[バレエ] M・ボーン/プロコフィエフ『ロミオとジュリエット』

[バレエ] M・ボーン/プロコフィエフロミオとジュリエット』 恵比寿ガーデンシネマ 6月5日

(写真↓は、and palm to palm is holy palmers’ kiss のシーン、原作の舞踏会シーンだが、ずっと後の方に移している、その下は舞台の少年院、左はBoys、右はGirls)

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シェイクスピアの原作をプロコフィエフがバレエに作曲したもの(1938年、約150分)を、イギリスの演出家・振付家マシュー・ボーン1960~が再構成したもの(91分)。映画用に劇場で採録し、上映。バレエは、演劇やオペラと違って言葉が皆無だから、物語を踊りだけで表現しなければならない。たとえばプロコフィエフ版(私のDVDは2013年、マリインスキー劇場)では、最初のケンカ場面は、キャピュレットとモンタギューの両親父まで登場して、華々しくチャンバラ合戦をする。そこまでしなければ、両家の対立を表現できないからだ。だからプロコフィエフ原作版は、音楽は非常に美しいが、演劇やオペラに慣れた私には、150分がやや退屈に感じられる。それに比べると、91分のボーン版は、物語を大きく変えてシンプルにしたので、まったく退屈させない。両家の対立はなく、ティボルトはジュリエットにセクハラをする少年院看守。ロミオは政治家夫妻のお坊ちゃま(写真↓)。

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バレエとは、身体表現そのものを純化した様式だから、本作も、若者のたちの身体が際立って美しい。『ロミオとジュリエット』の魅力の核は、受動的で内気な深窓の令嬢だった14才の少女ジュリエットが、一気に愛の主体へと成長し、愛の舞台に駆け上がり、駆け抜け、そしてあっと言う間に死んでしまう、その疾走感にある。『ロミ・ジュリ』が大好きだったヘーゲルはこう言っている。「ジュリエットは、あたかも、薔薇の花が小葉や葉脈の隅々まで一挙にぱっと開花し、内部の樹精がとどめもなく溢れ出すように、・・・ほんのちょっと愛の火に触れたつぼみが、不意に全面開花し、あっという間に花開いたかと思うと、あっという間に散ってゆきます」(『美学講義』)。このボーン版は、まさにそれで、16歳のロミオ、14才のジュリエット、そして若者たちの跳ね回る身体が美しい。踊るジュリエットは、本当に、「薔薇の、花[だけでなく]小葉や葉脈の隅々まで一挙に開花」している。

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一つだけ不満を言うとすれば、最後のジュリエットの仮死状態を死体と思い込むロミオのシーンがないことである。プロコフィエフ原作版では、ここは、死体となったジュリエットを抱きかかえてロミオが踊る。死体を抱えて踊ることは本来は不可能なはずだが、ロミオはそれをあえてやる。手足の硬直したジュリエットの仮死体はまるで巨大な十字架のように大きく揺れる。せっかくバレエにするのだから、このシーンはほしかった。それにしても本作は、若者たちの身体の動きから輝き出る健康なエロスが美しい。バレエだからこそできる『ロミ・ジュリ』。

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2人のダンスの2分間の動画。若者の身体の健康なエロスが輝く。

https://www.youtube.com/watch?v=Q07PIjqebWs