[演劇] ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』 NTライブ

[演劇] ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』 NTライブ TOHOシネマズ日本橋 12月13日

(写真↓は、プレイハウス・シアター外観、そして第1幕)

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ジェイミー・ロイド演出、ジェームズ・マカヴォイ主演で、2019年、ロンドンのプレイハウス・シアターで上演。1882年開業、収容数786人、映像で思ったが、割と小さな劇場。原作のロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)は5幕の大作だが、恋愛と友情というエッセンスの部分を、実質150分、2幕にまとめた。マーティン・クリンプによる英語の上演台本が素晴らしい。原作も、詩人であるシラノは詩を語るが、本作は、全篇をラップの語りにして、韻(ライム)を踏んでいるので、とてもリズムカルで美しい。科白がすべて詩なのだ。役者がいちいちマイクを取るのは、歌手がラップを歌うイメージを重ねるためだろう。

 ところで、原作『シラノ』は、それはそれは美しい純愛の恋愛悲劇で、何といってもシラノその人の魅力が、この作品のポイントだ。フランスの雑誌がかつて行った「あなたに最も親しみのある文学的英雄は誰?」というアンケートに対して、男女とも回答は、シラノが一位、ジャン・バルジャンが二位、ダルタニャンが三位だった(岩波文庫『シラノ』の解説)。本作でシラノを演じたジェームズ・マカヴォイは、とてもセクシーで魅力的な男優だ。だが、鼻は大きくないし、付け鼻もしていない↓。

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本作は、第5幕以外はほぼ原作を踏襲しているが、科白はかなり変えている。原作は、愛するのは相手の肉体なのか魂なのかという対立が主題で、シラノは自分の巨大で醜い鼻に大きなコンプレックスをもっており、それゆえ、自分が密かに愛している従妹ロクサーヌを、親友のクリスチャンに譲る。ロクサーヌもまた、イケメンでセクシーなクリスチャンの肉体に惹かれて彼を愛するのだが、彼は愛の言葉をほとんど語れないので、彼女の愛を失いそうになる。それでシラノがラブレターを代筆するだけでなく、『ロミ・ジュリ』のバルコニーの対話のように、闇に隠れて、横にいるクリスチャンの代りにロクサーヌと会話してみせる。その結果、詩人シラノが発する愛の言葉があまりに素晴らしいので、彼女はクリスチャンに、「私はあなたの肉体ではなく魂を愛しているのよ、あなたがどんなに醜くなってもあなたを愛します」と言うまでになる。そう言われたクリスチャンは、彼女が愛しているのは、自分で気づいていないシラノであることを知り、絶望して、自殺に近い戦死をする。その後、修道女になったロクサーヌを15年間、シラノは友人として修道院を訪れ、慰め続ける。しかし15年後のある日、シラノは大けがをしたので、ロクサーヌが大切に持っている最後の手紙を読みたいと言う。しかし手紙をシラノが真っ暗闇で「読んで」いるので、実はシラノは暗唱していることにロクサーヌは気づく。過去のすべての手紙、そして暗闇の声はシラノだったのだ。だが彼女がそう気づいたとき、シラノは死に、終幕。(写真↓はロクサーヌ、クリスチャン、シラノ)

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原作の第5幕を、本作はかなり変えた。ロクサーヌは修道女になっていないし、「私はクリスチャンの死後、いろんな男と寝たわ」とシラノに言うから、原作の修道女ロクサーヌとはだいぶ違う。原作でも、ロクサーヌの「肉体ではなく魂を愛している」という発言を、シラノは疑っている。原作でも、愛の対象は肉体なのか魂なのかという問題の決着はついていない。本作の解釈は、愛の対象はやはり肉体だという方向だと思う。つまり、シラノは敗北したのだ。原作では、シラノの最期近くの言葉に「自分は、私心なき、恋の殉教者」とある。「殉教者」は、勝利者でも敗北者でもありうるだろう。劇作品『シラノ』の真の主題は、愛の対象が、ラカンのいう「大文字の他者」としての男性性/女性性なのか、それとも小文字の他者である「対象a」つまり肉体なのか、という難問であるように思われる。また本作は、原作の副主題でもある、表現の自由(作品への権力による検閲)の問題や、詩か散文かという文学表現の問題を、大きく前景化している点で、すぐれた構成と演出だ。

