かもめマシーン、ベケット『しあわせな日々』

[演劇] かもめマシーン、ベケット『しあわせな日々』 横浜・関内・CAVE 2月11日

(写真すぐ下は、同じ舞台の2018年3月の上演から、その下が今回の舞台、ウィニーを演じるのは清水穂奈美、原作の砂の丘を、鉄製の廃物の塊にした)

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1月24日にハチス企画の『ハッピーな日々』を見たばかりだが、こちらの萩原雄太演出も、演出に工夫があり、非常に良かった。ウィニーの科白に大きな抑揚や強弱があり、一部は歌のメロディーに乗せて口ずさむ(原作の指示にはない)。これはアフター・トークで萩原やゲスト伊藤亜紗から語られた、「身体のノリ」「身体のライブ感」による語り、そして、他者の言葉に触発されるのではなく、自己の記憶や手にしたモノによる「自己触発」による語りになっている。伊藤が「テープ起し」の例を言っていたが、我々が実際に語る言葉は、意味がすっきり伝わるように整えられた文章にはなっておらず、発話に身体がさまざまに抵抗し、滑らかには語られず、いわば「どもりながら」語るようなところがある。なるほど、『しあわせな日々』のウィニーの語りは、語られた言葉の意味を追ってもほとんど空しく、彼女がその発話で何を言いたいのか分からない。それよりは、彼女があのような語り方しかできないところに、作品の主題があるのだ。つまり、自己触発による語りにおける身体のライブ感というのが、この作品の中心主題であるという演出のコンセプト。萩原によれば、従来の安堂/高橋訳は、意味がうまく載ったコミュニケーション言語という観点からは、すばらしい日本語になった名訳だが、今回使われた長島確の新訳は、ややぶっきらぼうに、滑らかさに欠ける日本語だが、「実際の語りにおける身体の微妙な抵抗」や「語りにおける身体のノリ」を表現するためには、より適切な日本語だと言う。たしかに比べてみると、そうなのかもしれない。たとえば、ウィニー「わたしのはじめての舞踏会!・・・二度目の舞踏会!・・・はじめての接吻(くちづけ)!」(旧訳)が、新訳では「初めての舞踏会!・・・二度目の舞踏会!・・・ファーストキス! 」になっている。冒頭の「わたしの」があると、何のことを言っているのか分かりやすいが、実際の発話は新訳に近いのかもしれない。

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第二幕、普通の演出では、ウィニーは砂の中に首までつかって身体はまったく動けないのだが、この萩原版では、鉄の鎧のようなものを新たに付けるだけで、腰の高さは変らない。「首まで埋まる」という深刻さがなくなる替りに、身体の障害のさらなる進行を比ゆ的に表現しているのかもしれない。アフタートークのとき、観客の一人が「この作品は、身体障害がテーマになっているのではないか?」と言ったが、たしかに、ある程度それは言えるだろう。我々は誰しも、自分の意味したいことを滑らかに言葉にするようには、発話できない。自分の舌や口は、そのようには動いてくれない。詩のようにリズムをつけて歌う身体ライブ感に頼ったり、眼つき、手ぶり、顔の表情など、身体の動きと合わせてしか、発話ができない。舌や口が自由に動かないという点で、我々は誰しも障害者なのだ。『しあわせの日々』の主題は、そういうことなのかもしれない。そう考えると、ベケットの「不条理劇」は、いかにも現代アート的だと思う。

3分強の動画がありました。2018年3月慶応大学の上演。語り方がよく分かります。

https://www.tpam.or.jp/program/2019/?program=happy-days