アヌイ『アンチゴーヌ』

charis2018-01-21

[演劇] アヌイ『アンチゴーヌ』 新国立劇場・小劇場 1月21日


(写真右は、アンチゴーヌ[蒼井優]とクレオン[生瀬勝久]、写真下は、イスメーヌ[伊勢佳世]、彼女はアンチゴーヌの姉になっている、そして交差点のような舞台全景、人物の立ち位置によって他の人物に対する感情、関係がよく分る、小劇場なのでこのシンプルで美しい舞台は効果的)


ソフォクレス『アンチゴネー』は、後世たくさんのリメイク版が作られており、17世紀古典主義のラシーヌ『ラ・テバイード』もそうだし、20世紀には、コクトー、アヌイ、ブレヒトなどがリメイク版を創った。他に小説化したものも幾つもある。文学史家ジョージ・スタイナーによれば、この作品にはそれだけ深い主題がたくさん輻湊しているからである。アヌイ版は、ナチスドイツのフランス占領下1944年にパリで上演されたから、観客は、クレオン=支配者のナチスドイツ、アンチゴーヌ=抵抗するフランスという二重写しで観たはずである。よく検閲に通ったなとこれまで思ってきたが、今回のプログラムノートに、検閲官だったゲルハルト・ヘラー中尉はフランス文化に通暁したドイツ人で、検閲は緩かったし、彼はアヌイその人と個人的に会って、二人だけで作品について色々と議論もした、とあるので納得した。ヘーゲルは、ソフォクレス版に、神の法(=アンチゴネ)と人為の法(=クレオン)との対立を見て、アンチゴネを「神の娘」である女版イエスとみなしたが、アヌイ版はそうは受け取れない。(写真下は↓、衛兵[佐藤誓]と序詞役[高橋紀恵]、コロスを別に立てず、序詞役を中心に三人くらいが同時にしゃべるのは、うまいやり方だ)


栗山民也演出だが、昨年から『フェードル』『トロイ戦争は起こらない』と続けて観た印象では、劇の主題を明確に前景化する演出だと思う。今回は、岩切正一郎の新訳で、私が読んだ芥川比呂志訳とは少し違うが、ソフォクレス版との違いが明確に浮かび上がる訳と演出だったと思う。アヌイ版は、ソフォクレス版に比べて新しい要素をたくさん含んでいるので、それだけ複雑になっている。今回の上演で一番印象的だったのは、クレオンはとてもまともな王であり、変なのはアンチゴーヌの方だということである。クレオンは、あの状況であの立場だったら、あのように行動する他はなく、彼の言動には深い必然性が感じられる。もし自分がクレオンだったら、まったく同じことを言い、行動しただろうと思う。それに対して、アンチゴーヌは信念にも行動にも一貫性がなく、感情的で、衝動的で、かなり変な女の子という感じがする。ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』の主人公のような、思い込みの激しいロマンチックな妄想少女、メンヘラ少女なのだと思う。アヌイ版では、クレオンは何度も、「オイディプスと、その子供たちの傲慢さ」を非難する。クレオンはオイディプスの妻(+母)イオカステの兄(弟)だから、オイディプスとは血が繋がっていない。それに対して、オイディプス、アンチゴーヌ、エテオークル、ポリニスはすべて近親相姦の親子であり、近親相姦と無縁の「正常人」クレオンが、「君たち、オイディプス一族はみんなおかしい!」という対立軸が、この作品の根本だと思う。ソフォクレス版ではクレオン=悪王という側面もあるが、しかしこの対立軸はやはり伏在しており、そちらを前面に出したのがアヌイ版ではないか。ソフォクレス版にないアヌイ版の一番のポイントは、クレオンが、「エテオークルとポリニスはどちらも悪人である、二人の死体はごちゃまぜで区別がつかないから、今、晒されている死体がポリニスとは限らない」という秘密を打ち明け、アンチゴーヌは激しく動揺し、いったんはクレオンの提案を受け入れ、「はい、黙って私の寝室に戻ります」と降参するところである。ところが、それから二三分のちには、アンチゴーヌはまた翻意して、兄に土を掛けるために出ていこうとする。彼女に翻意させるようなまずいことをクレオンが言ったかどうか、私は注意して聞いていたが、そんなことは何も言っていない。(蒼井優のアンチゴーヌは、頑固で、難しいところのある、少し変な子ちゃん、をとてもよく演じていた↓)

クレオンは、「人間の人生は、幸福の小さなカケラを少しずつ集めながら、やっと成り立つのだ」とアンチゴーヌを諭す。ところが彼女は、「そんなのは嫌、私は全部を一度にほしいの、そうじゃなきゃ嫌!」と叫ぶ。どう考えてもクレオンが正しく、アンチゴーヌは間違っている。ただ、そうだとすると、アヌイ版はナチスドイツ批判にはなっていないことになるだろう。だから検閲を通ったのだろうか。今回、アヌイ版はひょっとして、サルトルが「沈黙の共和国」で述べたようなナチスドイツ批判ではないかもしれないと感じたことが、むしろ私にはショックだった。私が初めてアヌイ『アンチゴーヌ』を観たのは、たしか中学生のときで、東大・五月祭の学生演劇だった。その他、劇団四季のロングランもあり、戦後は、ナチス批判という文脈でとても人気のあった劇である。やはり占領下に初演されたサルトル『蠅』は親ドイツ派からもレジスタン派からも称賛されたというが、『アンチゴーヌ』も同様に両義的なのだろうか。検閲官ヘラーの記録によれば、アヌイ自身がヘラーに対して、「『アンチゴーヌ』がドイツ人にとっては、反ドイツを意図したものに映るにちがいないことを認めた」とあるから、レジスタンスであることは確かなのだ。ただ、フランス人がこの作品を一貫したレジスタンスとして観賞するためには、アンチゴーヌの言動の一部を頭の中で「カッコに入れて」、それは検閲通過のための「方便」の部分なのだと解釈しなければならないだろう。


この作品には、もともと、どこか謎のようなところがあり、たとえばラシーヌ版だと、クレオンはアンチゴーヌに恋をしており、それをアンチゴーヌに拒まれ、彼女も死んだので、最後にクレオンは発狂するという筋である。これも非常に変ではないか! 今回の舞台では、とても冷静で、人間味にも溢れるクレオンを演じた生瀬勝久も素晴らしかった。


京都公演の動画がありました。衣服が違います。
https://www.youtube.com/watch?v=3XJIInHjlJ4