40秒の動画。

https://www.youtube.com/watch?v=bJOVgVgy0T4

[演劇] 長田育恵/瀬戸山美咲『幸福論―現代能楽集Ⅹ』

[演劇] 長田育恵/瀬戸山美咲『幸福論―現代能楽集Ⅹ』 シアター・トラム 12月8日

(写真↓は、『隅田川』終幕、左から、母になれない女、息子が自殺した老女、赤ん坊を産んで捨てた少女、三人が、少女の死んだ赤ん坊を追悼し、隅田川に祈る。その下は『道成寺』、エリートの青年と両親、三人とも、青年が捨てた少女に焼き殺される)

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能を現代演劇化した二次創作で、『隅田川』を長田育恵が、『道成寺』を瀬戸山美咲がそれぞれ劇作し、瀬戸山美咲が両方を演出。能は、その強い様式性(能面をつける、科白の少なさ、舞いによる表現)と、表現の抽象性ゆえに、あれほどの強い感情を舞台で表現できるわけだが、それを現代演劇化するならば、様式性や抽象性に頼れないので、内容の具体性だけで勝負しなければならない。つまり物語の細部を、新たに作らなければならないのだ。三島由紀夫の「近代能楽集」など、どこか「わざとらしさ」があって、失敗作だと私は思っているが、この二作は、意欲的な実験作として評価できるだろう。キャラクターを増やし、相当違った話になっているが、それでも『隅田川』や『道成寺』が表現しようとした感情を表現できていると思う。長田版『道成寺』は分かりやすく、男性の歪んだ欲望の犠牲となった女性が、男性に復讐するという主題が尖鋭に表現されている。私には、男の女への愛の欲望は、ラカンの言う「ファロス中心主義」つまり「相手を支配したい欲望」であり、それに女が抵抗している、ように見えた。傲慢なエリートの学生(東大医学部学生?)には、東大生を批判した「彼女は頭が悪いから」や今年の芥川賞破局』などと似たモチーフを感じた。ただ、主人公の学生の母が夫に復讐する話は、ややその動機が弱いように感じた。あと、冒頭の、主人公の学生が巫女を殺して「檻」が吊り上がる場面は、能の冒頭シーンの、巨大な鐘をつるす場面をなぞらえているのだろうが、繋がりがわからなかった。(写真↓は、たんに「支配したい」という欲望からのみ少女に「愛の欲望」を持つ青年、彼は両親ともども、少女に焼き殺される)

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隅田川』は、能の原作が、暗く、救いのない話であるのに対して、最後にかすかな希望を挿入したのがよいと思う。原作では、息子の梅若丸を失い狂女となった一人の母を、本作では、少女を取り調べる家裁調査官の女、息子が自殺した老女、子供を産んで捨ててしまった少女という、三人の女にキャラを分担させている。三人に増えることによってかえって強化された契機もあり、本作は、子供が生まれてくることが人間にとって最大の希望であり救いであるという、原作にはなかった契機を、長田は付け加えているのだろうか。また、原作では、隅田川の渡しが、京都から来た狂女に対して「面白く狂ってみせたら、渡し船に乗せてやろう」と言うところが衝撃的なのだが、本作では、生活保護を受けてやっと生きている老女に対して、彼女を世話するヘルパーの女が「都合のいいときだけ、呆けてみせちゃってさ」とか言って意地悪をするシーンがそれに対応するのだろうか。それにはヘルパーの女をもっと意地悪に造形する必要があると思う。あと、少女が妊娠して出産する理由と必然性があまり示されていないように感じた。(写真↓左は、生殖補助治療を受けながら妊娠せず、その苦しみを負いながら少女を取り調べる家裁調査官の女)

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[演劇] 杉原邦生・瀬戸山美咲『オレステスとピュラデス』

[演劇] 杉原邦生・瀬戸山美咲オレステスとピュラデス』 KAAT 11月30日

(写真↓は、オレステスとピュラデス、そして巡礼たち)

