ソ連のコージンツェフ監督版「ハムレット」に通じる、旧東欧圏の政治権力の「暗さ」のようなものか。(写真下は、コリントスからの使者(女性)を囲むコロス、そしてイヨカステとオイディプス)

この上演は、ソフォクレスの『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』を合体させて一つの物語にしている。だが、その試みは成功したとは言い難い。『コロノスのオイディプス』をベースにして、その中に過去の出来事である『オイディプス王』を劇中劇のように挟んでいる。辻褄はそれで合うのだろうが、劇の緊密性や時間の流れ方が両作品ではまったく違うので、全体としてちぐはぐなものになった。『オイディプス王』の部分は、オイディプスが犯人であることが次々に暴かれてゆく、臨場感あふれる動的で緊密な構成なので、とてもよく分かる。だが『コロノス』の部分は、原作が、エピソードの羅列のようなところがあり、登場人物が過去を語っても、それで事態が動くということはない。この上演でも、後半の『コロノス』の部分は何が起きているのか、よく分からないものになった。その理由の一つは、アテナイのテーセウス王の影が薄く、連れ戻しにやってきたクレオンとその一派との区別がつかないからである。上演時間のために筋を単純化したのだろうが、テーセウス王とクレオンとの対立がなくなってしまったので、何がどうなっているのか分からないまま、終幕、オイディプスが消えることになる。


ソフォクレスの『コロノスのオイディプス』は、『オイディプス王』と異なり、運命との和解が大きなテーマになっており、その象徴は、アンティゴネである。老オイディプスに優しく付き沿うアンティゴネは、リア王とコーディリアを思わせるものがあり、彼女の存在そのものが、愛による和解と救済を象徴する神話的女性である。アンティゴネに支えられて、オイディプスは静かに消えてゆくという運命との和解を、この上演では明らかに希薄化している。最後の場面で驚いたのは、CGによって現代の都市の高層建築が次々に崩落してゆく9.11のような光景である。テーバイでの今後の戦争を予兆するというよりは、世界の終末の光景である。和解と救済を拒否するプルカレーテ演出のメッセージなのだろう。


補遺 :後半はよく分からなかったのだが、私の理解によれば、上流階級の男女による退廃したパーティーが行われており、その中心がクレオン。突然、パーティに参加しているダンボールで顔を隠した人物が、銃を乱射して周囲の人を射殺する。このテロリストがどうやらテーセウスらしい。原作では、テーセウス王がオイディプスを助けることが、運命との和解を助けるので、非常に違った筋立てになっているのではないか。


下記に3分強の動画があります。舞台の様子がとてもよく分かります。
https://www.youtube.com/watch?v=KrLRdjIs9Jw