宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』

charis2018-12-02

[演劇] 宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』 下北沢、本多劇場 12月2日


(写真右は、舞踏会での一目惚れシーン、palm to palm is holy palmer’s kissのところ、ジュリエット(森川葵)は若々しく初々しいが、ロミオは、引き籠りのグズ男ダメ男くん、しかも演じる三宅弘城は50才のオッサン!、写真下は同舞踏会、二人の間にいるのがティボルト、全体がドタバタ喜劇になっている!)

ロミ・ジュリは今までたくさん見たけれど、今回の宮藤官九郎演出は非常にユニークなもので、全体を完全にドタバタ喜劇・笑劇にして、その中に二人の死という悲劇部分をかろうじて埋め込むというアクロバティックな作り。ジュリエットは原作通りのキャラクターだが、ロミオが引き籠りのどーしょーもないグズ男ダメ男のオッサンになっており、二人の非対称がそれ自体笑わせる。たしかに原作も、乳母や男友達など周囲はいつも猥談や卑猥な冗談に溢れていて、だからこそロミオとジュリエットの清純な純愛が際立つのだが、ロミオその人まで完全におバカキャラにしてしまうと、劇全体が非常に違ったものになる。写真下は↓、左からベンヴォーリオ、マキューシオ、ロミオ。二人は颯爽とした青年だが、ロミオはオッサン。最初から最後までロミオだけ浮きまくっている。

乳母は原作でもノリノリのHなオバチャンだが、本作では、大公、ロレンス神父、キャピュレット、キャピュレット夫人、モンテギュー、ティボルト、パリス伯爵まで、ほぼ全員がまるでお笑い芸人のようだ。マキューシオは原作でも軽快なお調子者なのだが、本作ではそれをより一層強調して、人物造形がとても上手い。観客は、二時間余りのあいだ、ほぼ笑いっぱなしだが、さすがに最後の二人が死ぬところだけは笑えない。写真下は↓、左から乳母、ジュリエット、キャピュレット夫人、その下の写真、真ん中はロレンス神父。


ジュリエット以外の全員をお笑いキャラにして、完全な笑劇にした結果、しかし見えてくる重要な点が幾つかある。たとえば、舞踏会シーン、ロミオがジュリエットに一目惚れしたのはよく分かるが、ジュリエットがロミオに一目惚れした理由は、原作でもよく分からない。しかし本作のように、いつも弁当を持っているノロマのロミオ君が、舞踏会で、誰にも相手されず、一人で壁に座ってぼそぼそと弁当のパンを食べ牛乳を飲んでいるならば、その落ちこぼれぶりを目にしたジュリエットが、同情して、彼に惚れたというわけだ。そして、ジュリエットの周りの大人はみな、自己中のひどい人たちばかりなのだ。父、母、乳母はジュリエットを見捨てる。そしてロレンス神父も、最後までジュリエットに付き添っていれば彼女は死ねなかったのに、外から人が来るのを恐れて、墓から出てしまい、それはジュリエットを見捨てることなのだ。原作で一番疑問に感じていた点だが、ロレンス神父も軽いノリの無責任なオッサンと考えれば、合点がゆく。仮死状態の薬を飲ませたのも、たまたま思いついたアイデアを、ちょっとやってみただけ。つまり、ジュリエットだけが、自己中のとんでもない大人たちに囲まれた犠牲者で、そこだけが悲劇ということになる。さすがはクドカンの演出と言うべきか。写真下は↓、バルコニーのシーン、舞踏会[中央は踊るパリスとジュリエット、右上にぽつんと寂しく座っているのがロミオ]、そしてマキューシオ対ティボルト、どれもコミカル。