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ギリシア悲劇を現代に翻案した上演は多いが、本作は、舞台はあくまでギリシアのままで、内容を大きく発展させた二次創作といえる。コロスがひどく騒々しく、大音響の音楽にのって踊りまくるので、科白のやり取りや人物造形の深みがやや相対化されてしまったのは残念だが、全体としてすばらしい主題が設定された二次創作だと思う。全体の構造は、復讐の悪循環から和解と愛への回帰という、ギリシア悲劇全体の大円環を、アルゴスからタウリケへの旅という架空の直線的過程へ写像し、その過程でオレステスとピュラデスの熱い友情を描いている。原作では「オレステイア」におけるアトレウス家の和解が描かれているが、本作では、それ以上に、ギリシア人に敗北したトロイア人たちとの和解が描かれおり、アルゴスからトロイアを経てタウリケへと至る二人の旅は、この広い世界を、憎しみから和解と愛へ変えようという精神の雄大な旅なのだ。(舞台は奥行きが深く、人々は大きく動き、走り回る)

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二次創作のギリシア悲劇としての本作の最大のポイントは、トロイアの少女「ラテュロス」の造形にある(ひょっとして原作やホメロス等にモデルはあるのか?)。イリアス城の城壁から投げ落とされて殺された、ヘクトルとアンドロマケの幼児アステュアナクスの幼な馴染が少女ラテュロスで、山に避難していた彼女は戦後に焼野原になったイリアス城に戻ってくるが、ちょうどそこに旅をしてきたオレステスとピュラデスと出会う。彼女は、アステュアナクスや多数のトロイア人を殺したギリシア人に対して、復讐の感情を持っていないとオレステスに告げる。オレステスは復讐の女神たちから逃れるために、アポロンの神託に従ってタウリケへ旅しているのだが、オレステスが復讐の女神たちに付き纏われる真の理由は、彼自身が一貫して「復讐は正義」という思いに囚われているからであり、復讐の感情を持たない少女ラテュロスに対して、オレステスは甚大な衝撃を受ける。ラテュロス役の同じ女優が、前の場面では、二度も和解を頑なに拒否するトロイア人を役を演じるので、三回目にようやく訪れた和解の契機は、それだけ衝撃が大きい。ラテュロスに対して愛の感情が芽生えたオレステスは、タウリケへの旅は中止して、ここでラテュロスと結婚して暮らすと言い出す。父も故郷も捨ててオレステスについてきたピュラデスは「俺はどうなってしまうのか?」と怒り出して、二人の友情に亀裂が入り、ピュラデスはラテュロスを海に突き落として殺してしまう。ここが本作の最大のクライマックスだが、しかし不思議なことに、ラテュロスは死なずに神に救われ、一足先にタウリケにテレポートされたのだ。ちょうど「アウリスのイフィゲネイア」と同じことが起こったのだ。とすれば、オレステスとピュラデスがタウリケに着けば、そこでイフィゲネイアとラテュロスを救い出すことができ、和解と愛が実現するだろう。こうして、二人はタウリケへの旅を続けることになる。

本作が深みのある物語になっている理由の一つは、神々への懐疑である。母親殺しを命じたアポロンの神託は本当に正しいのか? 神々も結構いいかげんな存在で、人間と同様に欠点をたくさんもっているのではないか? エウリピデスオレステス』では、メネラオスは、「アポロンさまは、美と正義とを、もひとつよく存じていられない方だ」とアポロンを批判している(ちくま文庫、p372)。杉原邦生『グリークス』でも、アポロンは「ちんどん屋」、アテナは「本屋のおばさん」になっていたから、神々への批判的視点が強調されていた。ここは重要な論点で、そもそもギリシア悲劇の段階で、アテナやアポロンの「機械仕掛けの神」の登場によって、和解が唐突に強制的に実現することに対する違和感は、かすかに存在したはずだ。もし神々に頼らずに、人間自身の力だけで和解と愛を達成できたら、その方がよりよいのではないか? ゲーテによるリメイク版『タウリスのイフィゲネイア』ではアテナは登場せず、人間だけの力で和解と愛が達成される。本作もまた方向としては同じであり、少女ラテュロスによって和解と愛が達成される。彼女はオレステスを救済するだけでなく、すべてのギリシア人とトロイ人を救済する、愛のアレゴリーなのだろう。彼女は人間の無邪気な少女だが、その存在の本質は、アンティゴネやコーディリアとよく似ている。それだけに、ラテュロスがピュラデスに殺される最終場面の「トロイア」は、大音響の音楽コロスにすぐ回収せず、もっと丁寧に場面を造形してほしかった。それと同様に、最後、プロメテウスが登場し、彼が人間に与えた「火」は憎しみの象徴であり、「鎮めることはできるが消すことはできない」と戒めるシーンは、どうなのだろうか? メタレベルで大きな文脈を設定するので、全体が分かりやすくなった効果はあるが、不要ではないのか。というのも、神々抜きで、人間だけの力で、和解と愛が成就するというのが、ギリシア悲劇脱構築する二次創作の、目指すべき方向だと思うからだ。(写真は二人と一緒に旅する巡礼たち、彼らはコロスを兼ねる) 

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動画

https://twitter.com/kaatjp/status/1333009174687408129

今日のうた (115)

[今日のうた] 11月ぶん

 

  • まぶしいと言えないままにすぎてゆく日々へわたしを運ぶ地下鉄

 (高山由樹子「灯台を遠く離れて」、『歌壇』2019年2月号、作者1979~は第30回歌壇賞受賞、通勤途上の地下鉄車内で揺られているのか、もうすぐ駅に着いて明るい地上に出るはずだが、最近の仕事を思うと暗い気持ちに) 11.1

 

  • 地に降りるまえに身体を縦にするすべての鳩は脚を揃えて

 (椛沢知世「切り株の上」、『歌壇』2019年2月号、作者1988~は第30回歌壇賞次席、飛んできたハトは地に降りるとき、ぐっと足を延ばして突っ張る独特の体勢を取る、ひょっとして、仕事の成果を一つ提出する自分の姿に重なるのか) 11.2

 

  • ごめんねという風もあり芒原

 (柳本々々「東京新聞俳壇」11月1日、石田郷子選、「ごめんねという風とはどんな風だろうか。芒の穂がちょっとうなづくような風か。そんな想像をしているとさまざまにそよぐ芒原が見えてくる」と選者評、なるほど) 11.3

 

  • 冬らしき冬との予報ふと安堵

 (中嶋陽太「朝日俳壇」11月1日、稲畑汀子選、「冬らしい冬になるという予報に安堵する作者。心構えが万全である」と選者評、最近は気候変動のせいか、季節の中味が微妙に狂ったように感じられることも多い) 11.4

 

  • 掛け時計を取り外しても幾度となく薄い影を見上げるような日々

 (瀬戸口祐子「東京新聞歌壇」11月1日、東直子選、「もうそこにないのに長年の癖で掛け時計のあった場所をつい見上げてしまう。その瞬間、時計は存在している。命の記憶の喩としても響く」と選者評) 11.5

 

  • 「わかるよ」と軽く言はれてつまらなくなつた気のする僕のかなしみ

 (佐々木義幸「朝日歌壇」11月1日、永田和宏・馬場あき子選、「悲しみは誰かにわかってほしいと思う半面、わかるよなどと簡単に言って欲しくはない」永田評、「よく経験するわかってくれる友人への複雑な心理」馬場評) 11.6

 

  • 有明は思ひ出(い)であれや横雲のただよはれつるしののめの空

 (西行『新古今』巻13、「後朝の朝にまだ月が残っているのは、いいなあ、前にも思い出があるんだ、あのときは、夜明けの空に横雲がただよっていた、だから僕もぐずぐずとなかなか帰らなかった」、作者の出家前の恋の回想か) 11.7

 

  • 秋風にあふ田の実こそ悲しけれわが身空しくなりぬと思へば

 (小野小町古今集』巻15、「ああ、秋の強い風に、田に実った稲の実があんなに吹きまくられているのは、何て悲しい光景でしょう、まるで、貴方に飽きられて棄てられた私の苦しみを見ているようだわ」) 11.8

 

  • 吹き結ぶ露も涙もひとつにてをさえがたきは秋の夕暮

 (式子内親王『家集』、「秋の夕暮はなんて悲しいのでしょう、強い風に吹かれた水が玉となって露が結んでいる、抑えがたく涙が溢れて、露と一つになってしまったかのように」) 11.9

 

  • 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きてはや見む

 (よみ人しらず『万葉集』巻11、「君は僕を、まだかまだかと待っているよね、僕が君の家に着いたときの、君のあの嬉しそうに微笑む姿、ああ、早く見たいよ見たいよ!」) 11.10

 

  • 北しぐれ野菊の土はぬれずある

 (橋本多佳子、京都の醍醐寺で詠んだ句、地元の人が「北しぐれ」と呼ぶ初冬の雨、さっと降ってすぐ止んだのだろう、「野菊の土はぬれずある」がいい、今日は立冬)  11.11

 

  • 燭寒し身も世も愛の濃かれども

 (飯田龍太1947、27歳の作者は、山梨県の山村・境川村で、小さな長女や蛇笏ら両親とひっそりと暮す(=「愛は濃い」)、そうした中、長兄に続いて三兄の戦死の報も届く、「室内の明りも寒く感じる」冬) 11.12

 

  • つひに吾れも枯野のとほき樹となるか

 (野見山朱鳥、作者は、結核で療養している日々の多い人生だった、これは最晩年の句、ベッドに横たわりながら死が意識される、枯野の「とほき樹」を見ているのは自分だろうか、それとも後に残された人々か) 11.13

 

  • 視界ゼロの霧のむこうに誰かいて排卵のようなさよならをいう

 (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、面白い歌だ、ニワトリとは違って人間の排卵はもちろん見えないし、本人にも分らない、霧の向こうに誰か女性がいて、ニワトリが卵を産むように、「さよなら」と大きな声が押し出されたのか、それとも、ほとんど聞こえないくらいの小さな声がしたのか) 11.14

 

  • 運転中眠くなったら両親の本気のキスを想像してみる

 (田島晴『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「衝撃的な一首。うわっ、となって目が覚める。気持ち悪くて。「本気の」が効果的」と穂村弘評、「両親の本気のキス」を目撃してショックを受けたのは、子供の頃か、それとも高校生くらいなのか) 11.15

 

  • サザエさん』の時間に少し愛し合うとっても不思議な日曜だった

 (柳本々々・男34歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「「サザエさん」の世界には愛し合う成分はゼロなんじゃないか。だから、その画面を見ながら「愛し合う」自分たちが不思議な生き物のように感じられるんだろう」と穂村弘評) 11.18

 

  • 目薬をさす君のからだが無防備になる瞬間に恋に落ちたよ

 (大西ひとみ・女・51歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、若い人の歌ではない、作者は51歳の女性、「君」は何歳くらいの男性だろう、それとも夫に向かって遠い昔のことを語っているのか) 11.19

 

  • 掘りごたつに足をぶら下げ合っている打ち上げ 遠い人ほど笑う

 (鈴木晴香・女・34歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、「いつも遠い方の席の方が盛り上がっている、感じがする」と作者コメント、打ち上げでそういうことはある、自分や並びは、ただ静かに「足をぶら下げ合っている」だけ) 11.20

 

  • 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな

 (西行『新古今』巻17、「風になびく富士の煙が虚空に消えて行方が分からないように、恋が終わってしまった今、私の貴女への思いはいったいどこに行けばよいのでしょう」) 11.21

 

 (虚子1893、虚子19歳のときの句、「吉田虚桐庵」と前書があり、当時京都の三高に在籍していた虚子は河東碧梧桐と仲良しで、一緒に住む下宿を「虚桐庵」と称していた、もっとも初期のこの句も、ゆったりと柄の大きないかにも虚子らしい句) 11.22

 

  • 夕焼けて寒鮒釣も堰の景

 (水原秋櫻子『葛飾』1930、夕焼けを背景にして、堰全体が黒いシルエットのように見えるのか、ぽつんぽつんと「寒ぶな釣り」の人の影が黒くまばらに並んでいる、あるいは夕焼けの光が明るく当たっている釣り人の背中を見ているのか、いずれにしても「堰の景」となっている) 11.23

 

  • 月光の壁に汽車来る光かな

 (中村草田男『長子』1936、消灯した後の室内か、カーテンが薄く、窓から入る月光によってかすかに光っていた壁が、ちょうど通った汽車の光でぐっと明るくなった、今でも、自動車のヘッドライトが当たってこうなることはよくある) 11.24

 

  • しぐれきて仏体は木に還りける

 (加藤楸邨『寒雷』1939、「飛鳥仏」と前書、しかも前の句によると、夜に懐中電灯を当てて見ている、素朴な木彫りの仏像が少し雨の当たる位置に置かれているのか、古い仏像なので、時雨に濡れてただの木に見える) 11.25

 

  • 秋没日(いりひ)美しき顔しかめつゝ

 (山口誓子『晩刻』1946、せっかくの美しい秋の日没なのに、連れの女性は「美しい顔をしかめている」?、もちろん理由はいろいろありうるだろう、11月末から12月初頭にかけてが、日没時間が一番早いという、冬至よりも早く日が暮れる) 11.26

 

  • 枯野行く美人をしばし眺めたり

 (永田耕衣1948『驢鳴集』、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(芭蕉)、「大とこ[=高僧]の糞ひりおはす枯野かな」(蕪村)以来、「枯野」はたくさん詠まれてきたが、「美人」と取り合せたこの句は名句、異色の要素の取り合わせこそ俳句の生命だから) 11.27

 

  • 夜業人(やぎょうびと)に調帯(ベルト)たわたわたわたわす

 (阿波野青畝1934『國原』、「調帯[しらべおび]とは、工場などで機械の一方の軸から他の機械の軸へ動力を伝えるベルト、いかにも昔の町工場らしい光景、「ベルトたわたわ/たわたわす」という7・5の調べも快い) 11.28

 

  • 置きざりにして来りけるものありと思ひいづれば京の夢ひとつ

 (斎藤茂吉『つきかげ』、1948年秋、64歳の茂吉は京都から山陰に旅し、東京に帰宅して詠んだ歌、旅のあと何か置き忘れてきたような気がするが、それは、思い出してみれば、京都で見た夢だったと気づいた) 11.29

 

  • しづかなる水平線をさかひとし海より遠きそらの夕雲

 (佐藤佐太郎1976『天眼』、水平線は、空と海が「そこで出合っている」線だけれど、たぶんそこにおける空は海よりもずっと遠くが見えているはず、その遠近を佐太郎は「海より遠き空の夕雲」と詠んだ) 11.30

[演劇] 唐十郎『唐版・犬狼都市』

[演劇] 唐十郎『唐版・犬狼都市』 梁山泊公演 下北沢・紫テント   11月21日

(写真下は、紫テントの内側から見える下北沢(私の生まれ育った町)、中央高い所が下北沢駅、上演中も換気は十分なので8時過ぎには座席は寒くなってきた)

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唐十郎を見るのは『秘密の花園』『少女仮面』に次いで三つ目だが、『犬狼都市』はいかにも“アングラ劇”らしい熱気に満ちている。テントも満席で、熱気ムンムン。唐の演劇は、どうしようもなく猥雑で、怪しい雰囲気とチープな感じがいいのだから、やはりテントが似合う。1979年の初演も新宿西口公園の紅テントだったし、芝居小屋向きで、高級劇場にはそぐわないのだ。今回は、もと状況劇場にいた金守珍が創設した新宿梁山泊の公演で、紫テントというわけ。俳優は、演出を兼ねる金と、水嶋カンナの他は新人が多い。原作は澁澤龍彦の小説で、「都市の汚物がしみ込んだ地下の世界」(金守珍)。さらに元のネタは、エジプト神話か何かの、犬狼族と魚族の戦いという物語。「ファラダ」という犬を人間の男女が追跡するのだが、人間も犬のようになって地べたをクンクン嗅ぎまわる。架空の地下鉄駅が舞台で、そこから地下に繋がっている。犬のおかげで、駅がある東京「大田区」が「犬田区」になってしまう荒唐無稽な話だが、私は1962~64と2年半、大田区に住んでいたので、蒲田駅大森駅周辺の街のあの何となく汚いチープな感じをよく覚えており、この舞台の「犬田区」はそんなところなのかも。狂犬がまだ街にいるので、管理する保健所の職員の田口呆(宮原奨伍)と、彼の恋人でバーの女(?)のメッキー(水嶋カンナ)が主人公(写真下↓)で、この二人はとてもよかった。他もすべて怪しい人物だが、ムンムンした熱気が舞台に横溢している。劇はミュージカル仕立てで、歌、音楽、踊りがいかにも昭和風。奥山ばらばの踊りがすごくよかった。『少女仮面』がそうだったように、唐の演劇は、どうしようもなく猥雑で下品でチープなものの中から最後にスーッと清らかな美が立ち現れるのがいい。本作も、終幕直前に、犬に嚙まれて血まみれになったけれど、若い二人の純愛がとても美しく輝いた。

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練習版ですが、動画が。

https://twitter.com/SRyozanpaku/status/1324540089683173378